第33話 たすけて


「はぁー……極楽じゃー……」


 その日の夜。

 あたしは秘蔵のお高い入浴剤を開封し、湯船で至福の時間を過ごしていた。


 ――天城さんが、折村くんの想いに気づいた。


 これは人類にとっては小さな一歩だが、あたしにとってはブルジョアへの大きな一歩だ。


 今日の彼女はすごかった。

 本当にすごかった。


 かつてないほどオーラマシマシで、あの写真が雑誌の表紙を飾った日にはバズり散らかすこと間違いなし……!! そして念願の交際に発展すれば……ぐふ、ぐふふふっ!! 勝ったな!!


「お金持ちになったら何しようかなー! 何買おうかなー!」


 まずはバカ親父が残した借金を返すでしょ?

 回転寿司でお皿の色を気にせず食べちゃうとかもできるよね!

 出前館とかウーバーイーツで、素うどんとか頼んでも罪悪感なくなるとかやばくない!?


 あぁ~~~~!! 早く付き合ってよあの二人ぃ~~~~!!

 あたしを金持ちにしろぉ~~~~~~!!!!


「…………ん?」


 ピンポンとチャイムの音。

 時刻は午後八時。宅配が来る予定はない。


 ……こんな時間から誰だ?


「天城さーん、出なくていいから無視しといてー!」


 浴室の扉を開けて叫ぶと、わかったと小さく返事が来た。


 どうせよくわからない勧誘だろう。

 防犯的にも、無視が一番いい。


 ――ピンポーン。


 またしてもチャイムが鳴る。

 しつこい勧誘だな。


 ――ピンポンピンポンピンポン。


 そう思っていたら、今度は連打。

 ……い、いやいや。これ、流石におかしくない? 大丈夫?


「天城さん。あたしが出るからちょっと待っ――」


 もしかしたら、近所で何かあり緊急の連絡かもしれない。

 火事とか強盗とか、あり得る話だし。


 そう思って浴室から出かけた、その時――。


 ガシャアアアアアアン!!


 玄関の方から凄まじい音。

 身体にバスタオルだけ巻いて廊下に出ると、黒服二人が無理やりこじ開けた扉から家に入って来ていた。信じられない光景にギョッとしていると、あとから見知った男性が視界に飛び込む。


「手荒なことをしてしまって申し訳ない。来栖を迎えに来ました」

「は、はい……?」


 そこにいたのは、天城さんのお父さん。

 相変わらずのヤクザの大親分のような雰囲気に気圧されていると、黒服二人が家の中に入って行き天城さんを捕縛した。


「ちょ、ちょっとなに!? えっ、お父様!? どうしたここに……!?」


 困惑する天城さん。

 抵抗も虚しく家の外へ連れて行かれ、バタンと車に詰め込まれる。


「来栖は海外に連れて行きます。仕事も辞めさせます。急ですが、ご理解ください」

「……えっ? い、いやいや! 困りますよ、そういうの!」


 何が何だかわけがわからないが、今天城さんに辞められてはあたしの夢が叶わなくなってしまう。

 それはまったくもって、受け入れられるものではない。


「大体、このこと折村くんは知ってるんですか!? 二人は好き合って――」

「あの男の話はしないでください」


 ジロリと捕食者のような目で睨まれ、あたしは出かかった言葉を飲み込んだ。

 天城さんのお父さんはコホンと咳払いし、胸ポケットから何かを取り出す。


「モデル業の違約金、扉の修理費、迷惑料……色々あると思いますが、どうぞこちらを」

「な、何ですか、これ……?」

「小切手です。遠慮なく好きな額を書いてください」

「……」

「では、私はこれで。今まで娘がお世話になりました」


 そう言って一礼し、家を出て行った。

 手元に目を落とすと、そこには金額が未記入の小切手が。

 

「……す、好きな額? マジで?」


 天城さんの家の金持ち具合は、あたしもよく知っている。

 仮にここに十億と書いても、ぽんと支払ってくれるだろう。


 ……いいの?

 ブルジョアへの階段、爆速で駆け上がっちゃっていいの……!?


「ふ、ふへへ。遠慮なく好きな額かぁ……どうしよっかなぁ……」




 ◆




「これは一体どういうこと……? 帰して。今すぐぼたんのところに帰して」

「ダメだ」


 運転席と助手席に黒服。後部座席には、私とお父様。

 まったく状況が掴めず横目に睨むと、いつもと変わらない冷めた声が返ってきた。


「これ、どこに向かってるの? 明日、普通に学校あるんだけど」

「空港だ」

「……は?」

「今夜、この国を発つ。安心しなさい、諸々の準備は整えておいたから」

「い、いやいや、何で!? 仕事は、学校は……あ、新は!? 新はこのこと知ってるの!?」


 昨日、ようやく彼の気持ちがわかったばかり。

 こんな意味不明な形で離れ離れなど、受け入れられるわけがない。


「仕事は辞めてもらう。学校はこっちで何とかする。新くんのことは……忘れなさい」

「はぁ!? そんなことできるわけ――」

「来栖っ!!」


 お父様は口下手で顔が無駄に怖いが、大きな声を出すようなタイプではない。


 だからこそ、その絶叫に私は黙った。

 お父様の目は、いまだかつて見たことがないほど悲しい色をしていた。


「私は……っ! 私は、お前には幸せになってもらいたい……っ! でもな、私の力ではどうにもできないことや、どうしたって手に入らないものもあるんだ……っ!」

「な、何を言ってるの……?」

「……新くんのことは忘れなさい。それと今後、彼には一生会うな」

「っ!?」

「私を恨むといい。でも、これだけは忘れてないでくれ。私は……いつだってお前のことを愛している」


 今にも泣きそうな顔をしているが、本当に状況がまったくわからない。

 ひとまず、新に連絡しないと。


 ――と、メッセージを打ち込み送信したその時、お父様がひょいと私からスマホを奪う。


「彼のことは忘れろっ!! 私だって新くんとは仲良くなりたかったが……くそっ、現実はそう上手くいかないんだっ!! その先にあるのは絶望なんだっ!!」


 お父様の獣じみた目から、一筋の涙が流れ落ちた。

 私が呆気にとられる中、「キャッチボール、したかったなぁ……」と弱々しい声を漏らす。


 ……一体何がどうなっているのか、まるで理解できない。

 ただ、お父様は冗談を言うタイプではないし、雰囲気的に本当に私を海外に連れて行くつもりなのだろう。


「新……っ」


 無意識にこぼした声は、車のエンジン音に掻き消された。




 ◆




 今日も今日とて、俺は家に一人。


「よーし、こんなもんか」


 明日も学校があるので、来栖に渡す弁当の仕込みをしていた。

 ひと通り作業が終わり、エプロンを外してリビングへ。ふっと息をつきながらソファに倒れ込み、天井を仰ぐ。ボーッとする頭の中を、昨日の記憶が流れてゆく。


「……来栖、可愛かったなぁ……」


 つい口に出してしまい、恥ずかしくなって周囲を見回す。

 誰もいないことはわかっているが、少しだけ不安になる。


 ……来栖と付き合いたい。


 もっと気兼ねなく、可愛いと言いたい。

 好きだと言いたい。彼氏として、来栖に触れたい。


 でも、どうすれば気を引けるのかわからない。


 昨日は泉さんのアドバイスを忠実に守ったつもりだが、あれで好感度が上がったのかどうか。

 ゲームみたいに数字が出てきたらいいのにと、今は切実に思う。


 ――ブーッ。


 スマホのバイブ音。

 画面に目をやると、それは来栖からのメッセージだった。


 来栖を好きだと意識した今、こうして画面に彼女の名前が表示されるだけで少し嬉しい。単純なやつだなと自嘲しつつ、メッセージの文面に意識を移す。


【たすけて】


 そのたった四文字が目に入った瞬間、俺は雷撃に打たれたように飛び起きた。

 すぐさま電話を掛けたが、一向に出る気配がない。


 ……助けて? 助けてって何だ?

 来栖の身に何かあった? それで俺に連絡したのか?

 なのに、どうして電話には出ないんだ?


 頭の中を埋め尽くす疑問符。

 不安が心拍数を上げるが、冷静さを欠かないよう深呼吸し何とか平静をたもつ。


 焦るな、俺。

 今一番焦ってるのは、俺に助けを求めてきた来栖なんだから。


「……ん?」


 家に近づいて来る、けたたましいエンジン音。

 それは家の前で停まり、同時に俺のスマホが鳴った。


『もしもし、折村くん!! 今、家にいる!?』

「え? いやそれより、来栖が――」

『天城さんが大変なの!! 早く家から出て来て!!』


 いまだかつて聞いたことのない剣幕でまくし立てられ、俺は家を飛び出した。


 そこにいたのは、バイクに跨る泉さん。

 渡されたヘルメットを被り後ろに座ったところで、バイクは勢いよく発進する。


「さっき、来栖から助けてって連絡があったんです! それについて、何か知ってるんですか!?」

「それが実は――」


 総一郎さんがいきなり家に来たこと、小切手を残して来栖を連れ出したことを、泉さんの口から聞いた。今日の報告会で何か粗相をしたのかと尋ねられたが、まるで身に覚えがなく俺は首を捻る。


「来栖は……はい、確かに空港に向かってるみたいですね」

「じゃあ、本気で海外に連れ出そうとしてるってこと!? 何考えてるの、あのお父さん!?」


 信号待ちの間、スマホで来栖の位置情報を確認した。

 ストーカーなど何かあった時のため、お互いの場所を把握できるようにしておいて助かった。


「総一郎さんのことはわかりませんが……それより、泉さんはいいんですか?」

「何が?」

「い、いやだって、会社の経営が危ないってのは前々から聞いてましたし。そんな小切手渡されたなら、俺に知らせず来栖を渡しちゃう道もあったんじゃ――」

「バカ言わないで!!」


 信号が青に変わり、バイクは轟音を鳴らして発進した。


「天城さんには今まで通り仕事してもらって、扉の修理費と迷惑料は別で請求したら二重で儲かるじゃん!! 一回ポンとお金もらって、それで満足するようなタマじゃないのよこっちは!!」

「……泉さん……」


 夜闇を裂く爆音にも負けない大人の汚い絶叫に、俺は緊張感も忘れてぽっかりと口を開ける。


「それに――」


 と、声を弾ませて。


「天城さんと折村くんのことは、二人がランドセル背負ってる頃から知ってるんだよ!? そんな二人の関係が、こんな訳のわかんない終わり方とか見過ごせるわけないでしょ!! あたしはうちのバカ親父と違って、大人としての筋は通す女なの!!」

「い、泉さん……!!」


 風に巻かれて揺れる亜麻色の髪。

 小さな背中からは想像もできない大人としての大きさに、俺はハッと息を飲んだ。


――――――――――――――――――

 ちょっと不穏な展開(なのか?)ですが、私はハッピーエンド至上主義でいちゃらぶ大好きマンなのでご安心くださいませ。

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