第3章:恋と、復讐。

第1話:大事な人

前回までのあらすじ:

 紅仁との約束の日、専門学校の裏庭に呼び出された桜良。紅仁に答えを聞かれるものの、答えが出せないままになってしまった。紅仁に服をつかまれる中で桜良は、自分のオーバードーズを始めたきっかけを思い出していた。

中学生の頃、容姿を批判ばかりしていた母を見返そうと桜良は、懸命に勉強する。結果は出せたものの、一言も褒めてもらえず、母は仕事で外に出ていってしまう…。何かが壊れた桜良は、テーブルの上に乗っていた頭痛薬を過剰摂取してしまうのであった。

 「オーバードーズしていなければ、何かが変わったのかな…」と思い返す中で、自分の泣き顔を覗き込んできた紅仁を突き飛ばしてしまう。怒らせてしまい、殴られる直前……助けに来たのは、いつもと様子が違う空であった。「オーバードーズしてるとか、そんなこと関係ない。一生懸命生きてる桜良に惚れたんだよ!」という空からの桜良への告白により、紅仁はその場を去るのであった。

 その日の夜、桜良は荷物を持ち、家を出ていく。予め下調べをしておいた、野宿する場所に着いたものの、桜良はその場に倒れ込んでしまうのであったーーー。


**********


 寒い………悲しい………。


 あれ、私、何してたんだっけ………。



 ああ、そうだ。さっきピアノ教室が終わって、家帰って………。だけど………。


『知らない子』


 お母さんの言葉が、頭の中で反芻される。知らない男の人といた。私のことを、そう言った。冷たい目で。それで、家を飛び出したんだった………。


 服装は、学校帰りそのままピアノ教室に行ったから、中学校の制服のまま。長袖なはずなのに、上着も着ているはずなのに、寒い。スマホを握ったままの素手が、久しぶりに降る雪のせいで冷たすぎて、感覚がほとんどない。


「あれ、桜良…?」


「…そら………?」


 ただのんびりと歩いていたら、街灯の下に空が立っていた。私と同じ制服を着て、さっきピアノ教室で会った時と同じ格好をしている。


「どうしたの?」


 空が聞いてくる。


「そっちこそ…。そんなとこで、何してるの?」


「いや……寒いから、コンビニ行こうかと思って、新作のコンビニスイーツ調べてた」


 スマホの画面をこっちに向けて笑う。私は笑えなくて、下を向いた。地面は、もうアスファルトが見えなくなるくらいに真っ白になっていた。


「…ねぇ、桜良」


「…なに?」


「少し、散歩しない?」


 私の返事を聞く前に手を握って、真っ白な地面の上を歩きだした。


 ただ何も言わずに、お互い歩幅を合わせて歩いた。寒いはずなのに、お互い、途中で手を離すこともなく、歩いた。


 途中で、公園のベンチに座った。冷たかったけど、気にならなかった。空が、自販機で温かい飲み物を買ってきてくれた。


「お母さんがさ」


 空が、夜空を見上げて言う。


「いくら雪が降ってても、真っ暗で悲しくても、絶対に、空は晴れる………って」


 その空の顔は、どこか、寂しそうだった。


 帰り、マンションの部屋の前で、いつも通り、「じゃ」とだけお互い言った。


 ガチャリと鍵の開く音。…ドアノブを捻る音。


「…


 聞こえないように、つぶやいた。


**********


 目から涙がこぼれてきて、目の横を流れていく。


「ゆ、め………?」


 いや、夢のようで夢じゃない。これは、確実に過去の私だ。前にも思い出したことがある。なんで忘れていたのか今となっちゃわからないくらい、鮮明な記憶…。


 ようやくそこで目が開いて、私は驚きのあまり声が出なくなった。そこには、見慣れない天井があった。とりあえず、何がどうなっているのかを考えようとする。だけど、酷い頭痛にそれは遮られた。


「あ、起きたよー」


 急にドアが開いて男の人が入ってきた。少し丸みのある目に、耳くらいまでの短髪。他の女子が見たら、可愛い系のイケメン…と言うであろう顔をしている。ドアを押さえている左手の薬指には、銀色の指輪が光っていた。


 お母さんの愛人………ケントさんじゃないことはわかっているはずなのに、体が思わずこわばってしまう。何を言ったらいいかもわからずに、ただ下を見て布団を見つめることしかできなかった。


「怖がらなくても大丈夫だよ」


 私が寝ているベッドの横にある椅子に座って、彼はそう言う。優し気な声がしたけど、信用は全くできなかった。状況が余計理解できなくなると同時に頭がものすごく痛くなって、思わず頭を押さえる。


「そんなこと言っても、桜良ちゃんが怖がっちゃうだけでしょ」


 そんな中聞きなれた声がして、頭を押さえながらも顔を上げた。


「みさき、せんぱい………?」


「あぁ、よかった、目覚めて……」


 そこには、いつも通り髪をポニーテールにまとめた美咲先輩が立っていた。さっきの男性の横に座って、安心したかのように目を細めた。


「あの、ここって………」


「ここ、私のマンションの部屋。…正しく言うと、私たち、か」


「美咲…一瞬、俺のことないがしろにした?」


「ああ、一応、こっちが私の旦那」


「一応って………まあ、いいや」


 男性は、頭を掻きながら、私に向きなおった。


「俺、及宮遥輝おいみや はるき。桜良ちゃんのことは前から美咲から聞いてる」


「はるき、さん…」


「全然、好きな呼び方でいいからね。俺は…桜良ちゃんでも大丈夫かな?」


 首をかしげながら言う遥輝さんに、小さくうなずいた。「ありがとう」と、笑顔で返してくれた。


「桜良ちゃん、ちょっとごめんね」


 美咲先輩がそんな私たちの様子を見て、安心したようにふっと表情を緩めた。私に近づいてきて、大きくて優しい手が、私のおでこに触れる。


「うん、やっぱり、まだ熱いな…。ゆっくり休んだ方がよさそうだね……」


 私、熱あるんだ……と、ようやくそこで気づいた。頭が痛いのもこのせいか、と納得する。


「よかったらこれ、食べて」


 そう言った美咲先輩は、小さな土鍋を鍋敷きと一緒にベッドの横にあるテーブルにのっけた。蓋が開けられると、湯気と一緒に優しいにおいがした。


「おかゆ、食べれる?」


 そう言われて、小さくうなずいた。「よかった」と、先輩が小さく笑う。


「うまそ、俺も食いたい」


「ハルくんの分はないよ。桜良ちゃんの分しか作ってないから」


 「ちぇっ」と悔しそうにしながらも、「ゆっくりしていってね、桜良ちゃん」と言いながら部屋を出ていった。


 いまだに状況が呑み込めないのと、頭が痛いことで、うまく頭が働かなかった。横のテーブルからは変わらずいいにおいがしたけど、手を伸ばして食べる気にはならなかった。


 しばらく沈黙の時間が流れた後、先輩が口を開いた。


「もし冷めちゃったら温め直すから、いつでも言ってね」


 私の目線に合わせて、優しい目でそう言ってから、遥輝さんと同じように部屋を出ていった。ドアが閉められる音が、遠くの音のように聞こえた。


 ゆっくりと、部屋を見渡す。土鍋が載っている同じテーブルに、私のスマホが置いてあることに今更気づいた。もしかしたら、お母さんから連絡来たりしてるのかな……とも思ったけど、見る気にすらなかった。


 急にギュルルという大きな音が聞こえて、思わず目を見開いた。少しの間わからなかったけど、すぐに自分のお腹から鳴ったのだとわかった。難しいことを考えずに、空腹に操られるように土鍋からスプーンを手に取って、おかゆを口に運んだ。まだ冷めてはいなかったぽくて、口の中に温かさが広がった。


「おいしい……」


 そうつぶやいて、無意識のうちに次々と口に運んだ。途中から不思議なことに、しょっぱい味がした。……涙が、止まらなくなった。愛情のこもった料理なんて、一度も食べたことがなかった。食べた記憶なんてない。


 けどここからは、愛情のこもった、優しい味がしたーーー。


**********


「うん、すっかり熱下がったね」


 美咲先輩が体温計を見て言う。この家に来てから3日経って、私の熱は下がった。ということは……。


「本当に、ありがとうございました。それじゃあ………」


 …寝込みながら、ずっと考えてた。

 先輩には、大事な人がいる。美咲先輩のその大事な夫婦生活を、邪魔するわけにはいかない。…邪魔したくない、って。だから………


「待って」


「…え?」


「どこに、行こうとしてるの?」


 私の考えも行動も読んだかのように、ベッドから立ち上がった私を先輩が呼び止めた。私は、何も言えなかった。先輩の顔があまりにも寂しそうな、今にも泣きそうな顔をしていたから。


「あのね、桜良ちゃん」


 申し訳なさそうに腕を離して、寂しそうに呟いた。


「私、桜良ちゃんが薬の過剰摂取………オーバードーズしてること知っちゃってて………」


「…………」


「桜良ちゃんの身に何があったかとか、詳しいことはわからないけど…自分の身も、心も、殺さないで……」


「………っ…」


 美咲先輩の目にはもう涙がたくさん溜まってて、今にも溢れてきそうなくらいだった。初めて見るそんな先輩の顔に、言葉を失った。


 …私は、全てを話した。オーバードーズしてること、お母さんのこと。お母さんの愛人のこと、紅仁くんのこと、空にもオーバードーズがばれていたこと…。本当に、全部話した。先輩と遥輝さんは、その間ずっと、黙って聞いてくれていた。



「………」


「………」


「………」


 話し終わった後、部屋全体に沈黙が続いた。耐えきれなくなって、私は一番最初に口を開いた。


「あの……」


「ふざっけんなっ!!」


 直後に、遥輝さんが急に大声で叫んだ。思わずびっくりして、先輩と私は体を震わせてしまう。


「ハルくん、うるさい!」


「だって、なんなんだよ!その紅仁とかいうやつも、母親もっ!!めっっちゃ腹立つ……」


「…ごめんね、桜良ちゃん。ハルくん、こういう人だから…」


 その先輩の言葉に、遥輝さんは自分の態度に後悔したようにため息を吐いて、私の方を向いた。


「俺は、美咲が大事にする人は大事にする主義なんだよ…」


「だから、桜良ちゃんが傷つくところも見たくない」


**********


 それは、数年前の春の日だった。


「ただいま……」


「あ、おかえり、美咲」


 俺の妻……美咲が、働き先のカフェから帰ってきた。だけど、いつもより元気がない声に、俺はすぐに気づいた。いつもなら、もっと元気に帰ってきてソファにもたれかかるのに、今日は力が抜けたかのようにソファに座り込んでしまった。


「美咲……?どうした……?」


「桜良ちゃん、ODしてるかもしれない……」


「え、ODって…オーバードーズ、だっけ…?…え、桜良ちゃんが…?」


 その子のことは、美咲からいつも聞いていた。カフェによく来てくれる子で、今は美咲が働くカフェの店員。そして、美咲が妹のようにかわいがっている子。


 そんな子が…?


「…なんで、そう思うの?」


 少し考えるように黙ってから、ゆっくりと口を開いた。


「他の学生さんとかも来るんだけどね、桜良ちゃんはなんか、どこか違うの……。一生懸命働いてくれてるのに、どこか悲しい目してて、時々ボーッとなってるような……」


「そ、っか……」


「あとね、私、見ちゃったの……」


「…なにを…?」


「私、今日帰りに看板片付けてきたの。そしたら、近くの公園で薬飲んでるところ見えちゃって…。街灯のせいで手の上まで見えちゃったんだけど、白い錠剤が明らかにたくさん乗ってて……」


「……それ、桜良ちゃんに何か言った方がいいんじゃ……」


「ううん。そんなことしたら、あの子を傷つけちゃうかもしれない……。それだけは、絶対嫌…。嫌なの……絶対に……」


 そこまで言って、美咲はうなだれるように膝に顔をうずめてしまった。俺は体を起こさせて、自分の体に寄りかからせた。


 美咲がここまで悲しそうな、苦しそうな顔をしてるのを見るなんて、初めてだった。いつも、桜良ちゃんのことを話してるときはものすごく楽しそうにするのに、今回は全く違う。悲しそうで、苦しそうで…。


 俺は、桜良ちゃんと会ったことはないし、(おそらく)見たこともない。だけど、美咲が大事にする人は、誰であれ大事にしたいし、俺にとっても大事な人だから。


 だから……


**********


 遥輝さんの言葉は、嬉しかった。本当に、心の底から。先輩のことだけじゃなくて、私のことも、大事に思ってくれているんだな、って。だけどもう1つ、私の中で引っかかることがあった。


「…私、シェルターみたいなところに移るんです。…連絡とってる人がいて。今は準備中なんですけど、移れたら、きっと……大丈…」


「ここにいて」


 美咲先輩は今度こそ、私の言葉を遮ってそう言った。


「その人も、安全なのかどうかわからないでしょ…?紅仁って人みたいに、何か企んでるかもしれないんだよ…?」


 美咲先輩の言葉は、たしかに正論だった。だけど、ここにいたら、先輩たちに迷惑がかかる。そんなことは嫌ってほどわかってる。だけど、全く言葉が出てこなかった。


「もっと…」


 そんな私の様子を見て、美咲先輩が口を開いた。


「もっと、自分のこと大事にして…?」


「………」


「私たちはね、桜良ちゃんのことが好きなの。…大好きで、大事で、大事で仕方ないのっ……」


「………!」


 ふと顔を上げると、一粒の涙が先輩の頬を伝って、次々にあふれてきた。……目を見張るほど、ものすごく、綺麗な涙だった。


「もっと、私たちのこと頼っていいんだよ?迷惑だなんて、邪魔だなんて、これっぽっちも思わないから……」


 そこまでぽつりぽつりと言って、そっと私のことを抱きしめてきた。つられたかのように、遥輝さんも抱きしめてきた。2人とも肩は震えていて、私の肩に温かいものが何回もこぼれてきた。


 …そこで私は、ようやく気付いた。


 私のために、泣いてくれる人がいる。心配してくれる人がいて、愛してくれる人がいる…ってことに…。


「私、一人ぼっちじゃなかったんだ……」


 2人が、私の肩に顔をうずめながら、小さくうなずく。


 ……ずっと、1人だと思ってた。心配なんてされてこなかったし、「愛される」だなんて、もっとないと思ってた。


 だけど、本当は、ずっと、ずっとずっと、心配してくれてたんだ……。


 2人も、…空も、……。


 そのあと私たちは、まぶしい昼の光が差し込んでくるまでずっと、泣きながら、かたく優しく、抱きしめ合っていた。


**********


『Ifさん、ごめんなさい。やっぱり、シェルターの件、ご遠慮させていただきます。』


『私の、大事にしたい人が、ちゃんと見つかったので』


 だだっ広い部屋に、テーブルを思いっきり、力の限り叩く、鈍い音が広がる。


 1人の男の、怒声と共にーーー。


「雪中、空………!!」


「お前だけは、絶対に許さない……!!!」

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