第2話:新たな出会いと心の支え
前回までのあらすじ:
いつもの作曲の課題が出る授業。1人の男子の発表を聞き、頭の中に歌詞が浮かんでしまうという昔からの癖に動揺し、桜良はいつも通りの発表ができなくなってしまう。
授業終わり、すぐに教室から抜け出し、いつも通りの避難場所に逃げ込んだ桜良は、自分の思うように歌詞を書きなぐる。
「すげえいい歌詞してんな」と後ろから声がして振り返ると、そこには桜良が動揺した発表をした本人、
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夕方、5時半くらい。アルバイトの準備が終わって、夕方の空と夜の空の合間くらいの時に外に出た。オレンジ色と紺色の空がグラデーションのようになっていて、思わず見とれそうになってしまう。我に返ったかのように家の鍵をかけて、階段を降りていく。
10分くらい歩いてすぐ、ナチュラルな感じのカフェの前に着く。ここで働き始めて、まだそんなに日にちは経っていなかったけど、なんだか長らくここで働いているような気分になる。
それもそうだ。ここに初めて来たのは、数年前のことだし、何かあるたびにここに来てるんだから。
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このカフェは、私や空が住んでいるマンションの近くにある。3月の下旬くらいに、ふと気になってカフェの中を覗こうとしたら、窓に貼られた「スタッフ募集」のポスターが目に入って、すぐに面接に申し込んだ。
私や空がまだ高校生だった時に、このカフェには何回か一緒に入ったことがある。正直、最初はあまり乗り気じゃなかった。空が突然、「綺麗なとこ見つけたから一緒に行こ!」と言うからついてきただけだった。当然、メニュー表を見てもあまりぱっとしなくて、いちばん最初に視界に入ったという理由だけで、チーズケーキを頼んだ。たくさんのケーキの種類がある中で、なんでそれを頼んだのかは今となってはわからないけど…。
だけど、それがあまりにもおいしくて、ものすごく感動したことを今でも鮮明に覚えている。コンビニスイーツで売ってるチーズケーキもおいしいけど、そこのカフェのチーズケーキは世界一美味しいんじゃないかと思った。それくらいに、ものすごく濃厚でなめらかな味をしていた。
そしてそこに、私や空に優しく接してくれた人がいた。その方が、今となっては私のバイトの先輩だ。空にコーヒーを運んでくれた時に、「おいしそうに食べてくれてありがとう」と、私に声をかけてくれたのが始まりだった。周りにお客さんがあまりいなかったこともあって、しばらく他愛ない話をしていた。高校の勉強とか、…先輩のこととか。その間、その先輩の美人さに、同じ性別であるはずなのに私は見とれてしまっていた。
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カランカランとドアについた鐘が鳴ってドアが開く。ちょうどその先輩が、お客さんが帰った後のテーブルを拭いているところだった。真面目な顔をしていたのに、私の姿を見てパッと表情が明るくなった。
「あ、桜良ちゃん!お疲れ様!」
「お疲れ様です。美咲先輩」
綺麗な茶色の髪をポニーテールにして、このカフェの制服を着ているのが、
すぐに私も制服に着替えて、マスターに「お疲れ様です」と挨拶して、業務内容に入る。
その業務内容はいたって簡単。注文を取って、美咲先輩と一緒に品物をお客さんのところに届けるだけ。働き始めたばかりの最初はものすごく大変だったけど、慣れたら楽しくなってきて、手際もよくなってきた。
あまり大きいカフェではないから、お客さんもそんな多いわけではない。バイトが終わる1時間前の夜8時くらいには、すでにほとんどいなくなっていた。まだ数人のお客さんが座ってコーヒーをすする音や、フォークとお皿がぶつかる音がほんのり響く。
帰っていくお客さんにお辞儀をした後に、座っていた場所のテーブルを拭く。手休め程度に美咲先輩を見ると、手際よくお皿を洗っていた。整った綺麗な顔に、少しだけ前髪がかかって、余計大人らしさが増しているように見える。皿同士がカチャカチャとぶつかる音すら、先輩の手際の良さを際立てるBGMのようになっている。
そんなことをぼーっと考えながら見ていると、先輩がこっちの目線に気づいて、泡のついた手で小さく手を振ってくれた。見た目はものすごく大人っぽいのに、そういう少しだけ無邪気なところがあるのがなんだか微笑ましくて、私も小さく振り返す。
気づいたら時間はラストオーダーの時間の8時半になっていた。だけど、すでに最後のお客さんも帰ってしまっていたから、お客さんはゼロだ。
「じゃあ…少しずつ閉店準備進めていこっか」
そのマスターの言葉で、私も先輩も掃除を始める。「桜良ちゃんは床拭いてもらってもいい?」と言われたため、モップを取り出して、床を念入りに拭いていく。
私自身、掃除は嫌いじゃない。むしろ好きな方かもしれない。自分の中の汚いところも綺麗になるみたいで心地がいい。…でも当然、全部が綺麗になっているわけではない。オーバードーズを続けていることが何よりも証拠。…今日のバイトだって、来るまでは嫌で嫌で仕方なくて、この前も飲んだ薬で落ち着かせてきた。
…そういえば、バイトをしてるおかげか、この前みたいな体のだるさが襲ってこないな…と今更気が付く。「少しつまらないな」という思いと、「バイトをしてる時くらいはいいか」という気持ちが混じって、ものすごく気持ちが悪い。
「桜良ちゃーん」
そんな考え事にも足らないことをしていたら、先輩の呼ぶ声がしていた。お皿の片づけが終わったのか、カウンターから出てきていた。手が鈍ってしまっていたのかと思って、怒られるのではないかと自然と体がこわばる。
「掃除はそこらへんで大丈夫だから、休憩にしよ!」
そんな私とは裏腹に、先輩はそう言って笑顔でカウンターの中に入っていく。やっぱり少しだけ手際が悪かったのかな…。そう思うと、足が重くなる。その気持ちにまるで気づいたかのように、美咲先輩が私のほうに優しい笑顔で寄ってきた。
「もう桜良ちゃんが綺麗にしてくれたからね!ごほうびごほうび♡」
そう言うと、私の背中をぐいぐいと押して、カウンター近くのテーブル席に座らされる。そういえばこの席に座るのは初めてだな…と、今更ながらに感じる。
厨房の方で先輩がゴソゴソと何かをしている姿は少しだけ見えるけど、何をしているのかまでは見えなくて、妙にうずうずしてしまう。
「はい、これ」
戻ってきた先輩はそう言って、私の目の前に一切れのショートケーキを置く。この店で売っているものだ。
「え、これ…食べちゃっていいんですか……?」
思わず不安になって聞いてしまう。何よりも、お金を払っているわけではない。だけどそんな私の心配をよそに、美咲先輩が笑顔で私の目の前に座る。
「全然おっけーだよ。マスターさんにも了承得てるしね」
まだキッチンのところで作業をしているマスターを見ると、私たちの会話を聞いていたのか、笑顔でうなずいてくれる。あまりにも気さくすぎて、入りたての頃に「おじいちゃんって呼んじゃってもいいからね」とマスターに言われたのを思い出す。…まあもちろん、呼べたことないけど。
「じゃあお言葉に甘えて……いただきます」
「うん!ゆっくりでいいからね。もうお客さんも来ないし」
「本当に、ありがとうございます」
「いいのいいの。桜良ちゃん、いつもがんばってくれてるし」
そう言って、笑顔で「いただきます」と手を合わせる。
私も「いただきます」と手を合わせて、フォークを手に取る。真っ白なクリームをまとったスポンジの上に乗った、赤くてきれいなイチゴを口に運ぶ。すぐに口の中に甘酸っぱさが広がる。バイト終わりの疲れた体にしみていくようで、頬が自然と緩んでいく。
「おいしい……」
気づいたらそうつぶやいてしまうくらいだ。すぐにフォークでスポンジと生クリームをバランスよく取って、口に運ぶ。
「桜良ちゃん、イチゴ先に食べる派なんだね」
「そうですね…先に食べちゃいます」
「そうなんだぁ…私は後に残しておく派だからなぁ……」
先輩もそう言いながら、ケーキを口に運ぶ。今先輩に言われて初めて、最初にイチゴを食べることに気が付いた。
そんなことに理由なんてないけど……もし1つあるとしたら…
「後から楽しみがなくなるのが怖いから…ですかね」
「そっか…。私はなんでだっけなぁ……」
フォークでイチゴをクリームからお皿の上に移動させて、天井を仰ぎ見る。
少しだけマスターの作業する音が響いた後、先輩が私の方をまっすぐ見た。あまりにも綺麗な顔がまっすぐ向けられて、思わずドキッとしてしまう。
「私はね」
「たしかに後から楽しみはなくなっちゃうし、それってすごく辛いけど、可能な限り守りたいなって思うんだよね」
「まあ、いずれは食べちゃうんだけどね」と、笑いながら、再びケーキを口に運ぶ。
やっぱり考え方が私より大人だな…と感じさせられる。私の考えが幼稚なように感じて、恥ずかしさを打ち消すようにケーキを口に運ぶ。
これまで、いくら大事にしてきたものでも、結局いつかはなくなるものだって知ってきてしまったから…。
なんて考えて、また頭の中が少し暗くなる。さっきまで、少しだけ明るくなってきていたのに……。
「そういえば…、空くんって元気?しばらく会ってないけど…」
先輩がまた、私の方を、フォークを置いてまっすぐ見てくる。
今度は空のことか…と少しだけ憂鬱に思いながらも、ケーキをすぐに飲み込んで答える。
「全く変わらず元気ですよ。むしろ少しうるさいくらいに」
「そっか~。桜良ちゃんからそう聞けたら安心かなぁ」
安心したように、嬉しそうに笑っていた。穏やかな照明も相まってなのか、その笑顔がいつもよりも優しいように見えた。
お互いケーキを食べ終わった後も、しばらくいろいろなことを話していた。先輩が大学生の時のこととか、…先輩の旦那さんのこととか。旦那さんのことを話している時の美咲先輩は本当に幸せそうで、思わずこっちまで心が温かくなった。
その間、私の暗い頭の中には、ほんのりと明るく、空の姿があった。
**********
「本当に送っていかなくて大丈夫?」
気がついたら、時間は夜9時半を過ぎていた。制服を着たまま、カフェの外で美咲先輩が私を見送ってくれていた。
「はい、大丈夫です。家近いので」
「ならいいんだけど…気をつけてね。もう暗いし」
「はい、ありがとうございます。あと、ケーキとか…いろいろありがとうございました。お話しもできて楽しかったです」
「あはは、私も楽しかったよ。あ、さっき話した通り、今度私の家おいでね。ケーキごちそうするから!」
「はい…!空いてる時間があったらぜひ」
「うん!待ってるよ!」
さっき話をする中で、先輩が「家でケーキを作るのが趣味だから、近いうち食べにおいで」と言ってくれた。どうやら、旦那さんがそのケーキをお気に入りで、たらふく食べるらしい。
私も甘いものは好きだし、ぜひ先輩の家にお邪魔したいと思っていたから、ある意味ちょうどいいのかも……。
「先輩は…まだ帰らないんですか?」
「うん、まだ少しマスターのお手伝い残ってるからね。それ終わらせてから帰るよ。桜良ちゃんは気をつけて帰ってね」
「はい。先輩もお気をつけて。お仕事、応援してます」
「うん、ありがとう!じゃあ、また来週ね!」
そんな先輩に少しお辞儀をして、私は歩き出した。少しだけ進んで後ろを振り返ると、先輩がまだ私を見送ってくれていた。私の姿を確認すると、また笑顔で手を振ってカフェの中に消えていってしまった。
やっぱりいい方だな…としみじみ思いながら、長らく見ていなかったスマホを開く。バイトに行く前に投稿した薬の写真に「いいね」がついていたり、メッセージが個別で来ていたり…。
……ん?メッセージ?
そう思って、急いでアプリを開く。投稿アプリでの人との交流は本当に片手に収まる人しかいないから、個別メッセージなんて来ることはめったにないはず。
「
名前を見ても、パッと来なかった。だけどアイコンや「病み垢」「自傷行為経験済み」と書かれたプロフィールを見て、バイト前に何も考えずにフォローした人だと気が付く。全然名前まで見ていなかったから、パッと来なかったのか……。
『初めまして。フォローありがとうございます。突然の個別メッセージ申し訳ございません。病み垢仲間さんとして、ぜひ仲良くしていただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします』
社会人の方なのかな…と思うくらいに、丁寧なメッセージだった。
さすがに敬語で返さないと失礼だろうと思って、あまり慣れない敬語を駆使して返信する。普段よりも長くメッセージを打つのに時間がかかるせいか、指先がものすごく冷えてくる。さすがにだんだん寒く感じてきて、一旦スマホを閉じて家に急ぐ。
家に着く頃にはすでにそれに対する返信が来ていて、自分の部屋のベッドに寝転がりながらそのメッセージを読んだ。
『もしよければ、なんでも相談してきてください。人の話を聞くことが好きなんで』
最後には、笑顔の絵文字までつけられていて、思わずクスリと笑ってしまった。
『ありがとうございます。機会があればよろしくお願いいたします。』
「なんでも相談していい」という優しい言葉に、お礼を言うことしかできなかった。だけど同時に、ようやく心の支えになるような人ができた気もして、心が温かくなるのを感じながらそっとスマホを閉じた。
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