第1章:君との関係と心の温かさ

第1話:自分への戒め

 朝、6時半。枕元に置いてあるスマートフォンに設定してあったアラームを止める。もう少し寝たかったけど我慢して、クローゼットの扉を無造作に開けた。いつも履いている紺色のワイドパンツにトレーナー。トレーナーはまだ少し厚めのものにしないと、肌寒く感じる季節だった。4月って、もう少し温かいはずじゃなかったっけ…。

 鏡の前に立って、自分の姿を確認する。眠そうな、そしてけだるそうな自分の姿がそこに写っていた。いつもの恰好。いつもの表情。「今日も生きている」。そんなことを自覚させられるみたいで、気持ちが悪かった。

専門学校に行くのにいつも使っているトートバッグを持って1階のリビングに下りる。ソファのところにバッグを置いて、リビングで一番大きい窓のカーテンを開ける。朝日の光が目に差し込んできて、思わず目をつむった。

「まぶし…。」

 おそるおそる、リビングを見渡す。お母さんは…もうすでに仕事か。でも別に、私にとっては変なことじゃない。当たり前のことだった。当たり前すぎてもう慣れたし、寂しいとか思っていたのは、本当に最初の方だけだ。いや、まず、そんな時期あったっけ…。

 パンとかの食料品が入っているキッチンの棚を開けて、思わず「え」と声が出る。前日に買ったはずのコンビニのパンが、たしかにここに入れていたはずなのになかった。頭がぼんやりしていて冷蔵庫に間違って入れてしまったのかとも思って、冷蔵庫の方も確認するけど、やっぱりない。ため息しか出ない。おそらく、お母さんが夜中の4時半くらいに帰ってきて、お腹が空いているとかで食べてしまったのだろう。幸い、お腹は鳴っていないし、なんとかなるだろう。

 洗面所に行くと、きつい香水の匂いがした。思わず鼻をつまんで、冷たい水で顔を洗う。手荒れがまだ酷いままで、水がその傷にしみる。目が覚めるし、別にいいんだけど、あまりに冷たすぎる。少しでも暖かくしようかと思って、水のレバーを左方向に回そうとする。けど、頭の中で、お母さんの声が反芻される。

「あんたが温かい水使うなんて、電気代が無駄になるからやめてくんない?あんたくらいの容姿だったら、冷たい水で顔洗っても、何も影響ないでしょ?」

嘲笑いながらそう言っていたお母さん。昨日のことかのように、頭の中で繰り返される。それをかき消すかのように、レバーを右方向にグッと回して、冷たい水で顔にかける。顔の温度どころか、体の温度ごと下がっていくようで、トレーナーの下の肌に鳥肌が立つのを感じる。何回かかけてから、パサパサとした感覚のタオルで顔をふく。昔から使っているものだから、かわいいキャラクターが印刷されていたはずなのに、もうほとんど消えかけてしまっている。

 バッグから、お気に入りのポーチを出す。友達と行ったショッピングモールで買った、猫のイラストがプリントされたポーチを取り出す。入れているのはメイク道具でも、櫛でも、鏡でもない。


 薬だ。


 思わず、口角が上がってしまう。6錠取り出して、その手元にある分が最後だということに気づいた。その空っぽになったものも、ポーチに戻す。家のごみ箱になんて捨てたら、お母さんにばれてしまう。ばれちゃうのは、絶対に嫌だ。すぐに飲みたいところだけど少し我慢して、ポケットにしまってあったスマホを取り出す。カメラを手際よく起動して、手のひらに乗せた6錠の写真を撮る。投稿アプリの病み垢と呼んでいるものに、その写真と一緒に文も投稿しておいた。少し悩んだ末、「今日も起きてしまった。入れてく。」とだけ打って。

 キッチンの洗ったものを置くカゴに置いてあるガラスのコップに水をため、6錠の白い粒とともに流し込む。異物がぬるい水と喉を流れていく感じが心地よく、ひどい安堵感を感じる。コップも使ったことがばれないようにしっかりと洗って、カゴに戻しておく。よし、証拠隠滅は完璧だ。もう一度投稿アプリを開いてのんびり見ていると、いつも投稿している人の写真や文が流れてくる。中にはやっぱり、私と同じものを写真に収めている人もいる。さっき投稿した自分の投稿を見ると、「いいね」がすでに3つもついていた。いつもつけてくれる人たちだ。そんな画面に、少しだけまた口角が上がる。だけど、あくまで目に見えない人たちだ。直接、私を肯定してくれるわけではない。その事実に、すぐに画面を暗転させる。

 リビングの時計を見ると、7時半を少し過ぎているところだった。リビングに戻って、トートバッグの中身を簡単に確認する。いつものペンケースにポーチ、パンパンになっているクリアファイル、その他もろもろ。玄関にまで行き、サンダルだけをまず履いて簡単に外に出てみる。冷たい空気がすぐに私に当たってきて、急いで家の中に戻る。少し薄手のコートを着て、マフラーをやわらかく巻いて、ようやく外に出る。鍵をかけて、あまり綺麗とは言えないマンションの階段をゆっくりと下がる。

 さっきは寒く感じたけど、実際に外を歩いてみると、少し暖かめな風を感じた。だけど向かい風で、少し整えたはずの髪がすぐに乱される。外に出るたびに、ほぼ毎回のように向かい風な感じがする。自然すらも、私を攻撃しているように感じた。

「桜良―」

 間延びした、いつも聞く声が後ろからした気がした。気のせいかと思ったけど、後ろを振り向けば、すぐに気のせいではなかったと気づいた。雪中空。私の小学校からの幼馴染で、今は専門学校もその学科も同じ。笑顔で子犬のように駆け寄ってきて、少し前髪がはねていた。空は小学生の頃から朝が苦手だった。それは専門学生になった今でも変わらないらしく、髪を直す時間すらなかったのだろう。

「おはよう、空」

 そんな空に、笑顔で答える。家では全く笑えず、笑顔なんて一切見せないくせに、こうやって、友達の前では笑顔になる自分が気持ち悪い。自分の笑顔がまず気持ち悪い。そんな私の気持ちを当然知らない空は、私の横に当たり前のように並ぶ。いつもの感じだ。

「桜良、課題やった?」

「ああ、あの作曲するっていうやつ?」

「そう!それ!俺やったんだけど、いまいち自信がないんだよなぁ」

「私もやったけど、自信はないかなぁ」

「あれ、成績優秀な桜良が珍しいね」

 そう言って、少しだけ私をからかってくるのも、いつものことだ。私には音楽の才能なんてものはない。他の才能…スポーツとか、料理とか、そういう類の才能もないけど、音楽の才能は特にないと自分では思ってる。だけど、空にはきっと才能がある。前にも出された作曲の課題での空の作ってきたものは、すごく良かった。綺麗なピアノの旋律で感動したかと思ったら、急に速くなるテンポ。だけど、その速いテンポの中にある優しい音色が、ものすごく好きだったことを今でも覚えている。

「桜良、少しだけコンビニ寄ってもいい?」

 うつむいて歩いていたら、急に空が声をかけてきた。

「いいけど、何か買うの?」

「うーん、まあ、ちょっとね」

 私は別に何も用があるわけじゃないから、コンビニの外で待機していた。小さい路地に接してはいるけど、通学時間のこの時間、その小さな路地にはたくさんの人が歩いてくる。圧倒的に、私や空と同じ専門学校だと思われる人が多いけど。のんびり見ていたら、私達とは違う学科だと思われる男女が、仲睦まじく歩いていくのを見た。 顔を見合わせて笑いあって、楽しそうだし、幸せそう。こういう人たちを見る度に、私と空が、はたから見たらどんな関係に見えるのかが気になってしまう。名前がつくような関係ではないし、特別な関係なわけではないけど。幼い頃…とはいっても、小学生の時からの付き合いで、好きなものも嫌いなものも、仕草も性格も、ほとんど知り尽くしてしまっている。だけど、空に何か期待しているわけではない。期待しても意味なんてないこと、とっくにわかっているから。

 そんなことをぼんやりと、ポケットに手を突っ込みながら考えていたら、空がコンビニから出てきた。スマホの時計を見ると、空がコンビニに入ってから5分くらいは経っていたみたいだ。

「待たせてごめん。桜良、これ」

 急にそう言って、何かを手渡してきた。何かわからずに受け取ると、あまりの熱さに、あつっと声が出た。

「ああ、ごめん。大丈夫?」

「うん…大丈夫。あれ?」

 改めて手元を見ると、缶に入ったココアがあった。

「あー、ほら、今日寒いだろ?風邪ひくなよ」

 そう言って笑った。いつも見ている笑顔。中学生くらいからかけているはずのメガネの下の目がなくなるくらいの笑顔。大きい目がなくなるくらいに嬉しそうに笑って、彼はまた歩き出した。空の手も見てみると、同じ缶がその手にあった。

 少しだけ、胸がきゅっとなった気がした。缶の温かさが、冷え切っていた手にじんわりと広がっていく。薬の副作用でも、寒いことで血管が収縮した、とかいう保健の勉強的なものではない。これが、いわゆる…。

 だけど、私の思考はそこで止まった。私なんかに、空を好きになる資格なんて存在しない。もし私が仮に空を好きになったとして、オーバードーズをしている人間が彼女だって知られたら?空が白い目に見られるに違いない。彼の周りの人が、

「あの人の彼女、ODしてるらしいよ」

「え、やば」

「そんな人と付き合うとか、どうかしてるよね」

「だよねー。関わらないでおこ!」

 こういうのを被害妄想と言うんだろうか。だけど実際に、私と付き合うんだとしたら絶対にどこかでこんな会話が繰り広げられて、それが学校中に広がって…。考えるだけで怖いし、空をそんな目に遭わせたくない。というかまず、空が私のことを好きなはずがない。だから、こんなこと考える私がどうかしてる。「そんな人と付き合う」とか、「空が私のことを好き」だとか、そんなわけないのに。

「桜良、どうした?」

 空の声で、はっと我に返った。気づいたら、ずっとゆっくりと先を行く空の背中を見つめながらそんなことを考えていた。

「ううん、なんでもない!」

 そう笑顔でまた言って、ココアの缶をそっとかばんにしまっておいた。またこうして1つ、私は自分が嫌いになっていく。

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