第2話 帽子屋 1
しばらくしてアリスが落ち着いたのを確認して、ジャックは彼女の手を引いて部屋を出た。
真新しい靴も履かせてもらい、普通の町娘のような格好になったアリスは、部屋の外を見回してポカンとした。
そこは、真っ白い壁に囲まれた清潔そうな施設だった。
沢山の部屋が立ち並んでいる。
ガラス張りの扉の向こうに、沢山人が歩いているのを見て、アリスは胸を抑えた。
やっとホッとしたような気がしたのだ。
「ちょっと待ってくれ。今内圧を下げるから」
そう言われ、アリスはジャックの手を離した。
ジャックは出口に近づくと、インターホンに向けて何言か口に出した。
途端、ガラス張りの扉からプシュー……と音がして空気が中に流れ込んできた。
小さく咳をしたアリスは、軽い耳鳴りに頭を抑えた。
数秒間空気は流入すると、やがて止まって、ゆっくりと扉が開いた。
『汚染レベル、三十五%デス』
機械的な淡々とした女性の声が、天井のスピーカーから聞こえる。
「さ、行こうか」
ジャックはそう言ってアリスの手を優しく掴んだ。
頷いて後に続く。
ラフィもアリスの脇に並んだ。
そこで、数人の男達が駆け寄ってきた。
「ジャック、もう大丈夫なのか?」
問いかけられ、ジャックは頷いて立ち止まった。
「ああ。長老様は目覚めているかな」
「ちょうど今目覚めたところだ。エンジェルと話をしたいと申されている」
「分かった。私が責任を持って送り届ける」
ジャックはそう言って、アリスに微笑みかけた。
「大丈夫だ。長老様も、私達も君に対して危害は加えない」
アリスは戸惑いながら、ジャックと男達に続いて歩き出した。
隣のラフィを見下ろしたが、黒猫は興味がなさそうな顔をして黙々と歩いているだけだった。
人がたくさんいる居住区を抜けて歩く。
人々はみな、アリスをニコニコして、嬉しそうに見ていた。
中には手を振る子供もいた。
しばらく進んで、白い階段を何回か降りる。
そしてアリス達は、やけに電灯が眩しい扉の前で止まった。
「長老様、エンジェルをお連れしました」
ジャックがインターホンに向かってそう言うと、特に返事が返ってくることもなく、扉が自動的にスライドして開いた。
男達が先に部屋に入り、ジャックに手を引かれてアリスも中に入る。
真っ白い円形の部屋だった。
何もない。
部屋の中央に、何か緑色の柱のようなものが建っていて、天井にくっついているだけだ。
いや……。
違う。
柱の中ほどが透明な素材になっていて、中が見えるようになっている。
それを見つめて、アリスは息を呑んでジャックにしがみついた。
人間の脳が浮かんでいた。
沢山のケーブルがあり、脳髄に接続されている。
中は何かの液体で満たされているらしく、時折ゴポポと白い気泡が浮かんでは消えていた。
「え……?」
呆然としてジャックを見上げる。
彼はアリスに微笑みかけると、「脳」に頭を下げた。
「こちらがアリスというエンジェルです」
しばらく部屋を沈黙が包んだ。
やがて、柱の側面についていたスピーカーから、しわがれた男性の声が響いてきた。
『アリス……? 君がアリスか……?』
訳が分からず、アリスは目を白黒とさせて後ずさった。
その様子を何かで見ているのか、柱から優しく男性は語りかけてきた。
『私はこのドームの中枢システムだ。君を待っていた、アリス。よく私達を助けに来てくれた』
「助け……? え……? 私、あの……」
口ごもって顔を青くしているアリスに、しばらくして怪訝そうに男性の声は続けた。
『どうした? エンジェルではないのか?』
「長老様、この子はどうやら、記憶の一部をなくしてしまっているようです。かなりの恐怖を与えられたせいかと……」
ジャックが進み出て助け舟を出す。
アリスは、そこでやっと、目の前の脳から声が発せられているということを認識して、震える声を発した。
「あなたは……何、ですか……?」
『何だ、とは異なことを聞く。しかし、記憶をなくしているのなら、あるいは何もわからないのかもしれぬな……』
小さくため息を付き、長老は言った。
『君がアリスなら、私達が長い間待ち望んでいた助けだ。ナイトメアから、このドームを救って欲しい』
「でも……でも私、何も分からないんです。ここがどこかも、自分が何なのかも!」
アリスは切羽詰まった声で精一杯訴えかけた。
男達がざわついてジャックを見る。
ジャックは手を上げて彼らのざわつきを止めると、長老に向けて口を開いた。
「しかしGMD指数は、彼女をエンジェルと断定しています。現に、汚染された森を生身で歩いて、ここまでたどり着いたようです」
『成程……』
長老は少し考え込んだふうに沈黙してから言った。
『このユートピアが崩壊に襲われ、ナイトメアが悪魔に変わってから、我々はドームの外に出ることさえもできなくなった……草木は汚染され、水は枯れ、今や人間達は、この生命維持機関から一歩でも外に出れば、永遠に存在をロストしてしまう』
「…………」
訳が分からず沈黙したアリスに、長老は続けた。
『外の世界で活動できる、君達エンジェルだけが、ナイトメアを殺し、我らが外に出るための鍵を持っている筈なのだ。アリス、君が「アリス」であるのならば尚更のことだ』
「私……私そんなの分からない……」
アリスは震える声を絞り出した。
そしてブンブンと首を振った。
「私何も知りません! 何も持ってない! 私の方こそ、助けて欲しいです……!」
『…………』
長老は何か言葉を発しようとして……。
次の瞬間、部屋の中の電灯がいきなり赤に暗転した。
「ヒッ……!」
ウィーン、ウィーンというサイレンの音に驚いて硬直したアリスを自分の方に引き寄せ、ジャックが怒鳴った。
「ナイトメアの反応だ! 隔壁を降ろせ! 早く!」
「近いぞ……! 外のビーコンは一体何をしてた!」
男達が悲鳴のような声を上げながら、バラバラと部屋を出て行く。
アリスの足元で、ラフィが歯噛みしたような顔で言った。
「存外に早かったね……もう少し休めると思ったんだけど……」
呆然と自分を見下ろしたアリスを見上げ、ラフィは淡々と言った。
「帽子屋(ハッター)だ。セブンスを自由に使えない君では勝ち目がない。逃げる準備をしよう」
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