第1話 兎 6
のろのろとパンとスープを食べ終わり、アリスは倦怠感の中、やっと息をついた。
歩き続けたことで、体力は限界に差し掛かっていた。
ニコニコした優しそうな顔の壮年の女性にトレイを渡し、アリスは静かな笑顔でこちらを見ているジャックと、数人の男性達を見上げた。
「ありがとうございます……でも、どうして……」
「どうして」と口に出したが、まず何を聞いたらいいか分からずに言葉を飲み込む。
少女の様子を見て、ジャックが近くの椅子に腰掛けた。
そして周りに目配せをする。
男性達は頷いて、ガラス張りの部屋を出ていった。
ジャックに任せるということらしい。
「私達に、君への敵意はない。それは分かるね?」
静かに問いかけられ、アリスは頷いた。
「あの……お食事と、傷の手当、ありがとうございます……」
頭を下げたアリスに、ジャックは手を振って答えた。
「そんなにかしこまらなくてもいい。所詮私達は、ドームの中でしか生きられない出来損ないだ。君達エンジェルとは違う」
「エンジェルって、何ですか……?」
伺うように問いかけた少女を怪訝そうに見て、ジャックは少し考えこんだ。
そして問いかけには答えずに口を開く。
「……どこから来たんだい? その様子だと随分歩いていたようだ。何かに襲われたようでもある」
アリスの脳裏に、けたたましい笑い声と、凶器を振り回す兎の顔がフラッシュバックする。
震えて肩を抱き、彼女は小さな声で答えた。
「ここから少し離れた……森の中の建物です」
「……『遺跡』から? どうしてまたそんなところに、君みたいなエンジェルが……」
戸惑ったような声でそう返したジャックに、アリスは何度も首を振ってから言った。
「分からない……何も分からないんです。気づいたら建物の中の部屋にいて。目が覚めたら……」
「アリス、それ以上は言わない方がいい」
そこで突然、足元からラフィの声が聞こえて、アリスは慌てて口をつぐんだ。
視線を下にやると、ラフィが赤い瞳を爛々と輝かせてこちらを見上げていた。
「ナイトメアの感覚は、人間には分からない。理解を促すだけ無駄だと思う」
でも、と言いかけたアリスの視線を追って床を見て、ジャックは問いかけた。
「目が覚めたら、どうしたんだい?」
やはりラフィのことはわからない様子だ。
アリスは数秒間迷った末
「追いかけられて……」
と小さな声で言って、俯いた。
ジャックは考え込んでから手を伸ばし、アリスの頭を優しく撫でた。
「もう大丈夫だ。遺跡に行く前にはどこにいたんだい?」
「それが……どうしても思い出せなくて……」
ジャックの温かな手の感触に、ジワ、と目に涙が滲む。
安心からだろうか、アリスはポタポタと涙を垂らしながら、両手で顔を覆った。
「ここはどこなんですか……? 私はどうしちゃったの……? 何も、何も分からない……」
「…………」
ジャックは息をついて、立ち上がってからアリスの隣に腰を下ろした。
そして彼女の小さな頭を抱き寄せて胸に引き寄せる。
びっくりしたような顔をした少女に、ジャックは言った。
「少しこのままでいるといい。安心するまで」
何度も頷く。
しばらくして、やっと泣き止んだアリスにジャックは口を開いた。
「ここは『帽子屋(ハッター)』の領地だよ。その中でも、十五番目のシェルターに当たる」
「帽子屋(ハッター)……?」
「私達が『ナイトメア』と呼んでいる悪魔のことだ」
その単語を聞いて、アリスは息を呑んだ。
「このワンダーランドは、変わってしまった……いつの頃からか、奴らはナイトメアとなり、私達を殺して回るようになった。このシェルターは、ナイトメアから私達を守る特別な石でできている。中にいれば安全さ」
「ナイトメア……って、何ですか?」
問いかけたアリスに、ジャックは少し迷ったようだったが答えた。
「それが分かったら、私達も少しはどうにか動けるんだがな……」
「…………」
「ナイトメアは目で見ることも、耳で聴くことも、臭いさえも感じることはできない。ただ確かに『そこ』にいるんだ。『そこ』にいて、私達を殺すスキを伺ってる」
目の疵を指でなぞり、ジャックは呟くように言った。
「私の妻と娘も、ナイトメアにやられた。目の前でね……切り裂かれて死んでしまったよ」
アリスは、細切れになり血を撒き散らした兎を思い出した。
吐き気が胸に湧き上がってきて、ジャックの服を強く掴む。
その頭を撫でながら、ジャックは言った。
「記憶喪失……と言っていいのかな。そんな状態の君に頼むのは気がひけるんだが、もう少ししたら一緒に来て欲しい」
「どこにですか……?」
不安そうな顔をしたアリスに、彼は続けた。
「長老に会って欲しいんだ。そしてエンジェルの力で、私達を助けてくれ」
◇
太陽が沈み、あたりを暗闇が包んだ。
生き物の気配がない森には、黒い水が流れる音と、樹木が風になびくザワザワとしたノイズ以外響いていない。
空には真っ白い満月が浮かんでいた。
数え切れないほどの星がきらめいているが、空の色はヘドロのように歪んでいる。
気味の悪い雰囲気、そして光景だった。
その中を足音も立てずに、俯いた大勢の兎人形と、頭が異様に大きな醜男が歩いていた。
男は鼻歌を歌い、手に持ったステッキを振り回しながら歩いている。
右目の義眼がカチ、コチ、という音とともに時計回りに回転しあらぬ方向を向いている。
そこで彼は、懐から
「ピリリ……」
という鈴の音がしたのに気づいて足を止めた。
軍隊のように、ボタンの目を赤く光らせた兎達も歩みを止める。
男は懐から金色の懐中時計を取り出し、蓋をパカリと開けた。
そこから、妙にざらついた女性の声が響く。
『帽子屋(ハッター)! やっと出たかい! このトントンチキが!』
ハッターと呼ばれた醜男は、また鼻歌を歌いながら歩き出した。
兎達もそれに続く。
「何だい、赤の女王様様様じゃないか!」
ハッターがそう返すと、赤の女王と呼ばれた女性は、懐中時計の向こうでキンキンと喚いた。
『何してるんだい! お茶会はとっくに始まってるんだよ!』
「知ってる。知ってるさ。だけどちょっと大事な用事ができてね」
ハッターは崖下の白い壁に囲まれた建物を見下ろし、舌でゾメリと唇を濡らした。
「お茶会には少し遅れるが行くよ。そう、とびきりのお土産を持ってね!」
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