第1話 兎 5
黒い雨が降っていた。
どこまでも続く黒い雲から、黒い雨が止めどなく流れ落ちてくる。
「この世界は汚染されてしまった」
私の隣に立っている人が言った。
私は彼の顔を見上げた。
不思議なことに、彼の顔にはぐしゃぐしゃの金網を擦りつけたかのようなモザイクがかかっていた。
彼は、私達が立っている樹の下で、黒い雨粒を手で受けてから悲しそうな声で続けた。
「僕と、君のユートピアもこれでおしまいだ。アリス……残念だけど、物事にはすべからく終焉が訪れる」
彼はモザイクだらけの顔をこちらに向け、私を見下ろした。
私は彼のシャツの裾を掴んで、必死に言った。
「そんな……まだアポカリクファまでは時間があるよ。私が、あなたの魂を探し出してあげる。そうすればあなたも、この世界も消えずにすむわ!」
彼はしばらく私の顔を見下ろしていたが、やがてゆっくりと首を振った。
「それは無理だよアリス。終焉はもう、すぐそこまで来てる。君も、僕と同じような存在になってしまう」
「それでも……!」
私は彼の服にしがみついた。
そして頭を、その花の匂いのするシャツに押し付ける。
離したくなかった。
離れたくなかった。
彼のいない世界なんて、到底思い浮かべる事はできなかった。
「お願い……終わりだなんて、そんな悲しいことを言わないで。私も、あなたと一緒に連れて行って……」
「……ダメだ」
彼はしばしの沈黙の後、硬い口調でそう言った。
呆然として顔を上げた私に、彼は断固とした口調で続けた。
「君も僕と同じになってはいけない。君はもともと、この世界の住人ではないんだ。いずれ目覚めなければいけない。ラビリンスだって永遠じゃない。いつかは壊れる時が来る」
「…………」
「エラーを吐き出した時に、気づくべきだったんだ。こんな世界は、こんな汚染はあってはならないことだって。でも……」
彼は手を上げて、私の頭を自分の胸に引き寄せた。
そして樹に背を預けて、呟くように言う。
「君がここにいたから……僕にはラビリンスを止めることができなかった。本当ならあの時に僕はシステムと一緒に消えるべきだったんだ……」
「そんなこと……そんなことないよ。あなたは私を救ってくれた! 私をこんなにも助けてくれた! あなたは死ぬべきじゃない、生きるべきよ!」
私は必死に叫んだ。
彼の服を掴んで、黒い雨にかき消されないように。
泣きじゃくりながら叫んだ。
モザイク頭の青年はこちらを向くと小さく頷いた。
「泣かないでアリス。僕も、君のことは好きだ。愛している。だから、このまま何もしないで朽ちていくつもりはない」
「でも……でも!」
「君は帰るんだ。こんな汚染された世界からは抜け出して。元の世界に戻るんだ」
彼ははっきりそう言って、私の頭を優しく撫でた。
「大好きだよ、アリス。ここで、僕達はお別れだ。ラビリンスが完全に停止する前に、君は君のワンダーランドに、早く戻るんだ」
◇
ゆっくりと目を開ける。
しばらく、ここがどこだか分からなかった。
周囲を沢山の人が歩き回っている。
視線を横にスライドさせると、薄い防護服とヘルメットをつけた人達が周りで何か計器を操作していた。
体にかけられていた毛布を押しのけて、上半身を起こす。
ボロボロになっていた病院服は脱がされ、ゆったりとしたズボンとシャツを着せられていた。
「…………」
ポカンとして周りを見回す。
少し広めの、手術室のような部屋だった。
ガラス張りの壁に囲まれている。
アリスが起き上がっているのを見て、近くを歩いていた男性が声を上げた。
「エンジェルが目を覚ましたぞ!」
(エンジェル……?)
その声を聞いて、周りの大人達が一斉にこちらを向いた。
「おお……良かった!」
「目が覚めたぞ!」
「空気を抜け! 汚染レベルは低い」
「食事を持ってくるんだ!」
バタバタと動き出した周りを戸惑いの目で見ながら、アリスは近づいてきた男性に目をやった。
男性がヘルメットを脱いで、アリスに会釈する。
顔面に深い切り傷がある、壮年の男だった。
目の部分に一文字に疵が走っている。
怯えたような顔をしたアリスに、男は慌てて笑顔を作ると、優しく言った。
「おはよう、小さな天使さん。ここは第十五シェルターの中だよ。気分はどうかな?」
静かな声に少し安心して、アリスは小さく声を発した。
「シェルター……?」
「外に倒れていた君を保護した。夜になる前に助けられて良かったよ。なにせ、このあたりは崩壊の度合いが強い」
「…………」
「おっと、自己紹介が遅れたな。私はジャック。このシェルターの管理者をやっている」
「ジャック……さん?」
「ああ。君の名前を教えてくれるかな?」
問いかけられ、アリスは少し躊躇した。
その視界に、自分が寝かされているベッドの隅にラフィが丸くなっているのが見える。
ラフィは顔を上げると、アリスを見て口を開いた。
「大丈夫だよ。この人間達はナイトメアじゃない。無害だ」
ラフィの声は周りには聞こえていないようだ。
それどころか、事前に言っていたように、そこに猫がいることも認識していない様子だった。
アリスは息をついて、ジャックを見上げた。
「アリス……と、言います……」
尻すぼみになって、自信なさげに声が消える。
ジャックは俯いてしまったアリスを見下ろし、困ったように鼻を指先で掻いた。
そこに、トレイの上にパンと水が入ったコップ、そして美味しそうなにおいを発しているスープが入ったお椀が乗ったトレイを、別の男が運んできた。
そのにおいを嗅いで、アリスのお腹がグゥと鳴る。
喉がカラカラで、お腹も空いている。
体がとてもダルかった。
「君の傷の手当もさせてもらった。少し縫ったけど、すぐ良くなると思う」
ジャックにそう言われ、アリスは自分の肩を見た。
包帯が綺麗に巻かれている。
もう痛くない。
足にも包帯が巻きつけてあった。
「とりあえず、お腹に入れるといい。その後、少し話を聞かせてくれないかな?」
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