第1話 兎 4

アリスはポカンとして、目を細めて周りを見回した。

太陽が燦々と照りつける空間が広がっていた。

上が見えない巨大な樹木が立ち並んでいる。

ラフィが赤い瞳をアリスに向けた。


「ここから離れよう。『夜』までは少し時間がある。傷の手当をしないと」


言われて、アリスはツタがはびこった石造りの建物……その亀裂から慌てて離れた。

亀裂の奥からけたたましい笑い声が聞こえる。


「あれ……何なの……?」


猫を追いかけながら震える声で問いかけると、ラフィは木立の中を歩きながら言った。


「ナイトメアだよ。覚えてないの?」

「ナイトメア?」

「ナイトメアはナイトメアさ。君が君であるように」


謎掛けのように軽い調子でそう返すと、ラフィは倒れていた朽木を登った。

アリスもそれを踏み越えて続く。


今度は、どこまでも続く森だった。

しかし、異様なほど生物の気配がない。

虫一匹見当たらない。


「気づいた?」


ラフィはそう言って、落ち葉を踏んで立ち止まった。

そしてアリスを見上げる。


「ナイトメアは『生き物』の血液が主食だからね。このあたりはあらかた狩りつくされてしまった」

「狩られた……? あの、兎達に……?」


アリスが問いかけると、ラフィは首を振ってまた歩き出した。

少女が慌ててそれに続く。


「違うよ。あれはただのレプリカ。血を集める働き蜂だからね。問題は、兎(ラビット)を統率してるオリジナル達がいること。そいつらはセブンスを使う。君と同じような」


よく分からない単語を並べて、黒猫は息をついた。


「このあたりは、帽子屋(ハッター)の縄張りだから、あからさまに酷いね。今回の君は、とてもハードだ」

「ラフィ……さん? 私、これからどうすれば……」

「ラフィ、でいいよ、アリス」


小さな声で問いかけたアリスに優しく返し、ラフィは口の端を歪めて笑った。


「とりあえず、ナイトメアから離れて人間の集落に向かおう。夜になる前に。太陽が落ちたら奴らの独壇場だから」

「私……狙われてるの……?」

「そうだね。有り体な言い方をすればそうなる。正確には君の血が狙われてるんだけどね。それに……」


黒猫は淡々と言った。


「僕の能力は『喋るだけ』……君を守ることはできない。夜だけはシェルターに避難しないと、すぐに今回もゲームオーバーになってしまう」

「…………」

「アポカリクファの終焉まではまだ時間がある。人間達なら、薬や医療器具をもってる筈だから、君の怪我も治療できるかもしれない」


回転ノコで抉り切られた傷口からはまだ血が流れていた。

アリスは泣きそうな顔でそれを見て、そして視界に小川が流れているのを見て嬌声をあげた。


「水……!」


小さく叫んで駆け出す。

しかし、小川に近づいてアリスは硬直した。

流れていたのは水ではなかった。

黒い、コールタールのような液体が水音を立てて流れている。


「何……これ……」


呆然として後ずさる。

ラフィはそれをぴちゃぴちゃと舐めてから、アリスを見上げた。


「ダメだね。このあたりも汚染されてる。流石に君の体でも耐えきれないと思う」

「どういうことなの? これは水じゃないの?」


引きつった声で問いかけると、ラフィは首を傾げて考え込んだ。

そして小川を踏み越えて歩き出す。


「汚染された水さ。水ではある」

「汚染……? 何があったの?」

「アポカリクファの終焉さ」


訳の分からない問答をしながら、一人と一匹はやがて少し開けた場所に出た。

崖になっていて、なだらかな斜面の下の方……奥に白いドーム型の建物が見える。


「ここから一番近いシェルターはあそこだね」


スンスン、とにおいを嗅いで、ラフィは続けた。


「人間も生き残ってるみたいだ。それも多分、今晩までだろうけど」

「人がいるの……?」

「うん。とりあえずあそこまで頑張って。汚染されていない水もある筈だ」


アリスは何度も小さく頷いた。

裸足の足の裏は切れてしまい、そこからも血が流れている。


走り回ったことと恐怖で、体中が硬直していた。

足は悲鳴を上げている。

恐怖と混乱を振り払うように、アリスは崖を迂回して歩き出したラフィに必死についていった。



数時間も歩き、太陽が少し傾いた頃、アリスとラフィは白いドーム型の建物、その近くまでやっと到達した。

へたり込んだアリスに頬をこすりつけ、ラフィが言う。


「よく頑張ったね。もう少しだから、立って」

「もう駄目……体中が痛くて……」


そこでアリスは、数個の足音が近づいてくるのを聞いてビクッとした。

またあの兎が襲い掛かってくるかと思ったのだ。


「人間だ。良かった。助けを求めよう」


ラフィがそう言ってアリスを見上げる。


「残念だけど、僕は人間達には見えない。声も聞こえない。君が話をしてくれないかな」

「え……? ラフィは、ここにいるじゃない……?」

「そうなんだけどね。人間の感覚って曖昧だから、僕達のことは認識できないらしいんだ」


ラフィがそこまで言った時、アリスは自分を取り囲むように足音が止まったのに気づき、顔を上げた。

そして硬直する。


……宇宙服みたいだ。


最初はそう思った。

ブカブカした白い防護服。

巨大なヘルメットをつけた男達が、驚愕の表情でアリスを取り囲んでいたのだった。

そのうちの一人が周りを見回して、急ぎアリスを抱え上げる。


「もう大丈夫だ。シェルターの中に避難するぞ!」


男性の声。

アリスはそこでやっと、張り詰めていた緊張がプツリと切れたように、一気に意識を失った。

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