第1話 兎 3
「あなた……が、喋っているの?」
恐る恐る問いかけると、ラフィは頷いて前足で頭を掻いた。
「うん。うん、そうだよ。僕のことがわからないかな、アリス」
聞き返され、少女……アリスは震えながら首を振った。
「アリス……? 私はそんな名前じゃ……」
そこまで言って、アリスは言葉を止めて愕然とした。
……名前……?
私は、何という名前なのだろう。
思い出せない。
それ以前に、今はいつで……。
ここはどこで……。
私は、どうしてここにいるのか。
そして、ここに来る前は……。
一体、どこにいたのか。
何もかもが全く、思い出せない。
わからない。
頭の中に靄がかかったように、不快感だけが広がって浮かんでこないのだ。
「あ……あれ……?」
混乱している風なアリスを目を細めて見て、ラフィは大きく欠伸をした。
「今度の君は、いろいろと障害が起こってそうだね。ラビリンスのシステムも、いい加減ガタが来てるから仕方ないのかな」
「ラビリンス……?」
「分からないならいいよ。説明するのも骨が折れるしね。君の名前はアリス。悪いけど、僕にはそれ以上のことは分からない」
ラフィはそう言って、血溜まりの中にパシャ、と着地した。
そしてそれを踏みしめながらアリスに近づく。
「その様子だと、まだ混乱してそうだね。だったらここをすぐに離れた方がいい」
「お……教えて猫さん! ここはどこ?」
切羽詰った声を上げたアリスに、ラフィはくすくすと笑って答えた。
「『ここがどこか?』……凄く面白い問いかけをするね。答えてあげたいけど、それは僕も知りたい永遠の命題だよ。でも、ここが『どこ』で、『何』なのかっていうのは、答えたり考えたりしても仕方がないことなんだ。どうせアポカリクファの終焉が訪れたら、みんな暗闇に還ってしまうからね」
「え……え?」
突如訳のわからないことをいい出した猫に、アリスが困惑しながら何度か瞬きをする。
「それと、僕は猫じゃない。ラフィと呼んでほしいな」
どう見ても猫なのだが、口元を歪めてそう言うと、ラフィは足元の血溜まりをペロペロと舐めた。
吐き気を抑えたアリスに向けて、しかしラフィは弾かれたように顔を上げてから続けた。
「……やっぱり。君の血の臭いは濃すぎる。だから早く離れたほうがいいって言ったのに」
え? と問い返そうとしたアリスの背筋が凍った。
「……Oh,Happy....day.....」
「Oh...Ha...pyy....day......」
「.......Oh......Happy........」
複数の声がする。
細切れになった兎の声と、同じだ。
しかし何体も……通路に声が反響して、鎌をこする音と共に足音が近づいてくるところだった。
「ヒッ……」
縮み上がったアリスの方を見上げて、ラフィは言った。
「今の君に、もう一度セブンスを使えと言っても無理だろうね。だったら逃げるが勝ちさ。ナイトメアには、なるべく接触しないほうがいい。来て、『外』まで案内しよう」
「この……兎みたいなの、一つじゃないの……?」
「聞こえるとおりさ。兎(ラビット)は、ナイトメアの中でも働き蜂だからね。相手をしていたらきりがない。それに、君は今怪我をしている」
「…………」
肩の怪我を手で押さえたアリスに、ラフィは押し殺した声で言った。
「それはよくない。とてもよくないね。君の血液は、ナイトメアが涎を垂らして欲しがるものだから。その臭いをさせてる限り、あいつらはどこまでも追ってくる」
「ど……どうすれば……」
「とりあえず『外』に出るよ」
「う、うん……」
頼りなさげに頷いて、アリスはラフィの後に続いて部屋を出た。
そして駆け出した猫に続いて走り出す。
「アリスだ!」
「アリスだアリスだ!」
「生きていたんだね! 今日は記念日だね!」
「おめでとうおめでとう!」
ケタケタケタケタケタと通路に甲高い笑い声が反響する。
そして走って足音が近づいてくるのが聞こえた。
全速力で、死にもの狂いに駆けながら、アリスは恐怖と混乱で泣きじゃくっていた。
その目の前で、ラフィが半分開いていた赤い扉の中に体を滑り込ませるのが見える。
慌てて後について部屋の中に入る。
「ここだよ」
息も切らさず、ラフィは淡々と言った。
部屋の壁に亀裂が走り、眩しいほどの白い光が中に差し込んでいた。
「ナイトメアは光の下には出てこれない。乾いてしまうからね。『外』に出れば、一安心さ」
「う……うん!」
アリスは頷いて、ラフィに続いて亀裂に近づいた。
丁度子供一人は通れそうなくらい、石造りの壁が砕けている。
彼女は息を吸って、そこに体を滑り込ませた。
◇
「まずいぞまずいぞ……」
仮面をつけた奇妙な物体が、暗がりの中でせかせかと動き回っていた。
人間のようにも、何かの歪なモニュメントのようにも見える。
キチキチ……という歯車の鳴る音を響かせながら、その「男」はクローゼットを乱暴に漁っていた。
「ああ、ああ! お茶会に遅れてしまう! アリスが目覚めたと言うのに……」
悲哀に満ちた声でそう言い、「それ」は部屋に幾十となく整列している兎のぬいぐるみ達を見回した。
「あの子をジューサーにかけて、ギュゥゥゥゥッって足元から絞らなきゃ……新鮮なままでジュースにしないと! ああ、ああ忙しい忙しい」
頭が異様に大きな男だった。
頭身にすると四頭身ほどの、不気味なスタイルをした醜い男だ。
片目が義眼なのか、歯車の音とともにカチ、コチ、と回転している。
ヤニで黒くなった歯でガジガジと煙が出ているパイプを噛みながら、その男はけたたましい声で喚いた。
「私の帽子がない! 今の気分を表す素敵な帽子がない!」
クローゼットを乱暴に足で蹴り、彼はギリギリと歯ぎしりをした。
そして怒りに燃える片目を飛び出しそうに見開き、兎の一匹が差し出したシルクハットをむしり取った。
そしてところどころハゲた白髪の頭に被る。
「フム……フム」
小さく頷いて、懐からヌル、とラッパのような形をした散弾銃を抜き出す。
特に狙いもつけずに、彼は帽子を差し出した兎をそれで何度も撃った。
返り血がビシャビシャとあたりを汚す。
頭部と腹部がぐちゃぐちゃになり、痙攣しながら崩れ落ちた兎を蹴り飛ばし、彼は喚いた。
「行くぞ! 久しぶりの外出だ!」
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