第1話 兎 2
斬られた肩が激しく痛む。
血が止まらない。
肩を手で押さえながら、少女は扉が開いていた部屋の中に体を滑り込ませた。
過呼吸のように荒く息をしながら、彼女は部屋の中……錆びてボロボロになったベッドの脇に、震えながらしゃがみこんだ。
どこまで走っても、通路は途切れなかった。
何十何百と鉄格子がついた扉が並んでいた。
錆が濃くなってきたところで少女の体力がなくなり、彼女は近くの部屋に逃げ込んだのだった。
歌が聞こえる。
この歌は、何だろう……。
調子っぱずれの甲高い声に、耳障りなメロディ。
「Oh,Happy......day」
ひひ、という笑い声とともに、鎌で床を擦っているのか、先程の兎が歌いながら近づいてくる。
「臭い臭いぞ! アリス! 血の臭いだ! 腐った血の臭いがするぞ! 近いぞ近いぞ!」
金切り声でヒステリックに喚く兎の声。
少女は慌てて肩の傷を手で押さえ、息を吸い込んで必死に止めた。
「息を潜めても無駄だよォ……血は止まらないからね! 臭い臭い血が止まらないよ! 傷は腐ってドロドロになって、ヘドロになって流れ落ちる! おめでとうアリス! 今日は腐敗記念日でもあるね!」
意味不明なセリフとともにケタケタと笑いながら、兎の足音が部屋の入口で止まった。
「ここだ! ここが凄く生臭い! 臭い臭い臭い臭い! ハッピーデイだね!」
兎が入ってきた。
飛び出しそうな心臓を必死に落ち着かせようとして、少女は体をちぢこませた。
ズシャリ……ギリギリ……と音が聞こえる。
失禁しそうな恐怖の中、兎はベッドの前で足を止めて、鼻歌を歌い出した。
その声が段々近づいてくる。
少女は必死に目を閉じて、体を小さくした。
いつまで経っても何も起こらなかった。
しかし歌は聞こえる。
目の前だ。
少女は一分経ち、二分経ち、そっと薄目を開けて様子を伺おうとして……金切り声の悲鳴を上げた。
目の前に逆さまの兎の首があったのだった。
巨大なぬいぐるみの首の部分が千切れてケーブルのようなもので伸びている。
そして、頭がぐるりと上を経由して、少女のことを覗き込んでいたのだ。
「こんばんわ、アリス!」
けたたましい声でケタケタと笑い、カパッと口が開く。
そこには錆びた釘が、尖った部分を外側に向けて歯のようにいびつに並んでいた。
ゆっくりと回転ノコがせり上がってきて、錆びた刃が回転を始める。
腰を抜かしてベッドに背中を押し付けた少女の眼前で、回転ノコが止まった。
そして兎がゆらゆらと頭を揺らす。
ノコに頬をかすめられ、少女が悲鳴を上げる。
兎のボタンの目が無機質に揺れる。
「ああ、アリス。アリス、おお……アリス。好きだよ。大好きだよ。だからすぐには殺さない。まず指を一本ずつ落とす。そして足の爪を剥がす。一枚ずつね! 目を抉ろう! 鼻をそごう! 耳を千切ろう! 断末魔の歌を聞かせておくれよ!」
回転ノコが少女の目の前で揺れる。
「君の綺麗な声で、僕をもっと昂ぶらせておくれ! ああ興奮する! 嬉しいね! 記念日だね!」
「助けて……」
少女は頭を抑えて、強く目をつむった。
「誰か助けてええ!」
ケタケタケタと甲高い声で兎は笑った。
嬉しそうな声で。
愉しそうな声で。
そして回転ノコが少女の頭を切り刻む軌道で近づいてきて……。
◇
少女は、ハッと目を開けて周りを見回した。
一面血の海だった。
床に綿と何だかよくわからない物体が飛び散っている。
血で体中がびしょ濡れになりながら、彼女は呆然と体を起こした。
目の前に兎の首が落ちていた。
「ヒッ……」
と声を上げて怯えて硬直する。
口を半開きにし、舌のように回転ノコをだらりと下げたぬいぐるみの首が転がっていた。
千切れたケーブルから、血のように赤黒い液体が流れている。
「な……何が……」
小さく呟いて立ち上がり、振り返って少女は息を飲んだ。
胴体から袈裟斬りに分断されたモノが、突っ立っていた。
床に転がった上半身と、下半身がゆらゆらと揺れながら立っているのが見える。
下半身の切断面から、ピュ、ピュ、と血液のような液体が断続的に噴き上がっていた。
震え上がった少女の前で、ゆらりと揺れたぬいぐるみの下半身が倒れる。
途端、それが細切れになって床に濡れた音と共に崩れ落ちた。
切断面は何か刃で切ったように鋭利だ。
ところどころコードと、肉の塊のようなブヨブヨしたものが覗いている。
ぬいぐるみの胸に当たる部分の肉が、心臓の鼓動のように脈動していた。
それが徐々にゆっくりとなっていき、そして止まる。
あたりに浅黒い血の池が広がった。
それに素足を浸しながら、少女は呆然と突っ立っていた。
……生き物……?
これは生き物だったのだろうか。
しかし確かに肉は動いていた。
飛び散っているのも血のようだ。
しかしコードも見える。
何だ……。
これは……。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
訳がわからない。
そこで少女は、天井の白熱電灯に照らされた壁を見て息を止めた。
何か巨大な肉食獣の爪で薙いだように、壁一面に無数の切り傷がついていたのだ。
石造りのそれに、おびただしい数の抉り傷がついている。
兎は、それにやられたようだ。
「誰が……」
小さく呟いた時、彼女は背後から
「君だよ、アリス」
と声をかけられて、弾かれたように振り返った。
男の子の声だった。
血で濡れたベッドの上に、小さな猫がゆらりと現れちょこんと立っていた。
今まではいなかったのに、まるで蜃気楼のように現れたのだった。
そして猫は、にやりと口の端を歪めていびつに笑って見せた。
泥のような真っ黒で、鮮血のような赤い瞳をした、異様な雰囲気の子猫だった。
尻尾に白いリボンが結んである。
周りを見回した少女に、猫は口を広げた。
「君が殺したんだ。その兎(ラビット)をね」
猫の方から声が聞こえる。
混乱した顔をした少女に、猫は続けた。
「僕だよ。君の目の前にいる僕が今喋りかけてる。僕の名前は『笑い猫(ラフィングキャット)』……ラフィと呼んでくれていい」
ラフィ、と名乗った猫は少女の方に赤い眼を向けて、小さく笑った。
「どうしたんだい? アリス。目覚めているんだろう? 早くここを出よう」
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