第21話 モヤモヤ
「思い切ったな……マスター。マンデリンを仕入れるつもりみたいだ」
「めちゃくちゃ高いんでしょ?」
「ああ、普通の豆の倍くらいの値段はするな」
カウンターに戻った歌原さんを見ながら、俺はそう言った。
豆を一種類多く仕入れるようになったからって、喫茶メロウの経営は傾かないだろう。
しかし、間違いなくリスクは背負うことになる。
大げさに言うと、歌原さんは安定を捨てたのだ。
その思い切りのよさに、俺は驚いている。
「思い切りのよさか……大事だよね、何事においても」
しずくは、まるで自分に言い聞かせるような声色で、そう言った。
「最近、仕事でさ……変に注意されたり、指摘されないために、上手にこなそうって考えちゃってるんだよね」
「上手にこなそう、か。分からない話じゃないな。俺もマニュアルから逸脱できないままだし……」
上手く淹れることはできる。
しかし、飲む人の好みまで考えて淹れられるようになるのは、当分先の話になりそうだ。
「でも、ほら……殻を破るって大事だよね。怒られたり、叱られたりするのを恐れてたら、前には進めないっていうかさ」
「……そうだな。間違いない」
俺がそう返すと、しずくは何かを考え込む様子を見せた。
話すようになって分かったことだが、こうしているときの彼女は、仕事について考えていることが多い。
こういうときは、余計なちょっかいを出さないことが大切だ。
「うん……なんか見えてきたかも」
コーヒーを飲んでいた俺は、しずくがそう告げたことで顔を上げた。
「何が見えてきたんだ?」
「私の演技に必要なもの……かな? 見ててよ、純太郎。これからの放送で、私はもっとレベルアップするから」
にやりと笑ったしずくの顔には、自信が満ち溢れていた。
◇◆◇
あれから、しずくの演技はみるみる上達した。
声の出し方が変わったというか、前よりも感情がこもっているように思える。
そしてそれは、決して俺の贔屓目ではなかったようだ。
「なんか、昨日のしずくのドラマ、結構よくなかった?」
今日もしずくは仕事でいない。
いつも通り、クラスメイトがしずくについて話しているのが聞こえてくる。
「あー、分かるかも。なんか違和感なくなったっていうか」
「そうそう。普通に面白いドラマになったよね」
そんな声が聞こえてきて、俺はニヤけそうになった。
しずくが褒められると、自分のことのように嬉しい。
「でもさ……なんか相棒役の、えっと」
「立川祐樹?」
「そう! その人! なんか距離近くなってなかった? しずくと立川」
「マジ? まさか付き合ってるとか?」
「もしかすると、毎日マンツーマンで演技指導してもらってるのかもよ……?」
女子たちの楽しげな悲鳴が聞こえてくる。
何故だろうか。少しだけ、胸が苦しい。
彼らが話しているのは、なんの確証もない情報だ。
頭ではよく分かっているのに、体がソワソワして落ち着かない。
俺としずくは、ただの友達だ。
友達に恋人がいようが、なんの関係もないはずだ。
(関係ない……関係ない……)
何度も何度も、自分にそう言い聞かせる。
しかし、結局俺の心は落ち着くことなく、あっという間に下校の時刻になってしまった。
足元がおぼつかない感覚を抱えたまま、俺はバイト先へと向かう。
「大丈夫? 純くん」
「え?」
バイト中。歌原さんに声をかけられ、俺は我に返る。
「さっきから同じお皿を拭き続けてるし……心ここに在らずって感じ。もしかして、体調悪い?」
「す、すみません……そういうわけじゃないんですけど」
「もしかして、しずくちゃんと何かあった?」
「え⁉」
思わず落としそうになった皿を、慌てて掴む。
「ご、ごめん……まさかそんなに動揺するって思ってなくて」
「あ、いや、その……すみません」
「謝る必要はないよ。それで、どうしたの? 喧嘩でもしちゃった?」
「しずくと何かあったわけじゃないんですけど……」
この胸に抱えるモヤモヤを話すかどうか、しばし迷った。
しかし、今のままでは歌原さんに迷惑をかけてしまうかもしれない。
そのほうが本意でないことは、間違いなかった。
「……一緒にドラマに出てる俳優が、しずくと付き合ってるかもしれないって噂を聞いてから、ずっとモヤモヤしてるんです」
自分で言って、途端に恥ずかしくなる。
俺の悩みは、あまりにも子供っぽい。
しずくは誰のものでもないのだ。
誰と一緒にいようが、そこに俺が介入する余地なんてない。
――――頭では、そう分かっているのに。
「ふーん……なるほどなるほど。純くんもついにお年頃かぁ」
「お年頃?」
「純くんは、友達なのに嫉妬するのはおかしいって思ってるんでしょ? だったら、純くんがしずくちゃんに向けている気持ちが、友情じゃないってことなんじゃない?」
「友情じゃ、ない……?」
友情じゃないなら、この気持ちはなんだ?
「せ、性欲……?」
「純くんって、たまにとんでもない思考の飛び方するよね」
何故か歌原さんが爆笑し始めた。
おかしい、こっちは真剣に聞いているのに。
「笑っちゃってごめん。その気持ちは、少なくとも別の何かだと思うよ。……いずれ、自然と分かる日が来るよ」
歌原さんの言葉の真意は、今の俺には分からなかった。
しかし、不思議と俺を安心させてくれたのは事実であり、気づけば胸のソワソワはどこかへ消えていた。
「おっと、噂をすれば」
顔を上げると、ちょうどしずくが店に入ってきた。
俺はカウンターを出て、彼女をいつもの席へと案内する。
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