26 よごれたコートのすそ

 世界は確かに、自分たちには無関心なのだ。

 トレヴァは初めて〈はずれの港町〉にやってきたとき、そう実感したことを思いだす。


 そのときトレヴァに湧いてきた感情は怒りではなかった。

 空腹による虚弱状態で、憤怒にかられて大声をだしたり、ものにやつあたりできるほど元気ではなかったということもあったのかもしれないが、トレヴァの中枢はなにか巨大な虚無感に支配されていた。


 地平線のさきまでひろがった砂漠に置き去りにされたような気持ちだった。

 となりにいたバドも、確認したわけではなかったが、きっと似たようなことを感じていただろう。根っこから枯れている樹木のような雰囲気を全身から発していたから……。


 郷里の伯爵都を旅立ち、港町までやってきたところで露銀が底をついた。

 食べものさえ買うことができない状況で、空腹とつかれと貧血で気が遠くなるようだった。

 港町の浜辺にてトレヴァは(そして横にいたバドも)そんな世界に見放されてしまった寂寥感に身も心も蝕まれていたのだ。

 

 二人のよごれたコートのすそが海風にばたばたゆれていた音が、いまでもまぶたを閉じれば聞こえるような気さえする。

 

 その後トミーに発見されて、デュアンたちに紹介されることでなんとか命をつなぐことができたが、トレヴァのなかに(おそらくバドのなかにも)あった一抹のむなしさは、そのあとも消えることはなかった。


 夢が淡くかすんでしまう現実の世界は、どこまでもよそよそしく冷淡で、二人は無限にひろがる虚無という砂地のなかで途方に暮れていたのだ。


「……――」


 大通りをならんで歩いているディレンツァは、なるべくトレヴァの心向きを気にかけていることを悟られないように注意していた。


 バドのことを話題にしてから、トレヴァが沈思する時間が増えた。

 トレヴァとバドの関係はただの友人以上のものがあるようだった。

 トレヴァはおそらく、思い出のひもにできた多くのむすび目をひとつずつほどいているにちがいない。


 ディレンツァは当初、(トレヴァが名家の出身者だったこともあり)トレヴァの抱えているトラブルをともに解決することで、なにか物事が進展するのではないかと期待したが、もはや状況的にみてそれはないように思えていた。


 トレヴァは(そしてバドも)、とても閉鎖された世界のなかで生きているようだった。しかしそれはある意味で、いまのディレンツァたちにも共通することだったけれど。


「――ん、あ、すみません。つい、黙りこんじゃって」


 トレヴァがふいに顔をあげる。


「いや、だいじょうぶだよ。少なくとも、さっきまでの焦って取りみだしていた君よりはずっといい」


「すみません……バドのことは、どうつたえたらいいかよくわからないんですよ。自分でも」


 トレヴァはあたまをかく。体調をくずした動物のわきばらをさぐるようなさわりかただった。


「ああ、わかるよ。要するに、そのぶんだけ君とバドくんのあいだには真実味があるんだろう」


 ディレンツァの言葉に、トレヴァはあごを若干かたむけたが、なにも応えなかった。

 商店街をぬけて、旧く、せまく、ちいさな住居がたちならぶ区域に入る。


「おれたちの家はもう少し奥まったところなんです。建物としては大きなほうなんですけど、きれいじゃないですよ」


 トレヴァがもごもごと説明した。好感がもてる照れかただった。

 路地を折れ、裏道を進むと人通りは極端に少なくなったが、人の気配はなくならなかった。

 むしろ人口密度は高くなったにちがいない。

 先住民が侵入者を見張っている原生林にでも入りこんだかのような、重厚な気配がいったいにただよっている。

 もっともそれは、どこの町にもある(どちらかといえば貧しい)路地裏によくある雰囲気ともいえた。


「あれです――」


 両脇にならんでいた建物がなくなり、視界が開けたところでトレヴァが指し示した。

 かつてはだれか(富豪)の所有地だったともいえそうなひろい雑種地のはずれに、平屋建ての家があった。

 古く、そのぶん傷んだ家だった。そばにいくつか物置のような小屋があるため、なおさらさびれてみえたが、想像したとおり、少なくとも来客を恥ずかしがるようなひどい家ではなかった。


 ディレンツァはかつてべつの国で廃墟の陋屋にへばりつくようにして人が住んでいるのをみたことがあったし、少なくとも貧窮した若者ならば宿なしといったこともありえるだろう。


「友人はもどってるかな?」


 ディレンツァは住居の傷みなど少しも気にしないそぶりで訊ねる。


「昨夜は酒場で一杯やったんだろう? なにごともなかったように寝ているかもしれないね」


「そうだといいんですけどね――」


 トレヴァが皮肉っぽい口調でつぶやく。

 ディレンツァは微笑する。


 しかし、トレヴァがやたらときしむ入口扉を開けたところで、その表情は凍りついた。

 建物に入ってすぐの部屋の中央で、男が横臥していたからだ。


 しかも死亡していると瞬間的に悟った。

 なぜなら男の顔は信じがたいほどの恐怖にゆがみ、蒼白くなり、すでに生気を失っていたのだ。口もとからは泡があふれている。


 段階的に思考を組みたてることができず、ディレンツァはそれでも混乱しないよう深呼吸をする。

 長年さまざまな修羅場に臨んできたが、さすがに予期していないことだったので一瞬、周囲に警戒することさえ忘れてしまっていた。


 トレヴァを見やると、口もとをふるえる手でおさえて固まっている。

 床にころがっている遺体を凝視しており、ディレンツァ以上の混乱に見舞われていることがうかがえた。

 パニックを起こさないだけりっぱなものだ。


「――友人か?」


 ディレンツァが低い声で訊ねたが、トレヴァはしばらく返事をしなかった。


「バドではないな?」


 トレヴァの表情や顔色から判断して再度訊ねると、トレヴァはゆっくりとふりむき、こくりとうなずいた。寒さに耐えているかのような動きだった。


 トレヴァはそのままゆっくりと近寄り、かがみこむようにして死体を確認し、ディレンツァをふりかえる。


「これはバドではなく――」


 トレヴァはうるんだ瞳をしていた。しかし、悲しいのではなく、おののいているみたいだった。


「……デュアンです」


「そうか。君たちの所属しているギャング団のリーダーだな」


 ディレンツァは部屋に入る。靴底できしむ床の音が建物全体に響いているかのように聞こえた。


 間近からのぞきこむと、やはり死亡していることはあきらかだった。

 完全に呼吸はなく、おそらく心肺も停止している。

 なんらかの魔法を駆使しても、蘇生する可能性はないだろう。

 死因は不明だったが、なんとなくじかにさわることはためらわれた。

 

 ディレンツァは魔法使いだったが、死者をよみがえらせるような奇蹟は起こせない。

 自然物質界のちからを組成するのが魔法だからだ。

 なにもなくなってしまえば、どんな魔法による呼びかけもとどきはしない。


「こういった事態について、思い当たるふしはないんだろうね。当然のことだろうが」


 ディレンツァが問いかけたが、トレヴァはうわの空のようだった。

 行方も安否もわからなくなったバドをさがしていたら、みずからの所属しているギャング団の主幹が(しかもトレヴァの家で)死亡している。

 一度に入ってきた多くの情報が処理できずに動揺するのも無理はない。


 ディレンツァはトレヴァが凶行におよんだ可能性について考慮してみたが、まずそれはないと判断した。

 ひととなりからということもあったが、そもそもみずからの殺人を部外者のディレンツァにみせる理由などないだろう。

 逆に(なんらかの理由があって)惨状をだれかにみせたかったのだとしても、トレヴァは当初ディレンツァの同伴を拒否していたのだ。


 ふと、ディレンツァはうすい花の香りをかぐように、部屋全体に魔力の残滓のようなものを感じとったような気がした。

 余韻のような感覚だった。この部屋において、なんらかの魔力の行使があったのだろうか――。


「あ――!?」


 すると、背後から驚嘆するような、不審がるような声がしたので、ディレンツァもトレヴァもふりかえる。

 思考に気をとられていたせいか、接近の足音さえ聞こえなかった。


 トレヴァもおなじだったようで寝耳に水といった顔をしていたが、敷居に立っている少年をみて、目を見開いたのち「バド……!?」と小声でふりしぼるようにつぶやいた。


 ディレンツァは、そのうす汚れたコートを着て、額に汗をにじませた少年をみつめる。

 確かにトレヴァがさがしていた友人のようだが、なにやら様子がへんだった。


「なんだ!? なにやってんだ!?」


 バドが叫ぶ。

 息もみだれていたし、不必要なほど狼狽している。目を血走らせているようにさえみえた。


 バドはつづけてなにかを叫ぼうとしたが、視線がトレヴァから床に向かうと、まるでのどの奥に棒でもつっこまれたみたいに口をつぐんだ。

 

 デュアンがいること、そしてそれが昏倒していることの衝撃が言葉を失わせたのだ。

 やがて身近な人間が遺体となっていることへの怯懦もその瞳にうかがえた。


「――おい、なんなんだよ!?」


 バドはそれでも、すぐにトレヴァにあゆみ寄る。バドは友人の肩にふれようか迷ったすえ、さわらなかった。


「どういうことだ!?」


「耳もとでさわぐなって、おれだっていまもどってきたところなんだ」


 いらついた様子だが声音をおさえてトレヴァが答える。

 口げんかを避けようとしているのは、ディレンツァを気遣ってのことかもしれない。

 二人きりなら怒鳴りそうな印象をうけた。


「なんでデュアンが――」


 バドがつぶやく。自然に身体の重心がずれたのか、床がみしりと鳴った。


「もしかして、死んでるのかよ?」


「ああ……おまえこそ、心当たりはないのかよ。そもそも、いままでどこをほっつき歩いてたんだ?」


 トレヴァが感情をおさえながら訊ねる。バドのほうはみていなかった。


「ああ、そうだ! それどころじゃないんだった!!」


 バドは唐突に叫び、大股で奥の部屋に向かった。

 まるでトレヴァとの険悪な雰囲気をふりはらおうとしているかのようにもみえるくらいおおげさな動きだった。

 ドスドスと歩き去ったのち、がさがさと物色するような音が室内に響きわたる。


 そのあいだ、トレヴァは黙ったままだった。

 いままで行方しれずだったことへの釈明も謝罪もないことも納得できなかったが、なにより居宅でまがりなりにもいままでそれ相応に世話にもなってきたデュアンが死亡していることを「それどころじゃない」と切り捨てたことが理解できなかったのだ。


「おい、ないぞ!!」


 すると、バドがすぐに奥から顔をだした。

 トレヴァに向けての言葉だった。ディレンツァがみえていないのではないかというくらい取り乱している。


「どこにやった!? ――かくしたのか?」


 バドが眉間にしわをよせる。

 しかし、その態度にトレヴァも憮然とし、攻撃的に応える。


「なんだよ、宝石のかけらのことなら、おれは知らないぜ」


 宝石のかけらと聞いてディレンツァは一瞬息をのんだが、表情にはださないようつとめた。


「なら、どこにいったんだよ!?」


 バドは駄々をこねる子どものように手足をばたつかせる。


「知るかよ。そもそも、おまえがあれを部屋にかくしてることだって、おれは聞いてなかったじゃないか」


 トレヴァは鼻をならす。

 昨夕、浜辺での難破船撤去作業を終えて家にもどったとき、トレヴァは宝石のかけらの所在を訊ねようとしたが、むしろバドが目でそれを制止してきたのだ。


「くそ!! わけわからねェ――なんでいつもうまくいきかけると、いろいろおかしなことになるんだ!?」


 バドは歯ぎしりをする。


「どういうことだ……なんでかくし場所が――ん、そうか――トミーか!?」


 バドは目を見開く。白目が充血している。


「おれもけっこう飲んでたからな、もしかしたら口走ったのかもしれない……もしくは、盗み聴きしてたか――あいつは耳ざといところがあるしな――くそ、よく憶えてないな、でもしばらくあいつ、おなじテーブルにいたはず……」


 バドは床をみつめながらつぶやく。


「そうだ。そもそも、昨夜おれとずっといっしょにいたのなんかあいつだけじゃないか!!」


 そして、みずからの考えを鼓舞するかのように叫び、顔をあげた。

 天啓を得た発明家のような晴れやかな顔つきだったが、それがなにかしらのよくない傾向をもったものだということはディレンツァにもわかった。


「トミーは……トミーはどこだ!」


 バドはつづけて声をはった。しかし、だれかへというよりは自分への問いかけのようだった。


「なァ、あれこれ詮索してるみたいだけど、おまえきっとまちがってるぞ。トミーなんか〈夕凪館〉で寝ぼけてたからな。酒がぬけてる気配はなかったから、完全に宿酔い状態じゃないか――って、おい、待てよ!」


 トレヴァが説明するよりさきに、〈夕凪館〉の単語がでたところで、バドは唐突に駆けだして、家からとびだしていってしまった。


 入口を通りぬけるときディレンツァと目があったが、見知らぬポーカーフェイスの男に、バドは一瞬眉をしかめただけだった。

 おそらく、ディレンツァが何者なのか推測すらしなかっただろう。


 ただそれでも、目に映るすべての人間を一抹の憎しみをもってにらんでいる――ディレンツァにはそう感じられた。

 世の中が思い通りにならないことを思い知った壮丁らしい目つきだった。


「くそっ。なんだよ、あいつ!」


 トレヴァが舌うちをして悪態をつく。

 少年だが、堂にいったしぐさだった。

 もう何度もくりかえしてきたにちがいない。


 ディレンツァがバドにつられるようにドアのそとに目を向けると、そとから騒音が聞こえた。

 男と女の声がいりまじったさわぎ声だった。


 男はバドの声だったが、女のほうも聞きおぼえのある声音だったので、ディレンツァはトレヴァをうながして戸外に向かった。


 デュアンをそのままにしていくのは気がひけたが、バドを等閑視してはならないだろう。

 冷酷なようだがデュアンはもう亡くなっているのだから、まずとりあえずは生きている人間を気にかけなくてはいけない。

 生きているかぎり問題はいつでも山積みで、その多くは同時性をもっているのだ。

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