24 溺れたカエルみたい

 ルイは腕組みをする。やはりそう簡単には事態は好転しなかった。

 漠然と最終的に湾岸事務所にたどりつくまでにはなんとかなると思っていたふしもあるため、がっくりきたといえばそのとおりだった。


 事務所の所長とやらに提案や嘆願をするにしても、(少なくともアルバートよりは100倍以上)利発で機転もききそうなジェラルド王子がおなじ目的を成就できなかったのだから、仮にルイが奮闘したところで難しいにちがいない。


 やってみなければわからないという熱意は大切だろうが、物事にはタイミングというものもある。

 漠然と胸のうちがよどんでいるいまは、なんとなくそういう時機ではない気もした。


「さて、どうしようかしらね?」


 ルイはアルバートをみる。

 しかし、アルバートはすでに、事務所の入口にたむろしていた大勢の陳情者のなかの一人となにやら話しこんでいた。


 さきほどの筋肉質な水夫とはちがい、長い白髪をたなびかせた(どこかうさんくさい)老人だ。

 アルバートは老人がむにゃむにゃとしゃべっている内容に、耳を貸しているようだった。


 傍目には孫が祖父の昔話でも聞いているかのような、なごやかな光景にみえたが、ルイにとってはそれこそタイミングが悪すぎた。

 アルバートが平和そうに笑顔をうかべていればいるほど、まるで停滞している現状を自分だけが憂慮しているような気がしてきて、こめかみに青筋がたつ。

 今朝から蓄積されつつあった怒りが、大地の底から噴火口にもりあがるマグマのようにこみあげてきた。


 ちょうどそこで、アルバートが老人の話に反応して「あははー」とまのびした声をあげる。

 しまりのない横顔と、そのどこか愚鈍な響きに、ルイの堪忍ぶくろの緒がぷつんと切れた。


「へらへら笑ってる場合かー!」

 

 ルイは遠心力を加えるべく軸足にふんばりをきかせながら、アルバートの尻を蹴りあげる――アルバートは「うわっ!?」と猛牛に激突されたかのように身体をのけぞらせながら、前のめりにとばされた。

 すると、もんどりうったアルバートのところに、一人の少年が事務所の入口付近の人だかりからぬけだし、わき目もふらずに全力疾走してきて、「あ、あぶない――!?」とルイが警告するかいもなく衝突した。

 まるで油断した羊飼いが、イノシシの猛進に跳ねとばされたみたいだった。


「ぎゃっ!?」「うがっ!?」


 アルバートの悲鳴と少年の驚嘆がこだまする。

 思わぬ大惨事に、ルイは唖然とする。


 アルバートは右頬に右手をあて、左手で腰をおさえてうずくまり、少年は仰向けにころがったまま動かない。

 少年の投げだされた指さきがヒクヒク痙攣している。瀕死を意味しているかのようだ。


「あらら」


 ルイはつぶやく。

 しかし、罪悪感のようなものはそれほど湧いてこなかった。

 アルバートが蹴られたのは(ルイにとっては)当然のことだったし、(なにがあったかは知らないが)集団のなかを一心不乱に走りぬけようとしてきた少年だって過失がないとはいえないだろう。


「まぁ、いってみれば一種の交通事故よね。両者の不注意、私にとっては不可抗力」


 ルイが感想をもらすと、アルバートが顔をしかめながら「なんだよ、その自業自得だよね、みたいな言いかた?」と非難してきた。


「少なくとも王子は自滅でしょう。ところで、そっちの彼はだいじょうぶかしら。溺れたカエルみたいになってるけど」


 ルイは少年を指さす。


「――カエルが溺れ死んだところをみたことあんのかよ!」


 すると、少年がむきになってたちあがる。

 仰向けに寝ころんだところから、ネックスプリングをしたのだ。なかなかの運動神経だった。


「あら、そんなにご立腹になれるぐらいならだいじょうぶね。心配して損した」


 ルイが舌をだすと、少年は真っ赤になった。


「――な、なんだよ、おまえ。初対面のくせに、失礼すぎるだろ!? 見た目ガキだし、中身もガキだな!? 恰好からして女か? 胸はどこにいった?」


 ルイはムッとして胸をおさえた。確かに爆発的なボリュームとはいえないが、実務的なほうではないかと思っている。

 ルイも声高に挑発する。


「あなただってガキじゃないの。てか、私はあなたほどガキじゃないわよ。そもそも、こんな陽気で、なんでそんな厚手のコート着てるの? ただでさえ暑苦しいのに!! そもそも、そのコート、もとは何色? なんだか汚いし、臭そうだし」


「うるせーな!? 余計なお世話だ!!」


 少年は地団駄をふむ。

 タコみたいにこぶしをふりまわしているが、ルイに暴力をふるうつもりはないらしい。

 そしてルイが相手では埒があかないと思ったのか、アルバートをふりむく。


「っていうか、おまえも!! なんだよ、急にとびだしてきやがって!!」


 急に矛さきを向けられたアルバートはあぐらをかいたまま、おびえた顔をする。

 立っていれば、あとずさっているだろう。


「あ、いや――その、ごめんなさい」


 アルバートは気圧されて謝罪する。

 しかし、それによりルイがさらに不機嫌になったのがわかる。生きづらい世の中だ。


「――なんだ、バドじゃねえか。なにしてる。また悪さか」


 すると、さきほどアルバートが話しこんでいた水夫がひょっこり顔をだした。

 水夫は眉間にしわをよせて、けわしい表情をしている。

 その態度と言動からして、どうやらバドと呼ばれた少年が不良的で高圧的(いわゆる問題児)なのはいつものことらしい。


「なにしてるって――あ、そういや、こんなところで道草喰ってる場合じゃなかったんだ!」


 バドは叫ぶと、無駄に横回転をしたのち、一目散に駆けだした。


「あ、待て!」


 水夫が引きとめようとしたが、バドはふりかえるそぶりもみせなかった。


「あの野郎……」


「血の気が多いですね。若者らしいっていえばそのとおりですけど」


 いつの間にか水夫のとなりにいるアルバートがつぶやく。


「ああ、あいつはただのごろつきだよ。この町にきて、まだそんなに長くないんだけどな。金がないらしいが、まっとうな職に就こうとせずに、どうしようもない連中とつるんでる。ときどき、公共の雑務を手伝ったりしているようだから、みんな大目にみてるんだけどな」


「どうしようもない連中? まさか〈鹿の角団〉ですか?」


 アルバートが眉をつりあげる。


「そんなわけない。こういう言いかたは正しくないだろうが、そんなりっぱなもんじゃないよ。あいつが入っているのは、町の粗暴なクズたちが集まってなんやかややってる規模のちいさな群れさ」


「そうですか、まァ、よかったです」アルバートが胸をなでおろすと、「は? よかった? ああ、〈鹿の角団〉じゃなくてってことか? それもずいぶん、うがった見方だぜ」と水夫が笑った。


「五十歩百歩ってやつだろ」


「ああ、いや、そういう意味ではないんですけど、あは」


 アルバートは耳のうしろをがりがりかいた。


「いずれにせよ、あいつらはさっきのオレの話もそうだが、だれかの忠告なんか聞きゃしないんだ。ガキなんだよ。オレたちに反発すること自体に躍起になってるだけなんだろう。ふん、いまだってやけに急いでいるようだが、あいつのことだからどうせろくでもない用事に決まってるぜ――」


 そこまで聞いて、ルイはひらめいた。


「でも、ぶつかって足どめくっただけであんなに怒って、しかも思いだしたとたんにそれもすっかり忘れて行っちゃうんだから、ただの短気じゃないわよね。きっと、なにかあるんだわ――」


 アルバートが不安げにルイをみる。

 しかし、ルイは傾斜をくだっていくバドの背中をみつめていた。


「よし、追いかけてみよう!」


 ルイは決めて、ほぼ同時に走りだした。


「なにかがひっかかるのよ!!」


 そりゃなにかはあるに決まってるけど――と、アルバートがごねるよりも早く、ルイはどんどん斜面を駆けていく。砂ぼこりを巻き起こしながら。


「おい、くだらんことに首をつっこまないほうがいいぞ?」


 水夫が警告してきたが、アルバートは置いていかれるわけにもいかないし、ルイを放置するわけにもいかないので、とりあえず水夫にごにょごにょとあいまいな返事と謝辞をつたえてからあとを追った。

 靴底が地面をけずる音が、なんだかとても大きく聞こえた。

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