8 優等生の仮面
トレヴァは街道に入って足早に前進しながら、なぜデュアンたちが客間にいたのか、あるいは自分が部屋をかんちがいしただけだったのかは、すぐにどうでもよくなったが、デュアンたちが呼び鈴に反応しなかったのがあんな理由だったことにはだんだんとむなしささえこみあげてきた。
デュアンとメオラは恋仲なのだからそうあって悪くもなければおかしくもないが、早朝から熱心にいそしむようなことではないとトレヴァは思っていたし、来客を無視したい気持ちもわからないでもなかったが、いまのささくれだった心をしたトレヴァにはとうてい受けいれがたい感情だった。
しかしトレヴァはずっと以前から、デュアンとメオラがそうなっている要因、あるいはそうせざるをえない内情というのを(トミーからの讒言もふくんで)恣意的に推し量っていた。
デュアンとメオラが公然と愛欲を顕示して交際しているのは、そうしなければ過去の自分たちと現状との折り合いがうまくつかないにちがいないのだ。
デュアンは前述のとおり貴族の出自をもっており、いうなれば将来を約束された御曹司だった。
父親や祖父は代々王都の中央議会の書記官として精勤し、評判もよく、官位はそれほど高くはなかったが、誇るに値する家柄といえた。
デュアンがその地位を承継することなく、草原の国の〈はずれの港町〉まで流れてきて、しかもならず者あつかいをうけている要因は、ひとえにメオラとの邂逅に端を発していた。
デュアンは現在25歳になったところだったが、ギャングになる二年まえまでの人生はなんらかげりのない陽のあたる路をゆくものだった。
デュアンは先代がそうだったように、書記官となるべく日々勉学にいそしみ、酒もたしなむ程度、趣味も賭博要素のないビリヤードや競走馬鑑賞といった害のないもので、だれがみても微笑をたたえて諸手をひろげるような品行方正な好青年だった。
見目も美しく、感情ゆたかな一面ももちあわせていたため、20歳をまたずに周辺の令嬢たちから多くのさそいの声がかかったりもした。
それでもデュアンは、みずからが書記官となり地盤をかためるまでは気をぬかないという質実さを手放さないつもりでいた。
しかしその決意の固さも、メオラとの出逢いによって春の雪どけのようにあっけなく崩れ去ってしまったのだ。
その日、部屋にこもり、根をつめて試験にそなえていたデュアンを、息抜きと称して、叔父が街に連れだした。
叔父は王都でも有名な楽劇場の支配人で、生真面目なデュアンの父親とは根本的に異なるところが多かった。
陽気で壁がなく、なにより享楽的に過ごすことを知っていた。表裏のない子どものような屈託さが瞳にうかぶことがあり、デュアンも叔父のことが好きだった。
だから気晴らしにさそわれれば、それに応じることは至極当然のことだった。
無論叔父にも悪気はなかったし、まさかそれによってデュアンの人生が大きく狂っていくことなどだれにも想像できなかったのだ。
叔父がデュアンをともなっておとずれたのは裏街だった。
壮大な王都でも、ある種のはきだめのような地域で、無法地帯であり、品位のかけらもない一角だった。
しかしその代わりに、あらゆる種類の娯楽が横溢する夜の世界だった。
そのとき叔父は、男ぶりのいい甥を裏街にいる知人や仲間、女婦たちに自慢したいぐらいの気持ちだった。
しかしデュアンは、叔父の関係者たちに誉めそやされても、俗悪な空気には馴染まず、あいまいな微笑をたたえるばかりだった。
強い香水の匂いや、派手な化粧たちがいくら声高に話しかけてきても、拒絶こそしなかったものの、一向になびこうとはしなかった。
それでも叔父に迷惑をかけないために、いつもよりははめをはずした。
叔父につきあって深酒をし、わずかな時間、天地がわからなくなるほど泥酔してしまった。
そして明け方が近づいた頃、デュアンは食道をじかにさわられているような具合の悪さに堪えかねて店外にでた。
さいわい店内は(連日そうであるように)浮かれ騒いでいたので、だれもデュアンのことを気にとめなくなっていた。
店のすぐそとには水路があり、それをたどったさきには河があった。
デュアンは、そとの空気で気分の回復をはかろうとしたのだが、ふらふらと店の裏口から路地裏にでて、宙を歩いているような酩酊感のなかで溝ぶちに立ち、うす汚れて滞留している水面をみたとたん、急激な吐きけにさいなまれた。
胃の奥深くからこみあげてくる衝動にめまいをおぼえ、両膝をついてふんばったものの、勢いよくそれまで飲み食いしたものを水路に吐きだしてしまった。
「おいおい、兄ぃちゃん、かわいい顔して派手にやってるな。水嵩を増やそうって魂胆かい、へへへ」「やだ、かわいそうじゃない、かまわないであげましょうよ」と、どこかの男女の声が聞こえた。
すぐ近くから話しかけられているのに、ずいぶん遠くから聞こえてくるようだった。
息つぎのあいだに、自分の身体が制御できない無力感と、醜態をさらしているという悲哀が募った。
それでも嘔吐感が消えることはなく、目のきわには涙がたまり、何度か嗚咽がもれた。胃がしめつけられるような苦しさを味わう。
そしてそれがおさまってくる頃には、人生をはかなむようなむなしさが胸にたちこめていた。
それまで感じたことのない、迷路のいきどまりで疲弊しているような気持ちだった。
デュアンは口もとをぬぐいながら河のほうをみる。そこには空の月が楕円に映ってゆらいでいた。
デュアンはそのとき、水路にそのまま跳びこんでしまってもいいような気がした。
命を軽んずるなど一瞬の気の迷いにちがいなかったが、そのときはなにかに背中をあと押しされるような自暴自棄におちいっていたのだ。
それは舞台が暗転していくような淋しさだった。
しかしそのとき、一条のスポットライトがあたるように、うつむいたデュアンに光が射した。
うつぶせになって水路に倒れこみそうなその背中に、そっとやさしく手が置かれたのだ。
そして、「だいじょうぶ? 慣れてないなら無理しちゃだめだよ」と、デュアンの瞳を、笑みをうかべた女性がのぞきこんだ。
メオラだった。
裏街で逢ったその他大勢の女性とおなじで、きつい香水の匂いはしたし、濃いブルーのアイライナーがきわだっていたが、その瞳の奥はちがう光を宿しているように、そのときのデュアンにはみえた。
メオラの瞳は純粋な理性でかがやき、やさしさや愛といったものをたたえているように思えたのだ。
メオラはデュアンの体調が回復してくるまで、デュアンをうしろから支えていた。
酔いが醒め、それまでの(身体と精神の)不調が回復すると、デュアンはメオラに感謝し、それからおたがいに名乗りあった。
朝まではまだ時間があったし、叔父はあいかわらず店内で騒いでいたので、二人は夜に出逢った者同士ならではの独特の親近感もあいまって、長らく話しこんだ。
メオラはデュアンが名門の家系にあることを知っても、みじんも態度を変えなかった。
そもそも裏街にその手の人々がくることは日常茶飯事だったし、出逢いが出逢いだったので、メオラはデュアンに対して特別な偏見をもつことはなかった。
デュアンはそれまで優等生の仮面をかぶることを常としていたが、最初からもっとも見苦しく、だらしないすがたをみられたことにばつが悪い思いはなく、逆に解放感さえ味わっていた。
むしろ初対面で腹をわって相手と会話ができることがうれしくさえあった。
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