1 時のはざま
カモメが鳴く声に耳をすませると、海をわたる風は旅人の鼻腔をくすぐる。その匂いはとてもしつこく、どこかなつかしい。
時を告げるべく、汽笛が空に響きわたり、やがて船は去りゆく。
港はそのとき、さまざまな人間模様に彩られる。そこには出逢いや別れ、それに類するものがある――。
――――
夜でもなく朝でもないはざまの時間帯に、バドは眠れないときいつでもそうするように砂浜を散歩していた。明け方、もうすぐ太陽が東の空に現れるべく、たなびく雲が紫色にそまる直前の頃だった。
一日24時間はいつでも朝、昼、夜に明確に分類されるものではなく、その中間、あるいはそのどれとも異なる顔をみせる時の間隙があることをバドはよく知っている。
それはとても短く区切られた瞬間でしかなかったが、そのなかにたたずむとき、まるでまぼろしの世界にいるようでバドはそのふしぎさを気に入っていた。
バドには魔力を感応するような素質はまるでなかったが、その夢のような時間のなかで景色をみて、胸いっぱいに呼吸をすることで、まるで妖精たちがつどう時空をこえた世界にいるような、そんな気持ちになれるのだ。
しかしそのときも、夢見心地の感覚はあっという間に過ぎさってしまった。
バド本人は自覚していなかったが、それは一種の逃避でしかなく時間は常に流れているのである。
砂浜も遠くの空もひろがる海のすべても灰色にそまって、まるで凍りついたようだったまぼろしの海辺も朝に区分される節目に入ろうとしていた。
たちどまって海の波間や遠くの空の雲のかたちをみつめていたバドは、やがてうつむくと、うす汚れた鳩羽色のコートの右袖に繊維のほつれがあることに気づき、考えなしのままひっぱった。
すると糸のかたまりはほどけるどころか余計に生地を傷つけ、やがて糸球が袖口を圧迫する感触とともにとれ、その部分がちいさな穴になってしまった。
左手の親指とひとさし指でのびた糸をつまんだまま、バドは不満からくちびるをつきだしたが、もう後悔するしかなかった。
バドは幼い頃から思いどおりにいかず歯がゆいとき、くちびるをとがらせて黙りこむくせがあった。
ふと孤独を感じて空を仰いだことで、いままで何度となく早朝の浜辺を逍遥してきたのに、少しも疑問に感じていなかったことが心にうかんだ。
この時間帯には、漁船のまわりや港を騒がせているカモメが一羽もとんでいないのはなぜだろう――バドはそんな瑣末なことに気をとられながら、灰色の沈黙の空をみつめる。
そしてしばらくそうしたのち、手にしていた糸くずを静かに押し寄せる波のなかに放った。
糸はひらひらとヘビのようなゆれかたをしながら水面に吸いこまれ、波にさらわれてすぐにみえなくなった。
たいした疑問ではなかったがバドは無性に気になった。
仮にずっと忘れられないようだったら、トレヴァに訊いてみよう。
トレヴァはちいさいときからバドより才知にまさり、常識も身につけていた。
答えか、仮に知らなくてもバドよりも確かな仮説を教えてくれるだろう。
最近はぎくしゃくすることも多かったが、ただ一人のパートナーであることは変わらないのだ。
バドは糸のかたまりを追いかけるようにして波間に目を向け、ふと渚に不気味な黒い物体がいくつも浮かんでいることに気づき驚いた。
最初からずっと浮揚していたのだろうか。
少しだけ背筋が寒くなる。
突然現れたかのようにみえた黒々としたそれらは一瞬、沈没船の乗組員の亡霊たちのようにもみえた。
しかし、冷静にみると、それらが板きれや樽などで――そう悟った瞬間、バドはみずからの周辺いったいに、いつの間にか複数枚の木材が打ち寄せられていることに気づいた。
樹木の残片は、波のなかで遊興にふける仔犬たちのようにゆれている。
板片がこすれあう、にぶい音がする。
徹夜による倦怠感がのしかかったまぶたをこじあけながら、バドは足もとに流されてきた木片をみつめた。
しばらくみつめて、それが本当に帆船の名残りだということがわかった。
どこかの船が難破したのだろうか――バドは周辺をうかがい、かつてはマストだったにちがいない垂直の円柱型の棒と船窓の破片とセイルの布地をみつけた。
布にからまるように浮いているロープは海ヘビのようで不気味だった。
するとバドは少し離れた波打ちぎわに木箱があるのを発見した。
ぬれた砂が付着し、海藻がからまりよごれていたが、なぜかそれが目にとびこんできた瞬間、バドの心臓が一度だけ強く鼓動した。
それがどんなものであるのか想像さえつかなかったのに、まるでいままでさがしてきてずっとみつからなかったものがそこにあるかのような興奮が全身を駆けめぐったのだ。
バドは無意識に両手をまえに差しだしながら、びしょぬれの傷みの激しいその木箱まであゆみ寄った。木箱は約40センチ四方の立方体だった。
どことなく不吉な印象をたたえていたが、そういった負の(まるで呪われているかのような)オーラが心を惹いたことをバドはまだ理解できていなかった。
昨今、夜も眠れないほど懊悩し、どこか自暴自棄になっていたバドは、あやしい箱がもつ暗黒的なたたずまいに知らず知らずのうちにとりこまれてしまっていたのである。
かがんだバドの右手がそっとふれただけで、箱はいままでかたちを保っていたのが奇蹟であるかのようにくずれ落ち、バドは思わずのけぞる。
罪悪感にも似た感情にさいなまれたが箱のなかにあるものが気になったので、壊れた木枠をはらいのけて絹の布にくるまれ置かれていた品物を手にとった。
乳白色の布をはぐと、台座がついている宝石が現れた。
バドは無意識に布を浜に落とす。ひらひら舞い落ちた布は灰色の波に音もなく呑まれて消えた。
宝石の全長は20センチほどだった。
しずくのような上部がさき細り、下部が球状をしているものだったが、バドにはそれが意味することはわからなかった。
バドはしばらくそれをみつめて呆然としていたが、やがて宝石が東の空に顔をだした太陽の光をにぶい色彩で反射したため、夜が明けたことを悟る。
遠い空は暁の色に燃えていた。
朝陽が浜辺を染めていくにつれてさざなみの音色も聞こえるようになり、にわかに新しい朝がおとずれ、一日がはじまったことを実感した。
「――おい、なにやってんだ?」
ふいに背後から声をかけられ、相手がトレヴァだということは認識したのだが、バドはまるでいたずらがばれた子どものように度肝をぬかれた。
バドはふりかえりながら無意識に宝石をうしろ手にかくしもつ。
「難破船だな……」
トレヴァは怪訝そうな顔をしながらバドに近づいてくる。
バドは内心どきどきしていたが、その不穏な表情はバドに向けられたものではなく、周辺いったい――浜辺にうちあげられた無数の残体についてのものだった。
トレヴァはバドの動揺には気づかないようだった。
「どこの船だろうな?」
「さ、さァ……」
おびただしい数の船板のかけらは、ちょうどバドが立っているまわりに重点的に流されてきていた。
トレヴァは、バドが難破船を発見したからそこにたちどまっていたのだと解釈したようだった。
バドは訂正する必要もないと考え、そのまま黙っていた。
「あ、なんだ、徽章があるじゃないか――これは水の国のものだな」
トレヴァが船上に立てられていただろう旗をひろいあげた。
ぐっしょりと海水を吸収したそれには見慣れない国章が刻まれている。
バドは生まれてから一度も故郷の草原の国を離れたことがない。だから他国の徽章など記憶してはいなかった。
「あ、ああ、そうなのか……」
バドはしどろもどろに応える。宝石をもっていなければ、こめかみをぽりぽりかいていたにちがいない。
トレヴァは眉をつりあげる。
「なんだよ、気づかなかったのか? それとも、知らなかった?」
トレヴァの嘲弄するような(じっさいトレヴァはそんな意図を少しもふくめてはいないのだが)、卑下するような言いぐさがいつもなら癇にさわり、ふくれっ面のひとつでもするところだが、バドはだんだん混乱してきていたのでそれどころではなかった。
バドの様子がおかしいのを察して、トレヴァが言葉を区切りバドをみつめる。
トレヴァの視線にバドは余計にどぎまぎした。目をそらしていた(満足に目を合わせたことはもう半年近くなかった)が、バドは息苦しさをおぼえる。
「いやさ……」
バドは沈黙とそのまなざしにこらえきれず、わざと軽薄をよそおって「へんなものをひろったからさ。ちょっと動揺しただけだよ」と頬骨をゆがませながら、うしろ手にもっていた宝石をトレヴァのまえに差しだした。
そもそもかくしとおそうと思っていたわけでもないし、いったん披露してしまうとなぜ最初にかくしだてようとしたのかも謎だった。
バドはこんなふうに自分のなかにある漠然としたどこか明白ではない性質にときどき混乱させられることがあった。
「ほら、これだよ。なんかさ、かたちっていうか――全体的にちょっとへんだろ?」
バドが提示したものをトレヴァは不審顔のままみつめる。
しかしすぐに宝石に関心が移ったようで、無表情になった。
バドもふたたびその宝石をながめてみる。
つるりとした形状が一瞬まぶしく陽射しを反射した。
「――これは〈伝説の宝石〉のかけらのひとつだな」
トレヴァがつぶやく。
バドは思わず「ん?」と訊きかえしたが、トレヴァは腕組みして黙りこんだ。
そして難破船で散らかった浜辺や中空をみつめて、しばらくなにごとかを思索していた。
バドはそのあいだ宝石の照りかえしにみとれていた。
波の音が断続的に響いた。
早朝の静かな白波がバドの鼓膜を刺激する。
「〈伝説の宝石〉だよ。ほら、知らないか? 6つだかの破片になっている宝石で、ぜんぶ集めると夢が叶うとかっていう代物。ぜんぶおなじかたちなのに、なんでかけらって言われるのかは知らないけど。いや、どっかで見憶えがあると思ったんだ。おれも昔、絵本かなんかで画をみただけだからうろ憶えだけど、水滴みたいなかたちをしてるからさ、これって。だからなんとなく記憶してたんだな……」
トレヴァは「だとすると、これは水の国にあったかけらってことになるのかな?」と、だれにというわけでもなく小声でつぶやいた。
しかしバドの耳の奥ではそのとき、トレヴァが口にした「夢が叶う」という単語が何度もこだましていた。
それは比喩の一種なのか、それとも額面どおりに受けとっていいのか、きわめてあやしい響きだったが、バドはまるで暗転した舞台のうえで自分だけがスポットライトに照らされているように感じた。脚がふるえてきた。
トレヴァがぼそぼそと話しつづけていたが、バドの耳にはとぎれとぎれの雑音として聞こえてくるだけだった。
本来ならそんな夢物語を真にうけるようなことはなかったが、そのときのバドにとっては例外だった。
なにもかもがお膳だてされたようなタイミングに、バドはみずからの運命の歯車がまわりはじめている予感をおぼえ痙攣するほど興奮していた。
まるで猫に追いつめられていたねずみが視界のかたすみに逃げ道を示すトンネルをみつけたかのような感動に、バドは空いているほうのこぶしをにぎりしめる。
「夢が……叶うのか。この宝石で」
バドがぎらぎらした瞳でトレヴァをみたが、トレヴァは目をそらしていたため、バドがそんな目をしていることには気づかなかった。
「ん……まァ、かけらがすべて集まってなんらかの効果が発揮されればってことなんだろうけどな。そもそも伝説なんだからあてにならない話だけどさ」
肝心なところを看過してしまっていたことを知り、バドはとまどいと不安がいりみだれた表情になった。いま手もとにある宝石はトレヴァが言うにはいくつかある破片のひとつに過ぎないのだ。
夢を叶えるという奇蹟をひきおこすにはこれだけでは不足なのだろう。
バドは燃えあがったたき火にバケツいっぱいの水をかけられたかのように一気に落胆したが、トレヴァがぼやくようにつぶやいた言葉でなんとか持ちなおした。
「ああ……そういえば、ちょっとまえに〈鹿の角団〉が〈伝説の宝石〉を手に入れるために、沙漠の国に夜討ちをしかけたって噂があったな。ずいぶん王都でも取り沙汰されてる問題だっていう世評だったか。なんで急に関心をもったのかしらないが、〈鹿の角団〉も宝石の収集をしてるんだろうな――」
バドは一度ふさがれた希望のぬけ道をふたたび視界にとらえたような気持ちに顔をあげる。
その瞳に、空をゆっくりとのぼってきた太陽の暑いくらいの陽射しが写りこんだ。
自分はまだ運に見放されていない。
そう確信してバドは奥歯をかみしめた。
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