29 最も有効な方法

 ベノワの居室にまっさきに踏みこんだルイの目にとびこんできたのは、女だった。

 三角錐のようなマジックハットをかぶっており、魔女のようなかっこうをしていたが、なぜか絨毯のうえにぺったんと坐りこんでいて、しかもルイを視認したとたん、「ムキー!」と発情期の猫みたいに顔を真っ赤にして威嚇してきた。


 ルイは突然のできごとに思考がとび、その女が〈鹿の角団〉の盗賊だと気づくことに時間を要してしまった。


 背後でアルバートが盗賊の出現うんぬんについて騒ぎたてようとしていたが、女がディレンツァをにらみつけて殺気をみなぎらせたので、ルイもアルバートも口をつぐんだ。


 女はダンスでも踊るようなしぐさで、くるくると動物の骨のようなものをとりだして口にくわえる。


 ルイにはその光景がだいぶ奇怪にみえたが、かまえかたですぐにそれが笛だということがわかった。なにかしらの攻撃を予期して、ルイたちはそなえた。


 しかし、女が呼気をこめても、笛は音を発しなかった。うしろのアルバートがごくりと息を呑む。ディレンツァが舌打ちをする。


(え、なに? なんなの!?)


 ルイは拍子ぬけな気がしたが、女が残忍な笑みをうかべていたため、いやな予感にさいなまれた。


 ふと背筋がぞくっとした。

 そして、じっとりと身にからみつくような湿り気をふくんだ風が窓から入りこんできて、ちらりと窓のほうをみると、「え!?」とルイは思わず叫んでしまった。

 声につられて、全員が窓のそとをみる。


「う、うさぎ!?」


 アルバートがその対象をゆびさし、頓狂な声をだす。

 ゆれるカーテンに向こうで、どんよりした風にみちびかれるようにして、灰色の雲が凝縮してきたかと思ったら、突然そこに巨大な綿尾うさぎが出現したのである。


 うさぎは細部にいたるまで、白地にチャコールグレイの斑点のある野うさぎのそれとそっくりだったが、全員が驚愕した理由は、3メートルはあろうかという、その体長だった。


 巨大うさぎは緩慢なしぐさで、穴のなかに忍びこむようにして室内に入りこんできた。ひくひくさせている鼻の穴もにぎりこぶしなみに大きい。


 ルイたちが目をうばわれていると、「あの角笛だ――あれで、この幻獣を召喚したようだ」とディレンツァが指摘し、幻獣という説明にはルイも納得がいったが、うさぎの迫力に首肯することさえできず、目をそらすこともできなかった。


 うさぎ独特の門歯がうすい月光をうけてあやしくきらめき、大きな鼻の穴で、しきりに部屋のなかの匂いをかいでいる。


 森や野原でときどき遭遇する小動物としてのうさぎならまだかわいげがあったが、巨人をもはるかにうわまわる大きさでは、異様さのほうがさきだち、ルイは自然とあとずさる。背後のアルバートの靴さきに、ルイのかかとがぶつかった。


「わーい、かわいいかわいい! うさみみちゃん、おいでおいでー!!」


 角笛の魔女が、ぴょんぴょん跳ねながら歓び、すり寄ってきた巨大うさぎの眉間をがしがしとなでる。

 うさぎがうれしそうに目を細めているところが、ルイの目には恐怖だった。


「うふふ、かわいいかわいい、うわー、わ、舐めるなー、ぎゃー」などと魔女はしばらく巨大うさぎとたわむれていたが、ふとルイたちのほうを向いて婉然とほほえむ。


 あるいは男なら、それを魅力的だと感じる表情かもしれなかったが、ルイの背筋には寒いものが走った。


 魔女はとても愉快そうに、「あのねあのね、うさみみちゃん。あの人たちが、うさみみちゃんと遊びたいんだって。ね? 楽しそうだね。うふ、食べちゃってもいいよ? さ、いっといでー」などと悪質なことを言い放つと、ベッドのうえにひらりと舞いあがって、巨大うさぎの背をポンと押し、ルイたちを攻撃するよう仕向けた。


 ルイが「な、なんなのよ、あの女! ぜったい友だちになれそうもない!!」と悪態をつくと、「向こうもそう思ってそうだよね」とアルバートがぼそっと口をすぼめる。


「ちょっと! どっちの味方なのよ!?」と、あばれ猿の形相でルイがアルバートをにらみつけると、ディレンツァが「やめろ、くるぞ――」とよく通る声で警告した。


 二人がはっとしてディレンツァをみて、そのまま巨大うさぎのほうに視線をめぐらせると、うさぎはものすごい勢いでパーティションをいくつかなぎたおし、ルイたちのもとまで急接近しており、ルイとアルバートが「きゃっ!?」「うわっ!?」とあわてて身をかわすと、うさぎの鋭利な前脚の爪によって、いままでルイとアルバートが立っていたところがぼっこりとえぐられた。


 わきに避けたルイがかたひざをつきながらその箇所をななめみると、絨毯は無惨にはがされ、石の床のブロックがひとつかち割れて、そのまわりにも亀裂が入っていた。小隕石が落下したかのようだった。


 ルイがたちあがって見やると、巨大うさぎはアルバートを遊び相手に選んだらしく、アルバートは意味不明な言語を口走りながらぶざまに逃げころげていた。


 ディレンツァは放心状態のブルーベックをかばいながらうさぎをにらんでいる。ディレンツァのことだから、なにか対策を練っているにちがいない。


 ベッドをみると、マジックハットの女が「あははは」と愉快そうに腹をおさえている。腹立たしさにルイは地団駄を踏みたい気分だったが、あまりに劣勢だったので冷静になるようつとめた。


(どうしよう……)


 額に汗がにじんでくる。

 巨大うさぎはアルバートを追いかけて部屋のなかをうねり歩いていた。アルバートはわーわー騒ぎながらも、わりと器用に追撃をかわしている。


 傍からみているとじれったい動きにみえたが、そのせいかうさぎにも捕捉しづらいようで、まるで闘牛のようにぎりぎりまで追いつめられてはかわすといった動作をくりかえしていた。


「――ルイ」


 ディレンツァの低音に、ルイは目を向ける。


「王子だけでは危険だ。ルイも手をかして時間を稼いでくれないか。そのあいだに、私は魔法を完成させる」


 ディレンツァのまっすぐな目に、ルイは反射的にうなずく。

 いまのルイにはディレンツァ以上の智慧がでる予感はまったくなかったので、ディレンツァの指示にさからうつもりもなく自然とそうしてしまったのだが、よりによって「おとりになって巨大うさぎの注意をひきつけろ」には、さすがのルイも躊躇する。


「えっと……」


 ルイはアルバートと巨大うさぎを交互にみて二の足を踏んだが、やがて、案外そつなく逃げまわっていたアルバートが部屋のすみに追いこまれてしまった。


「あ、お、う――」


 アルバートが淡水魚のように口をパクパクさせながらルイをみる。

 さすがに見殺しにすることもできないので、ルイはアルバートとうさぎのあいだに強制的に割って入らねばならなくなった。


 するとベッドのうえの魔女が、壁にはりついて蒼ざめているアルバートをゆびさしながら「がんばれがんばれー、きゃは」とかん高い声で笑った。


 ルイはその声の高さも気に入らなかったが、なぜだか心にわだかまりを感じて、無性にいらついた。口をへの字にして考えて、すぐに理解した。


 魔女がアルバートを嘲笑して喜んでいるのががまんできなかったのだ。それはアルバートがばかにされたことに対する怒りではなく、アルバートをばかにしていいのは自分だけなのだというみょうな自負だった。


 ルイは胆を決めて、助走をつけながらジャンプし、「うりぁああ!」と巨大うさぎの背中に跳び蹴りをみまった。


 ボムッというやわらかい感触がヒールの先からつたわってきたものの、蹴りとばしたというよりは、クッションに沈みこんだといった衝撃だった。

 うさぎにダメージがあったとは思えない。しかも、ルイはそのまま絨毯のうえにころげて、腰をしたたかに打ちつけてしまった。


「あいたた……成功なのか失敗なのかわからないおちね――」


 ルイが腰をさすりながら、あたまのまわりでくるくるまわっている星々をふりはらうようにして立ちあがり、嘆息しながら前を向くと、当然のことだったが、目前で巨大うさぎが仁王立ちになっていた。


「ひっ!?」


 ルイの全身が総毛だつ。

 巨大うさぎはルイをにらんでいた。

 アルバートと遊んでいたさっきまでとは異なる凶悪な目つきをしている。うさぎやげっ歯類の動物は基本的にかわいらしいくせに、憎しみの表情をするとどうしてこんなにえげつないのだろう。


「ル、ルイ――ファイト」


 巨大うさぎがみずからの追尾をやめたことで安堵したアルバートが、うさぎ越しに小声で応援してきた。


 ルイは「この難局をのりきったら蹴りの二発ではすまさないから」という顔でアルバートをにらみかえしたが、うさぎが俊敏にうしろ脚で床を蹴ってとびかかってきたので、それどころではなくなった。


 遊び相手から獲物になったせいもあり、巨大うさぎはアルバートのときよりずっとちからづよく、ルイを追いかけてきた。


 ルイはテーブルをくぐって対面にまわり、椅子を身代わりにし、絵画を壁からはずしてたたきつけ、だれのものかよくわからない胸像を投げつけ、ワードローブからシーツやら衣服やらをつぎつぎにとりだして目くらましにしたりしたが、うさぎはまるでじゃれて楽しんでいるようにしかみえなかった。


 うさぎは興奮しているらしく、ブッブッと声帯から呼気をもらしている。


「うふふ、うさみみちゃん、おならしてるみたい。うふ」


 魔女が口もとをおさえて肩をゆらしていたが、激しい応対で息が切れていたルイには悪罵をかえす余裕もなかった。


 そして、ふと気づくと、ルイはさきほどのアルバートよろしく、壁ぎわに追いつめられていた。

 左の肩甲骨が窓枠にあたり、耳のうしろで窓のそとを流れる風の音を聞いた。

 呼吸がみだれ、耳の裏で脈動を感じる。


 ルイのまえで立ちあがっている巨大うさぎは、まるで睥睨するようにルイを見おろしていた。うさぎの向こうで、アルバートがおびえた表情でうろたえている。

 部屋のすみのベッドには、ケラケラと嬌声にも似た笑い声をあげながら両手をつきあげ、腰をふっている憎たらしい魔女がみえる。


 ルイが目線をそらしたことに腹をたてたのか、うさぎが二度、うしろ脚で床をたたいた。

 ダンダン! と思いのほか硬質な音が響いて、魔女も思わず動きをとめる。


 得意げな顔の巨大うさぎを見あげながら、ルイは万策が尽きたことを悟る。

 のどが渇いて、つばがうまく呑みこめない。

 うさぎがルイに手をかけようと前脚をふりあげた。

 ルイは観念したように頚をすくめ、目を閉じる。


 すると「ルイ――伏せろ!」とディレンツァが叫んだ。


 ルイにはディレンツァのそれが神さまのお告げのようにさえ思えて、反射的にまぶたを開ける。

 見開いたルイの視界は、突如、赤い光で覆われた。

 ルイはあわてて警告どおりに床にかがむ。


 赤い光の正体はすぐにわかった。

 炎だった。ディレンツァはルイが時間稼ぎをしているあいだに、炎の魔法を完成させたのだ。


 ルイのすぐ近くで、火柱がごうごうと燃えあがり、やがてそれは巨大うさぎを取りかこむように燃えひろがった。

 激しい熱がルイの頬につたわってきて、ルイは顔を少しそむける。

 一般的な部屋よりいくらか広いとはいえ、まさかディレンツァが炎の魔法を選択するとは思わなかった。


 生きものみたいにうごめいている炎を避けてから立ちあがると、炎の切れ間に、きょろきょろと周囲を見まわしながら困惑している巨大うさぎがみえた。


 焦燥しているうさぎの目には涙がたまっているようにみえ、さっきまで余裕のかたまりだったベッドのうえの魔女も「あーん、なんなの、もー!?」と悔しそうに頬をふくらませる。ルイはうれしくなって、片目を大きくした。


 しばらくすると、巨大うさぎはみずからを包囲している炎の柱からは脱出できないことを悟ったのか、びくびくと身体をふるわせたのち、けむりになって宙に消えてしまった。幻獣の世界へともどっていったのだろう。


 ルイは胸をなでおろし、脱力するようにその場に坐りこんだ。

 危ないところだった。間一髪でディレンツァの起死回生が間に合った。


「ル、ルイ――だいじょうぶ!?」


 アルバートが駆けてきたので、ルイはアルバートの適当なところに手をかけて起きあがる。

 いきなりベルトをつかまれて、アルバートは「うわぁ」とよろけた。


「なにするんだよ!?」


「さっきの応援のお礼よ」


 ルイは、ふんと鼻を鳴らす。

 そこへディレンツァとブルーベックが合流してきた。

 ブルーベックは極度の緊張からかひきつった顔をしており、ディレンツァには魔力の解放直後の疲労がうかがえた。


「ありがとう。助かったわ」


 ルイがほほえみかけると、ディレンツァは目をこすりながら、「すまない。どういった魔法がいちばん有効かを考えていて対処が遅くなった」と謝罪してきた。


「でも、火を使うとは思わなかったよ」とアルバートがつぶやきながら、ふと炎のなごりが革張りのソファにとび火していることに気づいて、あわててたたき消す。


 ディレンツァはまぶたを一度閉じて、深く息を吐く。


「うさぎは小動物だけあって、だいぶ熱に弱い。そもそも長い耳は放熱のためにあるともいわれている。炎であおれば逃げ去るだろうと考えた。屋内だが危急の事態だ、炎もやむを得ないだろう。あの大きさでは、爪や前歯の一撃であっという間にやられてしまう。極力、効果的な方法で攻撃しなければ間に合わないと判断した」


「……いえ、むしろ助かったわ。そんな事情があったなら服が燃えようが、肌が焦げようがちっともかまわない。ありがとう」


 ルイはあらためて、ディレンツァの存在を頼もしく感じた。ルイがうさぎに追われて躍起になっているあいだに、ディレンツァがそこまで黙考していたとは思わなかった。


「あ――いない!」


 突然アルバートが叫ぶ。ルイとディレンツァは、アルバートをふりかえる。

 そして、アルバートがさし示しているほうをみると、ベッドのうえでアホウドリのように踊っていた魔女がすがたを消していた。


「あ、あいつ――いったいどこに!?」


 ルイがムッとすると、いままで始終黙っていたブルーベックがつぶやく。


「うさぎが消えたあと、そとにでていった――」


 ルイたちがブルーベックをみると、ブルーベックは部屋のすみにあるドアをみつめていた。そのドアは魔女が開け放したせいか、風でグラグラとゆれて、蝶番がにぶい音をたてている。


「――どこに逃げたのかしら?」


 ルイが訊ねると、「もうひとつの尖塔に向かって桟橋があるんだよね?」とアルバートがつづけた。

 ディレンツァが目を細める。


「呼ばれていった――」


 ブルーベックが再度、もごもごと話した。

 ルイとアルバートがブルーベックをみる。

 視線が集まることで、ブルーベックは少しだけ恥じらうようにとまどいながら、手ぶりをまじえて説明した。


「あっちから男の人に呼ばれて、とびだしていったみたいだよ――」

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