28 月といえばうさぎ

 さきほどまで汗をかいて衣服が肌にはりついたり、髪がみだれてパサパサしたり、ほこりをかぶって目がちりちりしたりするのがとてもうっとうしかったことがまるでうそみたいにさわやかな心地で、ティファナはベッドにもぐりこんでいた。


 知らないうちに仰向けになっていてあたまにはまくらがあてがわれ、ふかふかのかけぶとんが胸さきまでかけてあった。


 ベノワの居室に入ってすぐ、ティファナはベッドにうつぶせに倒れこんだ。

 そこまではティファナもなんとなく憶えていたが、きっとそのまま眠りこんでしまったにちがいない。


 そして、そんなかっこうを見かねたザウターが、ティファナを仰向けに寝かせてふとんをかけてくれたのだろうと、ティファナは好意的に解釈した。


 しばらく、その一連の流れを脳裏でなぞって、「むふふ」とほくそ笑みながら余韻にひたったものの、やがて(そんなうまい展開があるだろうか?)と疑ってみたりもした。

 ザウターは基本的にクールなので、ティファナに対して甘い対応をすることがなかった。


 しかし、すぐにティファナはそんな疑念を棄てる。

 ティファナはいつでも夢みる少女だったので、空想は大事にしていた。とかく、ザウターのことになると夢は果てしない。


 ティファナはかけぶとんを鼻までひきあげて、小声で「ねぇ?」と問いかけてみた。


 ベッドサイドになじみの気配を感じたからだ。

 めずらしく、それはまぼろしではなく、本物のザウターだった。


「――どうした?」


 ザウターはティファナを気遣いながら、顔をのぞきこんできた。

 その甘いフェイスと、低いヴォイス、そしていつもよりずっとジェントルでテンダーなムードに、ティファナの目はハートになる。


「ん、呼んだだけ」


 そう答えると、ザウターは微笑をたたえ、ティファナの髪をなでる。

 ティファナは身体の奥底からこみあげてくる歓喜にうちふるえた。


 ゆったりとした時間が流れている。

 風が少しでていたが、夜のゆるやかな気配がどこかなつかしく、それはいつか王都の夜景をならんでみたような、そんなやさしい空気感だった。

 ティファナは笑顔をおさえきれず、口もとをほころばせながら、ふと窓のそとをみる。


 さっきまで銀色だった満月が黄金色に変化して雲間にうかんでいた。あまりにもまんまるだったので、グレープフルーツみたいだった。

 想像すると、口のなかがすっぱくなり、ついでに急激な空腹を感じて、ティファナはへそのところで手をかさねる。


 いつもはおなかが鳴ってしまい、それをザウターに聞かれることぐらいめずらしいことではなかったが、いまのこの、めったにない甘美な状況のなかでキュルキュルすることはすべての台無し、すなわち乙女心の死を意味していた。


 よってティファナは、でこぼこ顔の満月にお願いすることにした。


(お願いします、お月さま。ここでおなかが鳴らないでいてくれたら……えっと、うーんと……どうしよう――とりあえず……とりあえず、なにかします!)


 両手をあわせて両目をつむり、後半だだくずれになったお願いごとをつぶやいて、おそるおそるまぶたを開けると、ティファナは思わず「ふぎゃ!?」と声をだしてしまった。


 さっきまでボコボコしたクレーターの陰影だらけだった満月が、人間の顔になっており、しかもそれはどうみても怒りの形相だった。


 そして、目玉がぎょろりとティファナのほうをにらみ、ティファナが「ひっ」と身をすくめると、「なにかします……? なにかってなんじゃぁあ!!?」と、満月が青筋をうかべて憤激した。


「うわー!? ごめんなさーい!!?」


 あわてふためいて、ちびりそうになったティファナがベッドからがばっと起きあがると、スプリングの反動で勢いあまって床にころがり落ちてしまった――。


 そして、そこでようやく、ティファナは夢から醒めた。


「……むぅ」


 赤い絨毯のうえでゴロゴロして、やがて自分がずっと夢をみていたことに気づき、ティファナは恥ずかしいような残念なような、それでいてあのおばけ満月が本物ではなくて安心したような、複雑な気持ちになった。


 ティファナはむっくり姿勢をただすと、ぺたんとあひる坐りをする。

「ふぅ」と吐息がでた。汗がわきの下をつたっていき、前髪もおでこにぺったりくっついている。

 はねあがった鼓動が、耳の奥でびくびく鳴っていた。

 窓のそとを見やると、銀の満月がゆれている。


「うーん」


 ティファナはうなる。そうすることでだんだんと夢と現実のギャップが、にわかに実感されてきて、少しずつ不快感が高まってきた。

 ティファナは徐々に不機嫌になってきた。


 最終的にいちばんショックだったのは、ザウターのやさしさが夢でしかなかったことだ。

 ティファナはマグマが地底でうごめくようにいらいらし、なにかにやつあたりをしたくなってきた。脳の中枢を凶悪ななにかに支配されているかのような感覚が全身をふるわせる。


 すると、ちょうどそのとき、勢いよく部屋の扉が開け放たれて、どどっとなだれこむようにして侵入者が現れた。先頭は背の低い女だった。


 ふつうならティファナのほうが驚いてしかるべきだが、怒りに駆られていて爆発寸前だったので、ティファナは「ムキー!」と顔を赤くして金切り声をあげた。

 よって、部屋に入ってきた侵入者たちのほうが逆に驚愕し、入口でたちどまって当惑した。


「な……なに!?」


 小柄の女がたじろぐ。


「あ、あれ!? 君はどこかで!?」


 女のすぐうしろにいた男がティファナをゆびさし、記憶をたどるように天井をみたりする。


 ティファナもその頼りなさげな男を知っているような気がして目を細めたが、すぐにそのうしろで、ティファナを鋭い視線でにらみつけている切れながの目をした男が全身から魔力をただよわせはじめたので、そちらに気をうばわれた。


 その魔法使いらしき痩せぎすの男にもティファナは見憶えがあった。

 魔法使いのさらにうしろには、城門のところで遭遇した巨人の子どもがいたが、もはやかまっている猶予はない。


 ティファナをみたとたん、戦闘態勢に入ったのだから、魔法使いもまたティファナを盗賊だと(それも〈鹿の角団〉だと)認識している可能性がある。

 すぐに防御なり攻撃なりをくりださなければ危険だ。ザウターもいないので、のんびりしている場合ではない。


 そもそも、この状況での侵入者は任務遂行の邪魔者であり、それを排除するのはティファナの役割でもある。夢のいきどおりを晴らすこともできるし、ザウターにほめてもらえるチャンスだったので、ティファナはうっすら笑みをうかべた。


 そして、とっておきの魔法の角笛をとりだし、くるくる回転させながら「よーし、やっつけちゃうから!」と叫び、口にくわえる。


 それは使用者が幻獣を召喚することのできる魔笛だった。

 湾曲した竜の角製で、古き魔女が所有していたものをハーマンシュタイン卿が買いつけ、ティファナに授けられたものだ。


 しかし、それを使いこなせるのがティファナだけだということはよく知っている。

 召喚するものによっては使用後に激しく疲労したが、上手に使いこなせばザウターもほめてくれたので、ティファナにとっては宝物で、自慢の武器だった。


 突如、癇癪を起こした魔女のかっこうをした盗賊が、いきなり角笛をとりだして口にくわえたので、小柄の女や頼りなさげな男が、ぎょっとして動きをとめる。


 しかし、魔法使いだけはティファナのそれを攻撃態勢と判断したらしく、「チッ」と舌打ちをする。

 魔法使いは、みずからの攻撃魔法がティファナの攻撃より先に完成しないと踏んだのだろう。


(うふふ、残念でしたー!)


 ティファナは魔法使いの鋭利な目をみつめながら、角笛を吹く。心のなかでは舌をべーとだしていた。


 侵入者たち全員が、はっとみがまえたが、角笛から音はでなかった。

 しかし、ティファナにだけはその音色が聞こえたし、みずからの呼びかけが幻獣の世界に通じたことは応じる音色でわかった。


 召喚魔法は成功した。

 不快指数の高いじめじめした風が瞬間、窓から吹きこみ、ティファナはにやりと黒猫のように不敵な顔をする。


 ティファナはそのとき、窓のそとにみえた満月から連想して、うさぎを召喚した。

 月といえばうさぎ――ティファナは満足げにうなずく。

 そばにザウターがいないことが、そしてなによりほめてもらえないことが残念だった。

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