第32話 目一杯のオレーを送るアレクシス嬢
夕暮れ。足元が見えなくなるまで
「今日はここまでにしておいやるよ!」
ドーニャ・マリカの言葉を合図に先輩三人はフライパンの上のバターのように地面に溶けた。
「ご指導ありがとうございました、ドーニャ・マリカ!」
一方新人のはずのアレクシスは華麗にお辞儀した。息切れもしていない。まだまだ体力に余裕があった。
「……徹底的にしごいたはずなんだけどね……どこでその体力を培ったんだ」
「えーと、詳細は諸事情でお教えできませんが水泳を少々嗜んでおりました」
「水泳か……道理で肺が丈夫なわけだ」
「あ、おわかりになります? 私、プロポーションもそうですが肺活量にも自信がありますのよ」
「そうかい、道理で人一倍口うるさいわけだ」
「ええ、おしゃべりも得意ですの。もしよろしければ朝まで女子会なんてどうです?」
「悪いが女子会とやらには付き合ってられない。これから仕事があるからね」
「まあ! ずっと練習に付き合っていただいたのにこれからまた踊るというのですか? すごいですわー!」
「驚くことかい、そっちが本業だよ。ちなみにあんたも来るんだよ」
「まさか、もう踊らされるのですか?」
「うぬぼれるんじゃないよ、ガキ。一日でステージに立たせてもらえるほどフラメンコは甘くない。そして私の横で踊ろうなんて十年早いよ」
「ですわよねー。ということは見学でしょうか?」
「そう、見て盗む。一時間後には始まる。それまでに汗流して飯を済ませな。体調管理も仕事の内だよ」
「まあ、たったの一時間ですの! それでは先輩方と楽しいディナーができませんわ!」
「懇親会なんて期待してるんじゃないよ。他の子たちを見てごらんなさいよ。とても談笑しながら飯を食えるように見えるかい?」
三人はそろって仰向けになってゼーハーと苦しそうに呼吸をしている。
「あはは、そうですわね……またの機会としましょう」
そしてアレクシスは宿に案内され、そこで久方ぶりのシャワーを浴び、肉が多めの食事を採り、カフェ・カンタンテへ向かう。
場所は小さな食堂。幅が狭く奥に伸びた空間。手前には白いクロスに覆われた二人掛けのテーブルが所狭しと並んでいる。質素ながらも清潔感があった。すでに客が多く入り、肘がぶつかりあってしまうほどに満席。客は多種多様だった。貴族と思わしき人もいれば、流浪人らしき人もいた。談笑を楽しみつつも全員が期待を込めた目を同じ方向を向けている。
最奥にタブラオがあった。形は真四角。素材は木材。表面に艶はなく、中心は無数の傷で白くなっている。歴史の深さを物語っている。
「私はどこで見学するのでしょう? 壁際でしょうか?」
場慣れしていないアレクシス。先輩たちも緊張気味。
ギター奏者が手招きをする。
「君たち、こっちこっち」
客をかき分けながら近づいていくと客の影に隠れてわからなかったがタブラオの目の前の席に椅子が四つ並んでいた。
「まあ、特等席ですわ!」
これもまたドーニャ・マリカ流のレッスンだった。
一番後輩であるアレクシスは真っ先に座り、先輩たちはおずおずと座る。
まもなくしてフラメンコは始まった。
ドーニャ・マリカが歩く。タブラオの中心に立つ。たったそれだけで惹きこまれる、引力を感じた。
目が違う。極めて高く練られた集中力が緊張といった雑念を感じさせない。まるで完成された楽器のようだった。
ほどなくして
追い打ちをするかのように鉄を金づちで叩いたような音、サパテアード。シューズの裏の、つま先と踵に打たれた短い釘がきらりきらりと光って見えた。火が噴き出しそうなほどの激しい足さばき。
爆竹のようなサパデアードが止むと今度はつま先が湖を泳ぐ白鳥のように弧を描く。一周、二周したところでギターの演奏が始まった。軽快に弦をかき鳴らすが切なさを帯びている。添えるように
ドーニャ・マリカも手を、腕を叩いで呼応する。カスタネットは使わず、飾らない。素朴のようで研ぎ澄まされた情熱を帯びている。
それから激しく床を打ち付けながらくるりくるりと軸のぶれない回転を見せた。ひだの多いスカートが花のように開く。
「オレー!」
「オレー!」
観客の掛け声がより一体感を上げ、興奮を呼び起こす。
誰もが一人の演者に現実や自分を忘れて夢中になった。
アレクシスもそのうちの一人だった。
(いけません、これは全然勉強になりませんわ……あまりに素敵すぎて……ただのファンになっちゃいますわ……!)
フラメンコにはフィギュアスケートのプログラムのような構成がある。基本もあれば応用もある。そこには必ず計算や狙いがあるのだが、考えている暇などなかった。
ひたすら夢中になった。フラメンコという芸術に、ドーニャ・マリカという人物に。高熱にうなされ、水を求めるように追いかけてしまう。
腕の振るえにも計算じみたものを感じ取った。技術だけでは到底届かないだろう、この高みにどれだけの苦労を重ね、犠牲を払ってきたのかと。
時間を置き去りにしたかのように、締めのパートにあたるマチョが始まった。
ひらりひらりと軸のぶれない回転を魅せる。猛牛を嘲るように躱す闘牛士のようでもあれば、風に吹かれて散るアーモンドの花のようでもあった。
パルマが火花のように弾け、ギターの音色が剣のように切れ、ドーニャ・マリカが大樹のように止まる。
『オレー!!!!』
一心同体の喝采と共に拍手が鳴り響く。
鳴り止まぬ称賛を送り続ける観客を見たドーニャ・マリカは化粧がすべて流れ落ちそうなほどの汗を流しながら、ふっと口元を綻ばせた。言葉を覚えたての赤子のようにオレーとビエンしか言わない可愛い観客がまるで自分が腹を痛めて産んだ子供のように可愛くて慈しみ深い眼差しを浮かべる。最近は聴力に衰えを感じるようになっていたが今日は称賛が小うるさく感じた。
「オレーですわあああああああオレーですわあああああああああオレーですわああああああオレーーーーー!!! オレーーーー!!!!」
最前席のアレクシスが頭上で手を叩き、誰にも負けない大声量で叫び続けていたからだ。
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