淵源城ノア

 ——かつて世界は海に沈んだ。

 降りしきる豪雨と鳴り止まぬ雷轟。

 十年続いた雨——荒れ狂う大自然を前に、地上の文明はあまりにも無力だった。


 だが、人類はそれでも生存をもぎ取った。


 未来で建創者と呼ばれる者たちが築き上げた方舟に全ての生命を移住させ、人類は深い深い海の底で再起する。

 セタス……海の守護獣と契約を結び、再び生態系の頂点に座した。


 それが『海淵世界』アトランティスの始まりであり、今なお、ただの一度も陥落を知らない方舟の堅牢の証明だった。




◆◆◆




 ——第三回遊都市外縁。

 《英雄叙事オラトリオ》での対話の二日後。『面白いものが見れる』というソロン議長の誘いで外に出た俺たちは、間違いなく、人生最大の驚愕に見舞われていた。


 その“外観”を目にした時、ラルフが言っていた「見た方が早い」という言葉の意味を否応なく知らしめられた。


「なん……じゃ、あれ!!?」


 海の淵。深海の底の、さらに深いクレーター。ベールの向こうに見えるのは、俺たちの常識を真っ向から否定するような。


「あれ……船か!?」


 それは、。一つの巨大な船だった。


「左様です」


 目ん玉が飛び出るほどに驚く俺たちの姿に、きっと笑っている事だろう。ソロン議長がやや弾んだ声で俺の驚愕を肯定した。


「あれが淵源城ノア……我らが『海淵世界』アトランティスの中心、源老が座す玉座です」


 あまりにも大きすぎて全容が掴みきれない。

 周囲に集う十の回遊都市の明かりと、巨大な木造の船の外部に生えた淡く周囲を照らす植物の燭光が、朧げながらも船の輪郭を描く。


 隣で言葉を失っているイノリやストラと感想を共有する余裕もなく、俺はひたすらに眼前の常識はずれの光景に目を奪われていた。


 集う回遊都市、その全てを合算しても目の前のノアには届かないだろう。

 そもそも、全ての都市をなお有り余ると思われる総体積。

 たった一隻の船が小世界と同等かそれ以上に大きい……そんなあまりにも出鱈目な事実に目眩がした。



 『悠久世界』エヴァーグリーンの本国も大概ふざけた規模の都市だった。自然と構造物の融合、山と合一した巨城パレス、“エヴァーライト王国を照らす光”。

 あれもあれで七強世界の首都に相応しいものだったが、淵源城ノアはまたベクトルの違ったおかしさである。


「どうなってんだよ七強世界……」


 ここまで来ると、『極星世界』の魔王城がだいぶしょぼく見えてくる。

 脳内のジルエスターがガン飛ばしてくるが、こればっかりは疑いようのない事実だ。

 いや、極星のヤバさは単に都市の規模で語れるようなものじゃないのだが。それを差し引いても、この“海淵”は異常だ。


「みんな驚いてるところ悪い。そろそろ着いた後の予定を確認しときたいんだけどよ」


 ひたすらに圧倒されている俺たちの背に、やけにドライな感情のラルフが声をかけた。


「源老に謁見したあとの事とか考えとこうぜ」


「それもそうだな」


 大きく深呼吸して、一旦思考を切り離して心を落ち着ける。

 どうやって水圧に耐えているんだとか、その原動力だとか。そもそも木造なのに浸水は平気なのかとか。挙げ出せばキリがない疑問は後回しに。



 イノリとストラに正気を取り戻させ、昼食を兼ねてレストランの個室で俺たちは向かい合った。なお、予約はソロン議長のコネ(と、多分“ライラック”の名前)でもぎ取った。


「そもそも源老に謁見できるのっていつになるの?」


 イノリの最もな疑問に、素っ気ない態度のラルフが答える。


「ぶっちゃけた話、魔王様の封蝋があるからすぐにできると思うぞ。七強からの使者だから、かなり順番飛ばしできる」


「やっぱすげえな七強世界」


 俺本来の肩書き、リステルの名前だったらむしろ最後の最後に回されるだろう。自分で言ってて悲しくなってきた。


「エト様、勅書にはなにが書かれているんですか?」


「いやわからん」


 俺は力なく首を横に振った。


「書面の内容については一切聞かされてない。今回の俺は完全な伝書鳩なんだよ」


 だから、謁見の流れを読むことはできない。

 流石に『俺たちも宣戦布告するね』みたいな真っ向から喧嘩を売る内容ではないだろうが……。


「好意的な内容だといいなあ」


 俺の本音に三人とも強く同意して頷いた。




◆◆◆




 そのまた翌日、方舟内部に無事辿り着いた俺たちは、を踏み締めていた。


「もうわけわからん」


 俺は情報の暴力に打ちのめされ、頭から煙を出した。


「エトくんが壊れちゃった」


「気持ちはとてもよくわかります。ここが船の中とか、どんな冗談ですか」



 そこはもう、地上だった。

 人口太陽が輝く偽りのソラ。どんな理屈か、方舟の外の深海を投影する船の壁や天井は深い藍色のうみを映し出す。


 方舟の中に、もう一つの世界があった。

 喩えるなら、『湖畔世界』フォーラルのだろうか。

 たった一つの巨大な大地を、方舟の窓から流れ込み循環する海水が取り囲む。

 外縁は全てセタスの……回遊都市が着艦するための港として機能しており、少し目を凝らせば多様な都市の姿が見て取れた。


 菱形の大地の中央、聳え立つ青銅色を基調とした荘厳な城、淵源城ノアの“本体”にして“操舵室”……源老が座す玉座。

 それを中心に、地上となんら変わりのない、むしろ発展の気配すらみせる大都市が広がる。


「これと比べたらリステルとかカスだぞ」


「自分の故郷カスって言っちゃうんだ……」


 若干引いてるイノリの反応に肩をすくめる。

 自分たちですら『弱小だからなー、あっはっは!』なんて揶揄してしまうくらいには貧弱なので今更である。


「いや、にしたっていくらなんでも広すぎるだろ」


 レゾナの首都、ガルナタルよりも広いのでは……いや確実に広い。比較対象を間違えている。


「エヴァーグリーン本国とタメ張れるんじゃ……」


「——ン゙ン゙ッ!」


 そう呟いた俺の横で、付き添いの近衛が強く咳払いをした。


「……エトラヴァルト殿。“そこ”に関わる単語は、ノアの公共の場では控えてください」


 近衛の強めの警告に、俺は自分の迂闊さを悟った。


「ああ、すまん。配慮が足りてなかった」


「次から気を付けていただければ大丈夫です。普段であれば問題ありませんが、今は事実上、戦時中です。北方海域では既に偵察船との間で散発的な戦闘があったと報告を受けています——」


 戦争は既に始まっている。そして、それは周知の事実である。

 誰もが不安を抱えている現状、『悠久世界』に関わる単語……それも『内情が伺える発言』は禁句である。


「不自由を強いるのは申し訳ありません。ですがご理解を」


「いや、客人として当然の配慮だから。気をつけるよ」


 俺に続いて、イノリとストラも頷く。

 ラルフは一人、ノアの中央に聳え立つ城を見上げていた。


「ラルフはあそこに住んでたのか?」


「……いや」


 返答は、とても重苦しさを感じさせた。


「俺たちは城には住んでなかったよ……行こうぜ、案内する」


 歩き出したラルフの背中を追った後、イノリたちと目配せ。聞こえないように小声で話す。


「やっぱ、親子関係か?」

「おそらくそうでしょうね。兄妹、親類縁者の可能性もあります」

「うーん、あまり触れない方が無難かなあ」


 難しい話題だ。

 なにせ、俺たち三人は血のつながった両親というものを知らない。

 俺は捨て子だし、ストラは幼少の頃に両親が自ら命を絶った。

 イノリの両親についてはあまり知らないが、兄と姉以外に過去の話が出てこないあたり、同様にいないのか、覚えていないのか。


 とにかく、“親子関係”ないし“兄弟関係”というものに関して普通の人間よりも理解が浅いのだ。

 下手な口出しをできるだけの経験や知識がない以上、ラルフの事情に踏み込むことは躊躇われた。


「おーい! さっさと行くぞー!」


 努めて冷静を保つラルフの声に、俺たちは小会議を解散した。


「ああ、今行くよ!」


 虚空ポケットに諸々の武装を仕舞い込んで、近衛に連れられた俺たちは一直線に玉座へと向かった。





◆◆◆





 ——淵源城ノア、謁見の間。

 源老に謁見を求める者を迎え、唯一外部の者が源老と話す機会を賜る場。

 ステンドグラスが輝く縦長の部屋、大理石床に敷かれたカーペットが入り口から最奥の玉座へと続く。


 王侯貴族が参列する謁見の間は、一触即発の空気を醸し出していた。

 並の者では息をすることさえままならない殺気の衝突に、戦いに不慣れな者たちは早々に奥の部屋へと避難した。


 残るのは源老ノルドレイと近衛の三名、そして第三王子にして〈異界侵蝕〉に名を連ねるリントルーデ。


 そして『始原世界』ゾーラからの使者、〈異界侵蝕〉が一人、〈戦火余燼デッドエンド〉ラスティ・ベラ。


 源老を覆い隠すように立ち塞がる青髪の武人リントルーデの凄まじい殺気を前に、青と赤の混ざった長髪を揺らすラスティは涼しい顔で妖艶に笑う。


「あら、源老さん。せっかく遠路はるばる来たのに、私とはお話し、してくれないのかしら?」


 答えたのはリントルーデ。

 魚人と人族、二つの血が流れる第三王子は溢れる殺気にパキパキと鱗を鳴らし、眼前の使者を睨みつけた。


「貴様と交わす言葉はない。疾く去るがいい」


「それを決めるのはあなたじゃないわよ、お魚さん?」


「黙れ。貴様と交わす言葉など一つとてない。そう言っているのだ、虐殺者」


「……ふうん」


 取りつく島もないリントルーデの対応に、ラスティはつまらなさそうに目を細めた。


 喪服を想起させるような漆黒の、流血を表すような紅の刺繍を施したドレス。

 豊かな双丘の下で腕を組み、首を曲げてリントルーデの奥に座す源老へと視線を向ける。

 その衣装も立ち振る舞いも世界の統治者に対してあまりにも礼を欠くものだったが、その場の誰もが気にしなかった。


 気にする余裕がなかった。


「良いのかしら。相手はあの〈勇者〉がいる『悠久世界』よ? あの化け物を前に、〉を相手する余裕なんてあなた達にあるとは思えないんだけれど?」


 挑発的に笑うラスティに、リントルーデが僅かに眉を顰めた。


「でも、


「……確かに、貴様であれば〈勇者〉以外の雑兵を屠ることも容易かろう。残る〈異界侵蝕〉たちを相手取ることもできよう。……では、我ら海淵は貴様の手を取るか?」


 一拍の間を置いて、リントルーデが咆哮した。


「断じて、否である!!」


「……!」


 全身を、魂を震わせる怒号にラスティが僅かに目を見開いた。

 リントルーデ・フォン・アトランティスは毅然とした態度でラスティ・ベラの籠絡を跳ね除ける。


「去るがいい、虐殺者。戦争に快楽を見いだす貴様と共に肩を並べる未来など、永劫にありはしない!」


「……そ、残念だわ」


 心の底から残念そうにため息をついたラスティは、一礼もせず玉座から背を向ける。

 その背に背負う幾千万の戦争の亡霊の重圧に、リントルーデは無意識に冷や汗を流した。


「暫くはここに留まるわ。気が変わったらまた声をかけて頂戴」


 返答を待たず、ラスティは謁見の間を後にした。




◆◆◆




「あーあ、残念。せっかく久しぶりに遊べると思ったのに」


 長い廊下に、カツカツとヒールの音が響く。


「悠久に媚び売るのもつまらないし、今回は諦めるしかなさそうね」


 ラスティは護衛を一人も連れることなく、死角から無数の監視を受けながら悠然と帰り道を歩く。

 その前方から、次の謁見者と思わしき一団が姿を見せる。

 数は五人。

 近衛一人を先頭に歩く男女二名ずつの平均年齢は、ラスティにはかなり若く見えた。


「あら、可愛いお客さんね」


 彼らであれば自分のように邪険にされることもないだろう、そんなことを思う。


 ラスティのことを知っているのだろう。ラスティは近衛からは隠しきれない嫌悪感を、四人からは自分を探るような仄かな興味を感じ取った。


 六つの足音が回廊に鳴り響く。


 すれ違った瞬間に、ラスティは五人へ気絶する程度の殺気を放ち、


「……あら?」


 


 たった一人、ラスティの悪戯心に気づいた青年が他の四人に気取られないよう、しかし完全に殺気を断ち切るように


 

 デコピンにも満たない挨拶。しかし、自分と同程度の力を即座に返してきた。


「ねえ、そこの銀髪の坊や」


 久方ぶりに、他人に興味が湧いた。


 足を止めたラスティの声に、同じく止まった銀髪の青年が怪訝な表情で振り返った。

 その明らかな敵意に、殺気に気づいていたことを確信する。


 そして同時に、面白いをしていた。


「あなた、名前はなんて言うのかしら?」


「……エトラヴァルトだ」


 警戒心剥き出しの青年に、ラスティは楽しくなって思わず笑みを浮かべた。


「そう。私はラスティ・ベラよ、覚えておいてね、エトラヴァルト」



 数日間、待機した後に帰投するつもりだった。だが、辞めた。

 ラスティはこの瞬間、この目で戦争の行く末を見届けることを決めた。


「退屈なおつかいだと思ってたけど……皇帝に感謝しなくちゃいけないわね。良い“戦争”になりそうだわ」




 弾んだ足取りで去ってゆくラスティの背中を見送ったエトは、一連のあまりに不可解な彼女の行動にひたすら困惑していた。


「なんだったんだ? さっきの人」


「エトくんがまた女の人引っ掛けてる……

「今度は(推定)歳上お姉さんですか。エト様も大概、守備範囲広いですね」

「エト、お前って奴は……!」


「待て待て今回は絶対無実だって! 俺、完全に初対面だぞ!?」


 殺気に気づかなかった仲間からの云われなき糾弾に、謁見を前にしてエトの精神はゴリゴリと音を立てて削られることとなった。

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