魄導

 朝食の後、俺は居間で師匠を含めた三人の鬼人族と向かい合った。


 中央に座すのは、爺さんではなく臙脂色の紬に身を包む少女。

 少女と爺さんは互いに目配せを——今、なにか違和感が。


「お客人。名を聞かせてもらえるかのう?」


 違和感は、今は横に置いておこう。


「エトラヴァルトだ。朝食、美味かった」


「うむ。口にあったようで何よりだ。儂の名はリンドウと言う。そこの馬鹿娘カルラの父親でな、全く迷惑をかけた」


 深々と頭を下げる爺さんに、少女を挟んだ向こうに座る師匠が「偏屈ジジイ」とぼそっと呟いた。

 爺さんに聞こえないようにわざわざ防音結界を小さく展開しているあたり、あの滅多打ちは流石の師匠にも堪えたらしい。


 雪中行軍の最中は「絶対ぶっ殺す」と殺意に溢れていたが、ここまでこっぴどく絞られている姿を見ると溜飲も下がるというものだ。


 俺が勝手に感情に整理をつけていると、中央に座る少女が両手を重ねて恭しくこうべを垂れた。


「拙は“ききょう”と申します。どうぞよしなに、えと様」


「ああ、よろしく……悪い、一つ質問してもいいか?」


「なんなりと」


 その、視線の違和感を。俺はやはり、無視できなかった。


「もしかして、目が見えないのか?」


 先ほどから、絶妙に視線がすれ違う。確かにこちらを認識しているが、どこかぎこちなさを感じた。


 不躾、無遠慮な質問だとは理解していた。だが、もしそうであれば配慮が必要な事案であることもまた事実。


 師匠が口角を上げる横で、キキョウは少しだけ驚いたように口をぽかんと開けた。


「……よく、おわかりになられましたね?」


「視線に違和感があってな……やっぱり、見えてないのか」


 こくりと頷く。


「はい。拙のこの目は、元より拙のものではございません。できるのは精々、えと様の不可思議な御魂を映す程度でございます」


 キキョウの瞳が、深いオーロラ色に輝いた。

 その覚えの強い色に、俺は目を見開き驚きを露わにした。


「観魂眼……」


「拙たちはこれを“魄明はくめい”と呼んでおります」


 この時俺は、師匠が俺たちをここに連れてきた理由の一端を垣間見た気がした。




◆◆◆




 挨拶の後、俺は縁側と呼ばれる庭に突き出るような形をした廊下の縁に座り、緑豊かな庭をぼんやりと眺めていた。


 極寒の中を歩いてきた疲労はそう易々と取れるものではない、今日一日はゆっくり休むと良い——そう爺さんに言われた俺は、言われた通り穏やかな時間に身を任せていた。


「ここが、本当に竜と戦ってる場所なのか……?」


 疑問を持たざるを得なかった。

 ここは、あまりにも穏やかだ。名前を持ってはいけない。曖昧に、存在を明確にしてはいけない。そんなふうに聞かされていたのだが、実情は大きくかけ離れているように感じる。


「雪もないし、作物も育ってる」


 庭にはいわゆる家庭菜園と呼ばれる類のものであろう、それなりに立派な畑が耕されている。

 瑞々しく実った果実が陽光を反射し蠱惑的に表面を輝かせた。


 あの雪が、過酷な寒波が偽物だったとは思えない。そも、幻想を現実にするのは『幻窮世界』の領分だとラルフが言っていた。


「一体、なにがどうして……」


「——この地が、“豊穣”の加護を受けているからでございます」


 振り向くと、柔らかく微笑んだキキョウがいた。縁側の材木を軋ませ、少女は俺の隣に腰を下ろした。


「豊穣の加護……?」


「はい。この地が豊かな土壌に恵まれ、繁殖に呑まれず生存を続けられている最大の要因でございます。は、“豊穣の概念保有体”なのです」


 土地自体が概念を保有している。そんな出鱈目な事実に耳を疑うと同時に、奇妙な納得感、そして一抹の不安を感じた。


「名前を……名付けて、いいのか?」


「唯一の例外、とでも申しましょうか。概念の存在を知覚するのは、一種の結界のようなものなのです。敵は、“繁殖の概念”を持ちます。これは、。今更名付けを避けたところで、敵がこれを持つ事実を誤魔化すことはできないのです」


「つまり、自覚の程度を調節してるのか」


「その通りでございます」


 小難しい言い回しをしていたが、要するに必要な措置だったから名を受け入れた——こういうことだろう。

 天秤の両端のバランスを保つための、仕方のない名付け。

 繁殖と豊穣、二つの生命に関わる概念の均衡。そして、この地に浸透する豊穣が目の前の豊かな緑の礎となっている。


「概念が土地に……世界に宿ることもあるんだな」


「ある意味、それが自然なのでしょう」


 そよ風に流される焦茶色の髪を押さえ、キキョウはくすぐったそうに目を細める。


「言の葉とは本来、普遍的に存在するものです。それが個々人に宿ることこそ、摂理から外れた事象と言えましょう」


「ああ、確かに。それが普通なのか」


 話している印象は、とても達観している。見た目こそ十代半ばの少女だが、発言の節々から感じられる気品は思慮深さはその限りではない。

 まあ明らかにマナー違反だから年齢は聞かないが。


「そういえば、礼がまだだった。昨日、道を作ってくれてありがとう。おかげで命拾いした」


 頭を下げると、後頭部の向こう側で笑う気配。


「お気になさらず。拙はただ、お客様を招いただけでございます。拙にできるのはこのくらいでございますゆえ」


 顔を上げると、口元に袖口を当て、心なしか嬉しそうに肩を揺すキキョウが目に入った。


「もっと肩の力を抜いてくださいませ。暫くは同じ屋根の下……この母屋で共に過ごすのですから」


「そうなの?」


「はい。弟ができたみたいで拙は楽しみです!」


 そう言うキキョウの声は、今日一番に弾んでいた。……やはり、年上なのかもしれない。




◆◆◆


 


 そうしてしばらく、俺は縁側に腰を下ろし、キキョウと取り止めのない雑談に興じながら茶をしばいたり菓子を頬張ったりして時間を潰した。


 こうして鍛錬に関係ないことを長時間する、というのは非常に久しぶり……ともすれば、のんびりとした時間はリステルで不真面目に騎士をやっていた頃以来かもしれない。


「……ここは、竜と戦ってるって師匠から聞いたんだが」


「はい」


 そんな折、俺はふと気になってキキョウに質問してみる。


「大体、どれくらいの頻度で戦ってるんだ?」


 キキョウは少し考えるように口をつぐみ、俯き加減で何度か瞬きを繰り返した。


「並べて、五日に一度ほどでしょうか。連日時もあれば、十日、音沙汰のないこともしばしばございます」


 オーロラの瞳が俺を射抜く。


「えと様は、竜と刃を交えるおつもりですか?」


 隠すことでもないと、俺は首を縦に振った。


「ああ。師匠が『竜と戦ってもらう』って」


「それは、お辞めになったほうがよろしいかと」


 それは、今までの温和な声音とはかけ離れた、強く厳しい声色だった。

 キキョウなオーロラ色に輝く瞳を俺の胸に向け、険しい表情を浮かべた。


「率直に申し上げますと、今のえと様では竜に歯が立ちません。戦場に立っても、足を引っ張るだけかと存じます」


「……厳しいな」


「事実を申し上げたまででございます。その胸のうちにある“本”をお使いになられるのであれば話は変わりますが——」


 俺は、キキョウの言葉に応えるように胸から一冊の本の形をした《英雄叙事オラトリオ》を出現させる。

 キキョウはまじまじと、至近距離で《英雄叙事オラトリオ》を見つめた。


「使わないおつもりですね?」


「ああ」


 無銘の力……“概念昇格”を用いれば竜を斬ることはできるだろう。だが、それは俺自身の力ではない。『エトラヴァルトの修行』のためには、彼らの力なしで戦わなくては意味がない。



 ……一つ、残酷な事実がある。

 俺が知る限り、シャロンやエルレンシアの到達点は金級クラスだ。元々の目標であれば「《英雄叙事オラトリオ》の習熟」で事足りたのだろう。だが、事情が変わった。


 目的地が、到達点が更新されてしまったのだ。


 かの〈異界侵蝕〉に手を伸ばすためには、《英雄叙事オラトリオ》の習熟では足りないのだ。それは、不服そうではあったがシャロンたちも認めている。


 つまり、俺は《英雄叙事オラトリオ》を……名を刻んだ者たちを上回る必要がある。


 自力で、身一つで竜と渡り合えるだけの力をつけなくてはいけないのだ。


 《英雄叙事オラトリオ》を見つめ閉口する。そんな俺の手に、キキョウの手が乗せられた。冷え性なのか、指先は冷んやりとしていた。


「えと様は、魔力も闘気もお使いになれないとお聞きしました」


「ああ。《英雄叙事オラトリオ》を使えなければ、俺は少しだけ鼻の効く凡人以下だ。まともに戦うことができないのは、わかってる」


「……そうでございますね。竜と相対する上で、生身で挑むのは愚の極みでしょう」


 指先からこちらを労る感情が伝わってくる。同時に、僅かな緊張も。

 キキョウの呼吸が、少し、浅くなった。


「……一つ。たった一つだけ、えと様が、御身のまま竜を凌駕する手法がございます」


「——本当か!?」


 その言葉に、俺は勢いよく顔を上げキキョウの両肩を強く掴んだ。

 目の前、桔梗は驚きのあまり「ひゃっ!?」と短い悲鳴を上げた。


「本当に、そんな方法があるのか!?」


「は、はい。確かに一つ——険しい道のりですが、ございます。そも、を教えるために、かるらちゃんはこの地にえと様を招いたのでしょう。……あ、あの。手を、離していただけますか?」


「あっ……と、すまん。少し興奮した」


 俺が手を離すと、キキョウは「次はありませんよ」と少しだけむくれたような声を出し、爺さん……リンドウを連れてきた。


「ふむ。儂を呼んだということは……良いのだな?」


「はい、お爺様」


「あいわかった。……エトラヴァルト殿、立たれよ。庭にて一合のみ、打ち合おうぞ」


 その気迫の鋭さに、俺は思わず息を呑んだ。

 師匠をぶっ叩いていた時、朝食の時、挨拶の時。そのどれからも想像がつかなかった、戦士としての覇気。


 俺は半ば無意識に虚空ポケットからエストックを取り出した。


 庭にて正対する。爺さんが持つのは、木刀一本のみ。


「エトラヴァルト殿——」


「エトでいい。長いだろ」


「ふむ。ではそうしよう。エト殿、しかと受け止められよ。損なえば、5日は寝込むことになるでな」


 嘘はない。

 爺さんの言葉に揶揄いの気配はなく、嘘偽りなく、止めねば俺を壊すと。


「——」


 俺が大きく息を吸うのと、爺さんの木刀が眼前に迫るのは同時だった。


「余所見は厳禁じゃぞ」


「〜〜〜〜〜っ!!?」


 条件反射でエストックを間に滑り込ませ、刹那。

 エストックとの接触点から膨大な火花が飛び散った。


「っう……!?」


 ただ、ゆるりと歩いただけだ。

 恐ろしく自然な動作で俺に予兆を掴ませず歩み寄り、そしてほんの軽く木刀を振っただけ。


 それで、これ。


 ——冗談じゃない!


 軋み、悲鳴を上げる全身が訴える。まともに受けたら、大怪我では済まないと。


 出鱈目な膂力だ。そも、これはなんだ? 魔力でも、闘気でもない。目に見えないこの力は——!?


「くそっ……!!」


 余計な思考を巡らせている余裕はないぞ。そう言わんばかりに、爺さんが放つ異様な力が一層厚みを増し俺を押し潰そうと勢いを増した。


 一歩、左足を下げる。

 理性が判断する。この力の奔流を受け斬ることはできない。だから、受け流す。


「ぐ、ぉおおおおおおおお——っ!!」


 俺は決して折れない剣の性能にかまけ膝を折り、捻り、一撃を後方へと逸らした。


 直後、凄まじい轟音が大地を抉り盛大な土煙を上げた。


「はっ……、はっ……、はぁ……!」


 たった一撃。されど凄絶な一撃を受けた俺はその場に膝をつき、肩で荒い息を繰り返した。


「……ふむ。こんなものでいいかのう?」


 あれだけの一撃を……庭の一画を吹き飛ばすだけの一撃を軽々と振ってのけた爺さんはケロリとした様子でキキョウに確認を取った。


「……はい。それはもう、大変十分にございます」


「「……キキョウ?」」


 期せずして、俺と爺さんの声が被った。

 顔にかける土煙を揃って払いながら……土煙?


 またしても。俺と爺さんは揃って振り返る。

 庭にはどでかい陥没が生まれ、一撃の余波が掠ったことで蒸発したらしい庭池の跡地にて魚がぴちぴちと跳ねていた。


「お爺様。ここまでやれと、拙は言っておりませんよ?」


「いや、その……手本、じゃろ? エト殿への」


 微笑みを浮かべながら、しかし、付き合いの浅い俺でも「あ、キレてる」とわかるほどに怒りを滲ませるキキョウの声に、爺さんは顔を真っ青にした。

 怒りを向けられていない俺ですら半歩後ずさってしまうほどの圧を放つキキョウに、爺さんは必死の言い訳を繰り広げる。


「やはり何事も手本が重要だと思うんじゃよ。だからのう、儂はなるべく、限界の擦れ擦れを狙ったんじゃよ。大事じゃろ? 手本、見本、模範、好例。のう? これから修練するんじゃから……」


 なんというか、その言い訳の仕方は凄まじく師匠に似たものを感じさせ……ああ、親子なんだな、と意味もなく悟った。


「そうでございますね。大変、良い手本でした。しかし、拙は庭を吹き飛ばせ、とは一言も申しておりません」


 目が見えていないにも関わらず周囲の状況を細かに把握しているキキョウは、爺さんに怒りの雷を落とした。


「お爺様は今夜の晩酌、抜きでございます!」


「か、堪忍じゃあキキョウ!?」


 後生じゃ、年寄りの楽しみを取らんでくれい、と情けなく縋り付く爺さんを一顧だにせず、キキョウは俺に微笑みを向けた。ちょっと怖い。


「えと様。先ほどの立ち会い、何かお気づきになられたことはございますか?」


「え、ああ……爺さんがとんでもなく強いってことは、まあ」


 言いながら、先ほどの奇妙な……しかし、覚えのある事象を想起する。


「魔力でも、闘気でもない何かに、押しつぶされかけてる気がした」


 俺の答えは満足に足るものだったのか。キキョウは、静かに首肯した。


「はい。今お爺様がお使いになった力は、えと様の推測する通り、魔力でも闘気でもございません」


 キキョウのオーロラ色の瞳が輝き、俺の本質を、魂を覗き見る。


「あれなるは、己の御魂の本質を掴み取った者が辿り着く境地。魔力も闘気も使えないえと様が唯一、扱えるかもしれない力」


 それは、俺にとってはこれ以上ない朗報で。

 同時に、苦難を極める入り口だった。


「——“魄導はくどう”にございます」

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