名もなき地

 その里は地図に乗らない。

 名前もなく、歴史は記されず、名誉も、栄達もない。

 ただ果てるまで竜を狩る。極寒の凍土に輝く極星を守る。その事実を、誰に知られることもなく。


「改めて聞くけど、そんな場所に俺たち連れてって良いのか?」


 俺の確認に、師匠は「もう何度も言ったわよ」とややぶっきらぼうに返した。


「いやでも、認識することがまずいんだろ? 俺たちがそこを知るのは問題ないのか?」


「あなた達なら平気よ。知るだけで名付けに相当するのは〈魔王〉くらい」


 如何に世界の王と言えど、知るだけで存在を確定させてしまう〈魔王〉の底知れなさに俺はある種の納得を覚えた。

 〈勇者〉アハトと対面していなければ、彼の纏う覇気に当てられまともに会話もできなかっただろう。


 ……あのオッサン、流石に普段は覇気抑えてるんだろうな?


「歪な話だけどね。私の故郷について、各世界のお偉いさん方はそれなりに認知してるのよ」


「えっ、それ大丈夫じゃないんじゃ……」


「それがそうでもないのよね。世界の外からの観測は平気らしいわ。その辺の線引き、私はよくわかってないけど」


 曰く、曖昧にするのが大事らしい。繁殖の竜という呼称も、群体に対する総称らしく、個々に細かな名付けをせず、異界に名前を求めず、そうやって全てを中途半端にすることで境界を曖昧にするそうだ。


 これには、ストラも強い同意を示した。


「人類は“名付け”を行うことで物事に境界を生み出しますからね。私たちが犬を“犬”として認識できるのは、まさにその名付けのおかげですし」


「つまり“胸”という単語をこの世から消せば人類皆平等になるってことだね」


「とんでも理論すぎねえか?」


 皆がその話題で盛り上がる中、俺は一人、静かに広がる雪原を眺める。


 ……一体、どれほどの精神力を要するのだろうか。

 得られるものは、明日の生存ただ一つ。

 たった一つ、名もなき生まれの地以外を知らないで。


 ……そういえば。


 そこが生まれだという師匠は、なぜ、冒険者として各地を巡り生きてきたのだろうか。




◆◆◆




 一面を覆う積雪は、俺の身長を余裕で超えている。

 専用の靴を履いていなければ瞬く間に雪に埋もれてしまう過酷極まる吹雪の中を、俺たちは歩かされていた。


『——ここから大体半日くらい徒歩で行くわよ』


 ちょうど半日ほど前。

 師匠はキャンピング電動ソリを乗り捨てて俺たちを極寒に放り出した。


『ちなみに耐寒装備は最低限しか渡さないわ。各自、自分で対処法を考えなさい』


 いきなり始まった修行に、ラルフは闘気を纏い寒さへの対策を。

 ストラは周囲のごく薄い空間魔力を用いて熱した空気の層を作り対処。

 イノリはラルフほどの防御はできなかったが、この吹雪の中で追い詰められたためか、闘気を練られるようになった。


 そして、俺はと言うと——

 

「……、! 〜〜〜〜〜!!」


 一人、めちゃくちゃ遅れていた。


 師匠は俺にある制限を課した。それは、《英雄叙事オラトリオ》の使用制限。

 この極寒には自分の力で対処しろ、そう言って雪の中を進んで行った。


 結果、魔力を持たず、ストラのように吸収もできず、イノリのように才能が開花することもなく。

 絶賛、吹雪の中で凍え死にそうになっていた。


「〜〜〜〜〜、!? 〜〜〜!!」


 ガチガチと痙攣する歯を必死に噛み締め、僅かな冷気も体内に入れまいと一歩一歩進む。



 断言できた。

 今、生まれて初めて。俺は人を能動的に殺したいと願っていると。


 人が闘気も魔力も使えないことを知った上で、あの師匠は「なんとかしろ」と放置しやがった。


 まずい。本当にまずい。

 瞬く間に体力がゴリゴリと削れる音がする。何か見えないそういう多寡が減っていく感覚があった。


 そも、よくもまあこの極寒の地の中を半日間止まらずに移動できているものだと、我ながら己の肉体の頑丈さに呆れる。

 ここまで極端な成長をするのであれば、その辺を少しでも別の才能に充ててくれればよかったというのに……全く、俺の魂はよほど融通が効かないらしい。


 ……まずい。思考が余計なことを考え始めた。取り止めもないことをやたらと反芻しだす脳みそに理性が危機を訴える。


 これ、アレだ。軽度の走馬灯だ。


 肉体が冗談抜きで生死の危機に瀕している。


 本当にヤバい。思考に靄がかかっている。

 一歩一歩、進む足の方向が定まらない。

 打開策など思いつかず、ただがむしゃらに進むことしかできない。


 その歩幅も、少しずつ、確実に狭まっていく。


 これ、以上は。


 ゴーグルに付いた雪を払うこともできず、真っ白で真っ暗な視界が閉じてゆく。



 ——ああ、見つけました。凄いですね。生身のままそこまで歩いてきたのですか?



 そこに、妙に明るい声が届いた。

 意識に直接響くその声は、何やらあたふたとした様子をこちらへ伝える。


 ——お待ちくださいませ。今そちらへますので。


 ふわりと。

 凍りついた鼻腔に、緑の香りが届いた。

 同時に、全身の痺れるような寒波が瞬く間に引いてゆく。


「…………ぁ」


 ——そのまま、真っ直ぐお進みになってください。道は拙が維持します。


 声の主に従い、俺は軽くなった足で前に進む。


 ……驚くことに。

 あれほどまでに吹雪いていた天気は嘘のように静まり返り、俺の前に続く道には、柔らかな若草が生い茂っていた。


 ——間に合ったようで安心しました。よくぞ、止まらずに進んでくださいました。


 俺の身体が、何か温かい膜に触れ、その内側に入り込んだ。


 ——はい、もう大丈夫でございます。ようこそ。歓待の言葉を用意できず申し訳ありません、お客人。


 柔らかに耳朶を打つ声にすっかり安心した俺は、緊張を解いてそのまま意識を手放した。




◆◆◆




 目が覚めて一番に飛び込んできたのは、綺麗な木目の天井だった。


「……ここは」


 柔らかな布団を剥いで身を起こし周囲を見渡す。


 木々をそのまま支柱に使った一風変わった建築。指先に触れる畳と家屋の建材に使われている木材の独特の香り。


「雪の中で、確か……」


 少しずつ鮮明になっていく意識。

 雪の中で死にかけた俺は、一つの声と緑の道に導かれて、そして——。


「どう、なったんだ……?」


 そういえば、独特な家屋の匂いに混ざる僅かに混ざる仄かな香りは、どことなく瀕死のあの時に嗅いだものと似ているような……。


「——あら。もうお目覚めになられたのですね」


 それは、聞き覚えのある——俺を導いてくれた何者かの声だった。


 声のした背後を振り向くと、非常に、なんというか……歩きづらそうなドレスのような服を着た鬼人族の女性が、布の仕切りを捲って部屋に入ってきた。


「半日で元気になるなんて頑丈なんですね。流石は、のお弟子様です」


「えっと、あの……」


 勝手に一人、楽しそうに笑う女性……いや、女の子? 見た目の年齢は人族指標ではまだ十代半ばだろうか。少なくとも、俺より歳下……ストラと同じくらいに見える。


「き、着るのが大変そうなドレスだな……?」


「……はい?」


 混乱しているにしてももっとマシな第一声があっただろ、と徐々に覚醒する理性が特大のため息をついた。

 俺のアホな発言に、しかし少女は柔和な笑みを浮かべた。


「“紬”という服です。目にするのは初めてですか?」


「……だな」


 臙脂色に染まった紬を俺に見せつけるように、少女はその場でくるりと一回転した。


「どうでしょう?」


「……似合ってると思う」


 比較対象がいないから主観でしかないが、雰囲気はとても良いのではないか?

 素直に賛辞を口にすると、少女は口元に手を当て、くすくすと小さく笑った。


「ありがとうございます、


「俺、名前言ったっけ?」


「かるらちゃんが教えてくれました。の方で首を長くして待っていますよ」


 少女は名前を告げず、「そこにある衣服をお使いください」と微笑んでひと足先に部屋を去っていった。


 俺は、着替える前にもう一度部屋を見渡す。


「……広いな」


 ものが少なく閑散としているが、それが木造の家屋の静謐さをうまく引き立てている。


「つか、俺下着以外着てなかったのかよ……」


 女の子に向かって半裸で「その服似合ってるね」発言なんて、変態以外の何者でもない。

 そそくさと見覚えのない服……どことなく少女の着ていた紬なるドレスをラフにした感じの服に着替えた俺は、少女の道筋を辿るように部屋を出た。




◆◆◆




「お前という奴は! 久しぶりに帰ってきたと思えば! 客人に過酷な雪中行軍をさせて! 挙句一人は置き去り!? この馬鹿娘!! ちったぁ反省せんかたわけぇ!!」


「違う! 違うのよ長老! 特訓、訓練、鍛錬、修行よ! 師匠として鍛えようとしたのよ!!」


 居間に入ると、白髪と白髭を蓄え腰の曲がった老年の鬼人の男が、正座する涙目の師匠の頭をバシバシと木刀で叩きまくっていた。


「何が修行じゃ間抜け! そんなもんで強くなれるなら最初からお前が鍛える必要などないわい! 口だけ達者になりおってこのど阿呆!! 放蕩娘!! 親不孝者!!」


「わかっ、わかったから! 木刀は勘弁して長老! 頭割れちゃうわよ!?」


「お前の石頭が儂の非力なんぞで割れるものか馬鹿たれ! その凝り固まった脳筋をほぐすのにちょうどええわ!! フン!!」


「…………ええ?」


 丸いテーブルの横で繰り広げられる暴力的な説教。それに口では反論するものの木刀は受け入れる師匠。あと、めちゃくちゃ元気な爺さん。


 理解が追いつかず混乱が加速する俺の横に、先ほどの少女が少し困ったような笑みを浮かべて並んだ。


「申し訳ありません。朝から身内の醜態をお見せしてしまい……」


「いや、なんかもう……何が何やら」


 混乱する気力も失せて肩の力を抜いた俺に微笑んだ後、少女は爺さんの肩を叩いた。


「お爺様。お客様の前ですよ」


「むっ!? おお! 目が覚めたかお客人! ささ、そんなところで立ってないでこっちへ来なさい。ほら、さっさと退くんじゃ馬鹿娘!」


「あいたぁっ!?」


 師匠を容赦なく蹴っ飛ばした爺さんは、二重人格を疑いたくなるような変わり身の早さで俺を丸テーブルに案内した。


「お客人、今から朝餉なんじゃが、食欲はあるかのう?」


「あ、はい」


「好き嫌いは?」


「特には……」


「うむ、結構。では用意するでな、少し待っておれ」


 爺さんは早々に台所へ姿を消し、少女も会釈を残して爺さんの背を追った。

 居間に残されたのは当然、俺と、額から血を流す師匠の二人だけ。

 ……いや出血してるじゃねえか! あの爺さん化け物か!?


 師匠の身体に当たり前のように有効打を叩き込んでいた爺さんの膂力に戦々恐々とする。師匠は「偏屈ジジイめ」、と恨み言を吐きながら血を拭い、あっさりと治療した。この人も大概おかしいな……。


「……師匠、イノリたちは?」


「離れで寝てるわ。消耗度合いで言えば、あなたよりよっぽど酷かったもの」


「無事なんだな。……で、ここどこなんだ?」


 本題に切り込む。

 目覚めてからずっと疑問に思っていたこと。


 ここは、あまりにも極星とはかけ離れている。

 土地の100%を凍土に包まれた世界とは乖離した土地。

 穏やかな陽気。吹き抜けの庭に見えるのは豊かな緑。およそ寒波とはかけ離れた土地で、本当に極星世界ではないような——


「……もしかして、ここが?」


 そこまで思考して、一つの仮説に思い当たる。

 極寒の凍土の中に存在する空白。魔王が認識してはいけない領域。


 俺の勘は、果たして正しかった。


「あなたが考えている通りよ」


 爺さんにしこたまぶっ叩かれていた頭が痛むのか、師匠は自分の脳天をさすりながら俺の勘を肯定した。


「ここが私の故郷。それと、あなたの修行の地」


「ここが……」


 急に湧いてきた実感を噛み締めるように拳に力を入れ、視線を膝に落とす。

 ここで、俺は。


「——これ馬鹿娘! お前は自分で用意せんかい!!」


「うっさいわねーわかったわよ!」


 俺は……とりあえず、朝飯を食べよう。

 少し危なっかしい手つきで食器を運んできた少女のお盆を支える。


「手伝う。何すればいい?」


「では、盛り付けられた主菜をお願いします」


「任された」


 いい香りのする台所で空腹を主張した俺の腹の虫に、爺さんは「若いもんは元気でいいのう!」と快活に笑った。

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