対話

 ベッドの上に寝転がり、目を閉じる。

 胸に手を当て鼓動を感じ、その奥にある“魂”に触れる。


 そこには、一冊の本がある。


 ——《英雄叙事オラトリオ》。


 俺の力の源。金級冒険者を目指す上で、なくてはならない力。


「……聞こえてるか?」


 語りかけても、返事はない。

 固く閉ざされた本には一枚の栞が挟まっていて、俺はそれに触れてみる。


 栞は導線パスだ。俺と、シャロンを繋ぐ道導。


 俺はずっと、《英雄叙事オラトリオ》を“物”として見ていた。

 切り札、手段の一つ、奥の手……いずれも、戦いのためのとして使っていた。


「……違うよな」


 ここに記されるのは、命の軌跡だ。

 時代が、世界が違えど確かに生きていた、一人の英雄の足跡だ。決して、チェスの駒のような道具ではない。


 ——“器”。


 俺は今まで、《英雄叙事オラトリオ》が占有するそこを“器”と呼称していた。


 器の上を、《英雄叙事オラトリオ》が独占しているのだと思っていた。

 だが、違う。この感覚は既に、器と《英雄叙事オラトリオ》は、ひとつに融合を果たしている。


 なら、俺がするべきは使役ではない。

 俺が今から成すべきはことは——。




◆◆◆




 そこは、薄暗い、何もない空間だった。

 ……いや。足下に一枚だけ、巨大な色褪せた紙がある。インクの染みた、一枚のページだ。


「……やっと来たね、エト」


 聞き慣れていたようで、しかし、微妙に違う。

 初めて自分の正面から聞こえてきた可愛らしい声に俺は顔を上げた。


「ああ、随分待たせたな。シャロン」


 輝白のツインテールを揺らす金色の瞳。

 白磁の肌、薄桃色の唇。

 身長の割にはしっかりと主張がある、イノリが怨嗟の視線を送る胸。この一ヶ月鏡で毎日見ていた英雄が今、俺の目の前にいた。

 フリルをあしらった純白のゴシックドレスをつまみ、少女は貞淑にお辞儀をした。


 〈白鋼の乙女〉シャロン。


 こうして会うのは初めてのことだが一年以上、魂に寄り添い続けてくれていた存在を目の前にすると、不思議な安心感があった。


「ここは、《英雄叙事オラトリオ》なのか?」


「そうだよ。ここは《英雄叙事オラトリオ》の内側! ここまで来るの長かったねー!」


 薄暗い世界の中に浮かぶ一枚の巨大なページの上で、シャロンは大きく背伸びをした。


「君がここに来るまでに、まさか一年以上もかかるとは思わなかったよ」


 不満を明確に滲ませて唇を尖らせたシャロンだったが、次の瞬間には柔和な笑みを浮かべ、俺との距離を詰めて右手を差し出してきた。


「改めまして、シャロンだよ。こうして顔を合わせるのは初めてだね」


 俺は躊躇うことなく、差し出された手を握り返した。


「エトラヴァルトだ。今日まで、力を貸してくれてありがとう」


「フフ。君にこうしてお礼を言ってもらえるの、思ったより嬉しいね」


 ——カチ、と。

 欠けていたピースが嵌る音がした。


「悪かった。今日まで、貴女のことを見ていなくて。俺は——」


 謝罪の言葉を連ねようとした俺の口を、シャロンの人差し指が優しく塞いだ。


「言わなくて大丈夫だよ、エト。今、君がここにいる。それが何よりも大事なこと」


 薄暗闇の空間に、はらり、はらりと葉が舞い散るように無数のページが踊る。


「君は、こうして私と向き合えた。だからもう大丈夫」


 正解だよ、とシャロンは笑う。


「これから、君は私の全てを知る。だから、君のことを教えて? これから先を歩む君の姿を、私はここで見ているから」


「……ああ。勿論だ」


 無数のページ

 それは、シャロンという一人の人間の生涯の軌跡。

 俺はその中の一枚を手に取り、さっと目を通してみた。


「こうして見ると、俺は本当に、力の一端しか引き出せてなかったんだな」


「ほんとだよー! 私のパワーならあの悪魔だってイチコロだったんだからね?」


「マジかよすげえな。……なあ、シャロン」


「ん、なに?」


「今のアンタは、?」


「残滓……ううん。記録かな」


 俺の曖昧な問いに、シャロンははっきりと意図を持って答えた。


「私は、シャロンという人間の生涯の陰法師。この《英雄叙事オラトリオ》に写し取られた記録そのもの。転写の過程で魂の一部が焼きついてる感じもするし、魂の残滓って表現もあながち間違いではないかな?」


「なるほど?」


 いまいち要領を得ない内容に、座学の苦手な俺は首を傾げる。そんな俺を見て、シャロンには「フフ」と上品に笑った。


「そんなに頭を捻らなくても大丈夫。これもそのうち理解できるから。気楽に構えて?」


「そんなもんか……っと、あれ?」


 急に足下がぐらつき、目眩を感じた俺はその場に膝をついた。揺れる視界と耳鳴りに、急激に意識が遠ざかる。


「これ、なんか急に——」


「あー、限界がきちゃったか」


「げん、かい……?」


 ふらつく足で立とうとして失敗し四つん這いになる俺の頭を、シャロンが優しく抱きしめた。


「君は今、睡眠を通して魂の内側を観測してる。その負担は、君が思うよりずっと大きいんだよ。だから、今日はここまで」


 温かな手が優しく後頭部を撫で、俺の不安を取り除いていく。


「安心して。帰り道は私が教えてあげるから」


「ま、た。はなし、を……」


「……! もちろん、君が望むならいくらでも。いつでもおいで!」


 嬉しそうなシャロンの声を聞いて、いよいよ限界が訪れる。

 瞼が重くなる。

 呼吸するごとに疲労が二乗されるような倦怠感に流されるまま、俺はシャロンの柔らかな抱擁に身を預けた。


「おやすみ、エトラヴァルト。わた——が、……めた、もっとも————ぎ手」


 優しい手に導かれて、目を閉じた。



◆◆◆




 目覚めると、なんか、ベッドがいつもより小さい気がした。

 カーテンを開けると、眩しい朝日が網膜を焼き、俺は身悶えるように寝返りを打った。


「んぅ……ん゛ん゛!?」


 自分の喉が発した声に俺は飛び跳ねるように驚き布団から転げ落ちた。

 ドガッシャーン! と派手な音を立てて色々落下させた俺の醜態に驚いたのだろう。既に起きていたイノリが大慌てで扉を開けた。


「エトくん大丈夫!? なんかすごい音が……あ、あぁあああああああああああ!!?」


 女物の服の中からなんとか這い出た俺は、自分の体を見下ろし、両手の拳を天に突き上げた。


「元の体に戻ったぞぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」


「エトくん……」


「やったぞイノリ! 半月ぶりの元の体だ!!」


「女の子の服の中に飛び込んで喜んでる変態みたいになってるよ!?」


「ちょっとは喜びに浸らせてくれよ!!?」


 客観視するまでもなくド変態な状況だったので、俺は一目散にその場から離脱した。

 散らかってしまった服はそのままに(いつのまにかこんなに増えたんだ?)、俺はひとまずリビングに出て椅子に座った。


「この椅子、こんなに小さかったか?」


「エトくん、結構シャロンちゃんの体に馴染んでたんだね……」


 身長差20cmくらいあるからなあ。骨格とかも変わるし、暫くは元の体の方が違和感覚えるかもしれない。……言ってて悲しくなってきたな。


「そんなことより! 昨日エトくん変なこと言ってなかった? シャロンちゃんと話してくる、とか」


「ああ、寝てる間に夢を通して話してきた」


「……エトくんの妄想、とかじゃなくて?」


「まあ、その可能性は完全には否定できないけど……」


 俺は自分の二の腕や胸、腹などを触り、改めてこの肉体が幻の類ではないことを確信する。


「今こうして、元の体に戻れてるのが証拠だ」


「うーん……」


 納得がいかない様子のイノリは眉間に皺を寄せ、おもむろに俺の頬を摘んだ。


「イノリひゃん……?」


「むむむ」


 灰の目を覗き込んだり、二の腕を叩いたり、手相を見たり、脇腹をつついたりして暫く。


「本当に戻ってるね……」


「だからそう言ってるよね?」


「もう少し女の子でもよかったのに」


「嘘だろ?」


「本気だよ?」


「本気の目で言わないでくれ……」


 若干不満げなイノリではあったが、ひとまずは異変解決ということで「よかったね」というお言葉を頂いた。


「それじゃ、その夢で『体返して』ってお願いしたの?」


「いや、そういうわけでもなくてな。俺が《英雄叙事オラトリオ》との向き合い方を変えたら、自然と戻ってた……そんな感じだ」


 恐らく、肉体が戻らなくなったのはシャロンからの声なき訴えだ。「こっちを見ろ」という、彼女からのアピールだったのだろう。


「それなら、乗っ取った時? に言えばよかったのに。エトくん、乗っ取られても意識あるんでしょ?」


「俺が自分から気づくことが重要だったんじゃねえかな、多分」


「なんか、勉強みたいだね」


「……あながち間違いじゃないかもな」


 見た目は少女でも、シャロンは過酷な時代を生き抜いた人生の大先輩だ。なんか、明確に年上扱いすると拗ねられそうな気配がするけど。

 ともかく、俺はシャロンに与えられた課題を克服した。

 それと同時に、くーちゃん先生が言っていた俺の問題点というのも理解できた。


「あの人、もしかして気づいてたのか……?」


「ん? どうしたの?」


「なんでもない、独り言だ。それより、そろそろ出ないと間に合わないんじゃないか?」


 時計を見れば、朝礼まで30分を切っている。


「ほんとだ! すっかり忘れてた。朝ごはんも食べないと……ああっ!?」


 突然悲鳴を上げたイノリが慌てて立ち上がり「ダダダッ!」と“レンジ”なる調理器具に駆け寄った。


「トースト焦げてる!!」


「俺がお騒がせしたせいだな……すまん」


 四枚のトーストはものの見事に黒焦げになっていた。

 食材として完全に死んでいるが、食べられないこともないだろうと二人揃ってトーストを摘み上げた。


「んー、仕方ない。これ食べよっか」


「……焦げ臭いけど食感だけなら食えるな」


 ザクザク食感の黒焦げの何かを二人して虚無顔で胃に流し込む残念な朝ごはんとなった。




◆◆◆




 元の体に戻ったことは喜ばしいが、学園にはシャロンとして通っているので、当然通学時は肉体の置換を行う。

 時間にして僅か30分。短い喜びを噛み締め元の体と別れを告げ、俺はオールの学舎の正門を潜った。


「あ、リディアだ。おーい!」


 特徴的な縦ロールを見つけ声をかける。が、リディアは肩を大きく震わせたあと顔を真っ赤に染め上げ、脱兎の如く学者の中へ走り去っていった。


「ふーむ。明らかに避けられてるな」


 シャロンの暴走……というか頬へのキスが尾を引いてると見て間違いないだろう。誤解を解きたいところではあるが、馬鹿正直に「あの時は俺の中にいる別人に乗っ取られていたんだ」なんて言えるわけもない。


「暫くは静観ってとこか……」


 学園に来て初めて……というか唯一に等しい友人ゆえにもどかしさは感じるが、今の最優先課題は仲直りではない。



 一限目の魔法史の授業を終え、俺はすぐに目的の人物を探す。


「……いたいた」


 相変わらず露出度の高い服。髪型は気分で変えているのか、今日は後頭部で一本に結んでいだ。


「くーちゃん先生」


「……? ああ、キミか。半月ぶりくらい?」


 面倒くさい、あるいは興味がない。

 そんな感情を隠そうともしない無感動な視線が俺を射抜いた。


「そうだな。ところで、もう一回手合わせして欲しいんだ」


 俺の提案に、先生は露骨に嫌そうな顔をしてため息をついた。


「……キミも懲りないね。何度やっても変わらない。それに、私はもうキミに興味ないから、腕試しなら他を当たって?」


 じゃあね、と手を振って俺から視線を切ろうとするくーちゃん先生。

 俺は躊躇いなく肉体置換を解除し、“エトラヴァルト”の姿になった。


「……驚いた。キミ、男の子だったんだ?」


「やっぱり。最初から俺が男だって知ってたんだな」


「…………」


 ピク、とくーちゃん先生の眉が動いた。


「普通は変身魔法とか幻術、幻覚の類いを疑う。だけどくーちゃん先生は今、躊躇いなく


「……やっぱり、私に腹芸は向いてないのかもね。確かにキミの言うとおり、私は最初からキミが男だって知ってた。その力の源が《英雄叙事オラトリオ》だってこともね」


 予期せぬ単語がくーちゃん先生から飛び出して、今度は俺の眉が動いた。


「これを知ってるのか?」


「勿論。私が何年生きてきたと思ってるのさ」


「そんな言葉が出るほど、この本の出自も古いってことか」


「そのとおりだけど、その“古い”って言い方私にも刺さるからやめてくれない?」


「悪かったよ」


 あからさまに不機嫌になったくーちゃん先生に謝罪をひとつ入れて、もう言いません、と両手を上げて反省の意を示した。

 まだ“古い”発言を引きずってご立腹な彼女だったが、視線が僅かに俺に向いた。


「それで? わざわざ学内で元の体に戻って。そこまでして何がしたいの?」


「あと一度だけでいい。俺と手合わせをしてくれ」


「しつこいね。私、やらないってさっき言った——」


「対話なら、もう済ませた」


「…………へえ?」


 くーちゃん先生の口端が僅かに上がり、瞳に興味が宿った。


「もう一度質問するよ、エトラヴァルト。キミは神様って信じてる?」


「馬鹿馬鹿しい。魔法はれっきとしただ。断じて祝福なんかじゃない」


 この答えは、『魔剣世界』レゾナがどう言う世界なのか。そこに生きる彼ら彼女らはどういう人間なのか。

 その上で、魔法とはなんなのか。これらを知らなければ出せないものだ。


 世界を、人々を。自分の内側にある力のことさえ碌に知ろうとしていなかった昔の俺では、決して至らなかった回答。


 俺の答えに、くーちゃん先生は笑みを深めた。


「さっきまでの雑な態度を謝るよ、エトラヴァルトくん」


「ここではシャロンって呼んでくれ」


 流れるような肉体置換。

 対話を経てから一層早くなった置換速度に、くーちゃん先生の瞳が俺の全身像を捉えた。


「わかったよシャロンちゃん。もう一度だけ戦ってあげる。私に、興味を持たせてみて?」


「そのために来たんだ。やってやるさ」


 俺の強気な意気込みを聞き届けたくーちゃん先生は満足げに頷いた。

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