怒り

この家には、不快な線香の臭いがすっかり染み付いてしまった。


犯人の精神鑑定がようやく始まったらしい。もううんざりだ。いつまで事件を長引かせるつもりだろう。早く終わらせてくれと思う一方で、終わりなんかないとも思う。


裁判について何も知らなかったから、いろいろと調べた。難しくてよくわからなかったけれど、なにせ時間がかかるらしい。無駄が多い。精神鑑定にしたって、そんなことをして何の意味がある。

頭がおかしいから罪を犯したのに、わかりきったことをわざわざ鑑定することに何の意味があるのだろう。精神なんかおかしいに決まってる。まともなやつは、知りもしない相手に危害を加えたりしない。


どうしてこんな無駄なことをするんだろうと思ったら、これにも法律があった。


医療観察法──心神喪失又は心神耗弱の状態(精神障害のために善悪の区別がつかないなど、刑事責任を問えない状態)で、重大な他害行為(殺人、放火、強盗、不同意性交等、不同意わいせつ、傷害)を行った人に対して、適切な医療を提供し、社会復帰を促進することを目的とする


犯罪者を社会復帰させたいなんて、理解ができない。そんなこと誰が望んでるんだろう。犯罪者の家族だろうか。まったく、どこまでも加害者側が優先される。罪のない被害者の社会復帰は放置されているのに。理不尽に傷つけられても、自分で立ち直るしかない。殺されてしまった人は、永遠に社会復帰なんてできない。


しかも再犯率は5割近いらしい。2人に1人がまた罪を犯すとはっきりとしたデータがあるのに、わざわざ狂人を野に解き放って、どうして罪のない人が犠牲になり続けなければならないんだ?効率が悪い。頭が悪すぎる。解き放ったやつの責任は?


償う権利なんて言い方を見て呆れた。

心神喪失とは、罪を犯したことさえもわからないような状態を言うらしい。そんなやつが、どうやって償うんだ。そもそも償うって、なんだろう。本当に償うべき相手は殺されてもういないのに、どうやって、何をしてくれるのか、僕を納得させてくれ。

どうして加害者の権利ばかりが保障されるんだろう。加害者に権利なんてあるのか?

突然全てを奪われた、何の罪もない姉にはもう何の権利もないのに?加害者を守る法律はたくさんあるのに、被害者のことは、姉や僕たち遺族のことは誰が守ってくれるんだろう。


犯人の精神がどうだろうが、どうでもいい。犯人にどんな病気や事情があったとしても、そんなこと僕らには、姉には何の関係もない。どうして被害者が加害者の事情を汲まないといけないんだ?

お前が死のうがどうなろうが、姉は帰って来ないし僕らは苦しみ続ける。何をされても一生許すことなんてできない。姉以上に、この世にこれ以上ない一番残酷な方法で、苦しみもがき続けたって足りない。


あの日、姉の遺体を前にして、僕はただ呆然としていた。父や母が泣くのを初めて見た。死んだということが、どういうことかわからなかった。


母は、もう二度と帰って来ない姉の部屋を毎日掃除する。和室に作った仏壇の前でうなだれて静かに涙を拭い、僕の前では今まで通り振舞おうとしている。父は毎日変わらず出勤していて、けれど時折死んだような顔をする。テレビを見なくなって、ラジオを聞いたり読書したりする姿が増えた。僕も変わらず登校していて、けれど僕は、僕はどんな顔をしてるだろう。姉は、どんな顔をしていたっけ。思い出そうとしても、写真や動画を見ても、ひどい火傷痕がフィルターのように浮かんで邪魔をする。あんなに嫌いだった香水の匂いさえ、今は懐かしく思う。

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