見えない傷は不問
昔から町で評判のクリニックは、いいのか悪いのか、多くの患者で賑わっていた。待合室には立っている人もちらほらいる。それなのに、ヒナが急いで会計にカルテを回して診察室に戻ると、まだ次の患者は入っていなかった。先生は呑気にスマホをいじっている。もう、早くまわしてほしいのに。カルテがこんなに溜まってるの、見えないのかなぁ。うんざりしながら席に着く。
この先生は、患者へのあたりはいいのだが、ヒナはいまいち好きになれなかった。不愛想でも、院長の方がいい。他のスタッフたちは彼を怖がっているし、ぶっきらぼうな言い方にいらっとすることも確かにある。それでも仕事はきちんとこなす上に早くて、無駄話もしない。診察も必要最低限、一番的確だと思う。お喋りをしたい患者からは不評だが、質問をすれば理解するまで答えてくれる。
つらつらと取り留めのないことを考えていると、ようやく先生がカルテに手を伸ばした。
「あ、この人ゴム会社の人だね」
いいから次の人を呼んでほしい。どうして医者はいちいち会社名を見るのだろう。それで態度を変えてるのなら最悪だ。
「へぇ、そうなんですか?」
自覚はあるが、私はあまり反応がよくないだろうに。早く呼んでほしい。時間が押して居残るのはヒナたちだ。先生たちとのお喋りで給料は発生しない。
「うん、有名じゃん。知らない?」
しつこいなぁ。仕方なく腰を上げてカルテを覗き込む。見慣れない会社名だ。
「うーん、知らないですねぇ。私あんまり会社とか詳しくなくて」
「そう?すごい有名だけど」
「うーん、そういえば輪ゴムってあの茶色い箱しか知らないです。あれ、なんて会社でしたっけ」
「え?あー……いやそっちじゃなくて。避妊の……」
「あぁ」
乾いた笑いが出た。気持ち悪い。だからしつこかったのか。これってセクハラじゃないのかなぁ。曖昧に笑って椅子に座りなおす。
「めっちゃ有名な会社だよ。知らない?」
まだ続くのか。話はもう終わったと思っていたのでびっくりした。
「知らないですー」
「そっかぁ。ゴムって言ったらここだし、よく見るはずだけどなぁ」
わかったから。どれだけ粘られても知らないものは知らないし、これ以上話を広げるつもりはない。
「イトウさんて、最後にやったのいつ頃?」
「うーん……もう子どももいるので……」
もう、本当に気持ち悪い。みんなにこういうこと言ってるのかなぁ。私だけ?先輩たちにも言えるのかな……普通に笑って話しそうな人もいるけど……。
「えー、お子さんいくつだっけ。じゃあ3年くらい?全く?」
「そうですねぇ……」
意味もなく手元のカルテに目を落とす。話したくないという意思が伝わったのか諦めたのか、ようやく先生が次の患者を呼び入れたのでほっとする。
どうしてこんな話をしないといけないのだろう。もやもやが胸に渦巻いたままで、診察内容は頭に入ってこない。こういうことがあっても、誰にも相談できないのもつらい。なんだか言いづらいし、話したのが自分だとバレるのも嫌だった。
カルテを会計に持って行ったついでに、忙しそうな受付の業務を手伝う。善意もあるが、なにより診察室に戻りたくなかった。どうして答えてしまったのだろう。どうやって躱せばよかったのか。いや、答えるしかなかった。ここで働く以上、関係が悪くなって困るのはヒナだ。でも。でもあの子なら、上手く躱したかもしれない。自分はこういうのが本当に下手だ。
机に並べられている診察券のカルテを急いで棚から出していく。そんな中、慣れた手つきで診察券を出して、無言で去っていくおばさんを慌てて呼び止めた。この状況で保険証確認の為に再度呼び出す手間は惜しい。
「保険証もお預かりしますね」
言い終わってから、はっとした。おばさんの眉が寄って、険しい顔になる。しまった。
「私保険証いらないんだけど。覚えてないの?」
「すみません。またお呼びしますので座ってお待ちください」
あぁやっぱり。生保だ。嫌になる。いらないんじゃなくて私たちが払ってるんだけどなぁ。
いつもならカルテを出してから今月の受診歴と保険証を確認済みかどうかを見るのに、やってしまった。今日はダメな日だ。もうすぐ実家に帰れるから、浮かれていたのかもしれない。集中力が足りなかった。……いや、先生のせいだ。それまでミスはなかった。不快な思いをさせられて、それで頭がいっぱいになってしまった。
気持ちを切り替えるために裏へ下がり、お茶を飲む。目をつぶって深呼吸。
あと少しすれば楽しいことが待っている。両親も久々に孫に会えるのを楽しみにしていたし、姉も顔を出すと言っていた。頑張らないと。気合いを入れなおして診察室へ向かった。
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