献身造りの家

ドン、ドン、と上から音がして、テレビを見ていた父の体が固まり、母の肩がびくりと震えたのを、ナオトは黙って見ていた。またか、と思って歯磨きを続行する。テレビからは芸人の笑い声が、上からはバン、バンという音が、そしてナオトからはシャコシャコと歯を磨く音がして、リビングはいろんな音が溢れているのに、場の空気はこんなにも静まり返ってしまった。いつものことだ。


「ちょっとお父さん、見てきてよ」

「んー、少ししたらおさまるやろ」

「ご近所さんの迷惑になるやろって言ってんの」

「今日はまだそこまでちゃうやろ。少しは発散させた方がええんちゃう」

「もう、そんなん言うてめんどくさいだけやんか」

「俺が行くから」


泡がこぼれないように上を向いて、夫婦喧嘩を防ぐ。2人が言い合うのも、自分が止めるのもいつものことだ。ひどい喧嘩にはならないのだが、なんとなく空気が悪くなる。ナオトはそれが嫌だった。


歯磨きを終えて階段に向かうと、母が待ち構えていた。何を言われるかもわかっている。


「お兄ちゃんいつもごめんなぁ。あんたがおってくれてほんまに良かったわ」

「はいはい。明日早いから、5時になっても起きてこんかったら起こしてな」

「朝ご飯は?」

「んー、時間あったら食べるー」


弟には障がいがあって、自分の言いたいことや感情を表現するのが苦手だ。鬱憤が溜まったり我慢できなかったり、何かのタイミングで調子が悪くなる。そんな日は小さい頃も泣いて暴れていたが、そうじゃない時はよく一緒に遊んでいた。晴れた日は外でサッカーもしたし、雨の日は家でゲームをした。ナオトが中学生になり、部活を始めた頃から一緒に過ごす時間は一気に減っていったが、それでも仲は良かった。

弟は勉強も普通にできたし、問題になったのは出席日数だけだ。調子が悪いと外に出られないから。大人になって数年経ち、半年前に障がい者枠で就職してからも、たまに休んでしまうけれどなんとか仕事に行っている。


コンコン、とノックをして声を掛けると、弟の部屋から音が止んだ。少し待って、再度ノックをする。このまましばらく待つと、ドアを開けてくれる時もあるし、開けてくれない時もある。部屋に入れてくれる時もあれば、追い返される時もある。今日はどうだろう。


「大丈夫か?」


2度目の声掛けにも返事はない。

何の予定もなければ、ナオトは弟の際限のない話に根気よく付き合うけれど、明日は朝から出張なのでしっかり寝ておきたいところだ。ちらりとスマホを確認する。22時半。


「入んで?」


ノックをしといて放置すれば後々苦情が入って面倒なので、意を決して扉を開ける。壁際に、能面のような顔で弟が立っていた。ひどい時はナオトが入室しても壁を殴り続けているので、今日はまだマシな方だ。


「どうしたん?」

「……」

「ケガしてへん?」


そっと持ち上げた弟の手は赤く擦り剝けていた。

彼は高校生の頃に、壁か何かを殴って手の骨を折っていたことがある。ナオトはその時に初めて、これが自傷行為なのだと気付いた。同時に、いつの日か弟が刃物を手に取ったらと思い至って、心底怖くなった。弟は今のところ人を傷つけたことはないし、意識しているのかはわからないが、調子の悪い時は部屋に閉じこもって自分を隔離している。大人になるにつれて力が強くなる弟を、母は怖がるようになってしまったが、それは仕方のないことだろうとナオトは思う。


きっと、音がしている内はまだいいのだ。気付いて、助けて、と明確なサインを出せる内は。静かに刃物を握られては、もう誰も気付いてあげられない。だからナオトは、音がしたらいつも部屋に入っていく。気付いてるよと言いに。


「痛くないん?」

「…………ちょっと」

「んー、消毒とかしとく?」

「……いらん」


これまで何度もした、代わり映えのないやり取りを繰り返す。あまりバリエーションがないのだが、何でもいいから言葉を引き出すのが大事な気がしている。話し出すきっかけが。


「なんか嫌なことあったん?」

「んー……」

「んー……俺?」

「ちゃう」

「せやな、兄ちゃんのこと大好きやもんな」

「……」


調子が良ければ、は?とか、大好きちゃう等の返答があるのだが、今回は無言の肯定として受け取ろう。


「じゃあ、母さん?」

「ううん」

「父さん?」

「ううん」

「お前家族大好きやもんなぁ。じゃあ職場か?」

「……」


無言の肯定だ。


「職場かぁ。嫌やなぁ。なんかされたん?」


弟が、ふるふると頭を横に振る。


「言われた?」

「うん……」

「誰に?」

「知らん。部署ちゃうねん」


なるほど。障がい者枠を設けている会社は、該当部署の社員に対して、雇用する障がい者の対応について研修なり説明なりがあったりなかったりする。ないのはトラブルのもとになりやすい。母曰く弟の部署はきちんと対応してくれてるようだったので安心していたのだが、別の部署か。


「……資料をな、14時になったら持って行くねんけどな、」

「おん」

「今日、持って行っても誰も受け取ってくれんくて」


なんとなく、わかってきた。


「資料持ってきましたって言ったら、後にしてって言われて」


弟は、物事の予定のずれに弱い。一度スケジュールが狂うとパニックになってしまい、その後ずるずると引きずって、ドミノ倒しのように総崩れになってしまう。案の定、話の続きも予想通りだった。


「でもタイシの主任さん、ちゃんと対応してくれてよかったな」

「うん。……でももうその部署行きたくないねん」

「せやなぁ……忙しかったんやろなぁ」


せっかく雇ってくれたのに。まぁ障がい者雇用は確か助成金か何かあったはずなので、適当に他の雑務をやらせてくれるだろうが、どうしたものか。今日主任が対応してくれたのなら明日以降同じことは起きないはずだが、弟にとって問題はそこではない。今日受け取ってくれなかったことが嫌で、その気持ちが切り替えられないのだ。


可能な限り気持ちに寄り添う姿勢を見せて、無理せず主任に相談するということでなんとか話を切り上げた。何も解決していないが、疲れたから休むと言ってくれたので僥倖だ。これで自分も寝れる。おやすみと言い合って、自室に向かう。スマホのアラームをセットしてベッドに入る。なんと日付は超えていない。頑張った。


ナオトは食品会社の営業職で、毎週どこかへ出張があった。全国転勤もあるのだが、会社に家族のことを相談しているので配慮してくれているのだろう。昇進はできないかもしれない。

3年前、結婚を考えていた彼女に振られてから恋人はいない。正直な子で、理由は弟だった。関わっていく自信がないと。その前の彼女も、曖昧な理由はきっと建前で、別れを切り出されたのは弟の話をしてからだった。責めることはできない。実の家族ですら手に余っているのだから。


父は調子が悪い時の弟にはどう接していいかわからないようで、距離を取っている。けれど弟の調子がいい日には家族4人で出掛けたりして、父や母も楽しそうに弟と話をする。そんな時でも母は弟の様子を注視して気を張っているが、それは弟と周りの為に必要なことだ。


自分の弟への対応が正しいのか、未だにわからない。でも誰かがやらねばならないと思う。多くは望まない。ただ安らかに、できれば楽しく過ごしたいから、ナオトは目を逸らさなかった。

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