さめない理想

今日はお客さんが少ない日だ。たまにこんな日がある。先輩に話し掛けられないよう、ルリはさりげなく距離を取りながら意味もなく商品の配置を整えている。無駄に気を遣って愛想よく中身のない先輩のおしゃべりに付き合うくらいなら、購入に繋がらなくても接客をする方がルリの性には合っていた。ところがそんなルリの願いも空しく、カワイがこちらに寄ってくるのが見える。暇人め。ルリは小さく息を吐いた。


「イトウさん、来月有給取ってたの、またオタクのライブ行くの?」

「はい!もうすっごく楽しみで」


にこっと笑って答えつつ、内心辟易していた。よく人のシフトまで見てるなと、いつも感心する。ルリは堂々と推しのグッズを鞄やスマホに付けているし、聞かれたら好きなアニメやゲームについても隠さずに話すので、ルリの趣味は職場で認知されている。その結果、推しのイベントなどがあれば快くシフトや有休の融通を付けてくれる人がほとんどなので、その点は感謝している。


「えー、よくやるねぇ。結婚したいとか思わないの?」


でた。社会人になって10年経つが、今まで何度同じ質問をされたかわからない。その度にルリは適当に躱しているのだが、いつまでたってもカワイは諦めない。ルリにこの手の話題を振っても面白くないと、他の人は早々に理解するのに。


「推し一筋なんで」


明るくいつもの決まり文句を告げると、カワイはつまらなさそうな顔をした。ルリが毎回平然と答えるのが気に食わないらしい。もともとルリの趣味に抵抗があるそうなのだが、それならなぜわざわざ近づいてくるのか、ルリには到底理解できなかった。シフトのことだって、どうしても人が足りなければ推し活を諦めることは多々あるし、ルリが他の人に休日を譲ることもある。こういうのはお互い様だろう。なんなら、子どもの体調不良など家庭の事情でルリが急に欠勤することはないのだから、そんなにとびぬけて迷惑もかけていないと思うのだ。子育ては大変だろうなと思うから、急な欠勤に不満を漏らしたこともない。

なんにせよ、ルリのことが嫌いなら関わらなければいい。そんな単純なことができないどころか、貶めようとしてくる人に子どもがいるというのだから怖い世の中だ。一体どんなサラブレッドに育つことやら。自分の母が職場でこんなことをしてたら絶望するなといつも思う。


ルリとカワイの殺伐とした空気を察したのかただ暇なのか、また1人先輩がこちらへやって来た。タイミングを見計らってカワイを押し付けたいところだ。


「今日全然お客さん来ないね~。何の話してんのー?」

「同期もみんな結婚したし、次はイトウさんかなって言ってたの」


そんな話は一切していない。カワイさんのこのやり口、汚いんだよなぁ。

真に受けたニシジマが、えーそうなのー?と無駄に高い声を上げる。なんでそんなに嬉しそうなのか、不思議でたまらない。


「まさかぁ。全然予定ないですよー」

「えー?なにそれぇ」

「またオタクのライブ行くんだって」


そしてオタクのライブではない。それだとルリたちがライブをすることになる。訂正は心の中に留めて口を噤む。狭い職場だ。波風立てず、無害を装うのが結局は面倒がない。


「そうなんだ。楽しみだねぇ。いいじゃん。今の内だけだもん、結婚したら何にもできないよー」

「ねー。子ども優先になっちゃうよね」


おっと。これは愚痴に見せかけた既婚者マウントだろうか。以前後輩に言われてなるほどなと思ったのだ。


ルリは、愚痴や惚気を聞くのはわりと好きだ。こちらが何も話さなくても、勝手にペラペラ喋り続けてくれて楽だから。純粋に面白いなとも思う。しかしこのマウントというやつは、己の醜悪さを曖昧にしながらこちらの気分を害そうとするのが透けて見えて、その下心が大層不快である。

ルリだって、別に結婚したくないわけではない。ただそこに命をかけていないだけで。推しよりも優先したい人ができれば結婚するかもしれないが、今のところその気配はない。妹が結婚してかわいい子どもを産んでから、母親がルリをせっつくこともなくなった。


「彼氏と旅行に行ったりはしないの?」

「彼氏いないんですよー」

「えっ彼氏もいないの?夢も希望もないじゃん!」

「あはは!」


ルリは思わず声を上げて笑った。恐らく本気でそう思っているであろうニシジマの言葉がおかしくて。だって、この3人の中ではルリが1番夢を見ているのだ。ルリの推しが画面から出てくることはない。永遠に夢と希望のままだ。

結婚して、きっと楽しいこともあるのだろうけれど。日々旦那や義理の両親の愚痴を延々と語り、自己投資もできずに老けていき、後輩で鬱憤を晴らす。そんな醜い姿を見て、誰が結婚したいと思うのだろう。何のときめきもないつまらない毎日を過ごすより、大好きな幻影を追いかけて生き生きと過ごす方が、何倍も幸せに感じられるのだ。

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