ひとりぼっち
昔ながらの木造2階建ての一軒家。周りを畑に囲まれて、ポツポツと似たような家が点在するのどかな町。ノブオはここで生まれ育った。そしてここで死ぬのだろうと思っている。
昼食を終え、母と妻のナオミが食器を洗う音を聞きながら、書類を手に取って居間を出る。きしむ廊下を進んで、奥のふすまの前で一度立ち止まり、呼吸を整えた。トントンとノックをしてふすまを開け、暑さー、と言いながら午後の準備をする父に声をかける。
「ほら、こいば予約したけん、来月お袋と行ってこんね。お袋が飛行機はえすかて言いよったし、乗るまでも大変やけん、時間のかかるけど新幹線にしたばい。チケットはまた近くなったら渡すけん」
旅行会社からもらったパンフレットと書類を手渡し、日付を伝える。ペーパーレスだのチケットレスだの言われても、この年代には縁遠い話だ。自分たちでさえ難しい。そもそも書類もスマホも文字が小さくて、いちいち老眼鏡をかけるのが煩わしい。
一方すっかり老眼鏡をかけ慣れている父親は、黙って眉を寄せ書類に目を通している。ノブオは昔からこの沈黙が苦手だった。叱られなくなってから久しく経つのに、心臓がざわついて落ち着かない。
そうしているうちに後ろのふすまが開いて、母が部屋に入ってきた。食器を片付け終えたのだろう。
「なんしたと?」
「……ノブオが箱根に行ってこいて」
父は眼鏡を外して立ち上がり、母にパンフレットと書類を全て渡してしまうと、もう興味がないかのように背を向けて元の作業へもどる。
「箱根?」
「おん。箱根に2泊3日。最近コロナでどこにも行けんかったやろ。カズオんとこも泊まってよかて言いよったし、しばらくゆっくりしてきたらよか」
「わー、嬉しかねぇ。何年ぶりやろうか。カズオんとこのケイちゃんも、前は受験で会うとらんもんねぇ」
東京の弟家族にも了承を取り、2週間ほど向こうで羽を伸ばしてもらう予定だ。大好きな孫にも会えるので、特に母は喜んでくれる自信があった。どちらにしろもう予約は取ってしまっているし、断られはしないはずだ。
「ばってん来月てあんた、まだ収穫で忙しかろーもん」
「大丈夫さ、おいもナオミも頑張りますんで。タケナカくん達も手伝ってくるって」
「えー……ナオミさんに悪かぁ。やっと慣れたとこやとけちょっと調子も悪いみたいやし、そがん無理もさせられんたいね」
「大丈夫、あいつも一緒に考えたけん」
「ノブオ達がよかて言いよっちゃけん、よかさ。ありがとうって言ってもらっといたらよかと」
渋る母に父がぴしゃりと告げ、部屋を出ていく。もう畑にもどるらしい。ノブオは静かに安堵した。これでこの話は終わりだ。
居間にもどると既にナオミの姿はなかった。玄関を覗けば靴はまだあったので、2階にいるようだ。階段を上がりながら、ナオミーと呼び掛けると、間延びした声が返ってくる。
「親父たち行くって。ありがとうってさ」
「あぁ、そうね。良かったたい。そしたら頑張らんばいかんね」
「いや、お前もゆっくりしたらよかさ。久しぶりに地元に帰ってもよかし」
そうねぇ、となんとも言えない返事をして、ナオミは階段を下りていった。その先で、母が旅行のお礼を言って、ナオミが明るく返している声が聞こえる。
ナオミはここに嫁いでからずっと、外にパートに出ていた。明るい性格で、パート先のレストランで友人を作り楽しく過ごしていたようだ。ところがコロナ禍になってレストランが一時閉店を余儀なくされたと同時に、うちの高齢な両親の体のこともあってナオミはパートを辞め、畑を手伝うようになった。ナオミの不調は、それがきっかけだったのだと思う。ノブオの両親を気遣って外出は最低限にし、ナオミ自身の実家には通いづらい風潮の中、頻繁に電話をかけて連絡を取っていた。
そんな変化に対して、ノブオの母はナオミがようやく畑仕事を真面目にしてくれるようになったと喜んでいた。彼女は、うちには跡継ぎがいないと、ノブオ達の間に子どもがいないことを昔から度々嘆いていた。悪気はなく、ただ素直にチクチクとナオミの心を刺してきたのだ。ノブオはそれに気付いていながらも、どうすることもできずにここまできた。
子どもがいなくたって、他所から人を雇えばいい。そうして不慣れなインターネットを使って募集をかけたのが数年前。最初は不安だったけれど、今では立派に若く元気な体で貢献してくれる仲間がいる。
けれど、母にとってはそういう問題ではないこともわかっていた。長い月日をかけて、日々の小さな棘が少しずつナオミを蝕んでいった。きっと母だけではない。父も、自分も、彼女をこの狭い家に閉じ込めて離さなかった。
大きく息をついて家を出ると、50を過ぎた体に真夏の日差しが容赦なく降り注ぐ。2週間で全てが解決するとは思っていない。それでも、この閉塞感から抜け出す糸口になることを祈るしかなかった。
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