第110話老舗酒蔵の次男、麹で覚醒する 其ノ弐拾弐
「お前、自分勝手にも程があるだろ」
全力の我が儘に毒気を抜かれた喜兵寿は、思わずふっと吹き出した。
「それに頭のおかしな杜氏ってなんだよ」
「死ぬかもしれない時でも、酒の話が出たら目キラキラさせてんだぜ?頭おかしいだろ」
「それはお前も一緒だろ?」
「……たしかに」
喜兵寿と直は顔を見合わせると、どちらからともなく笑いだした。
「よくよく考えたら、ビール造らなきゃ殺されるっておかしすぎるだろ」
「本当にな。でもお前がこの店に来たことで、こんな騒動になってんだからな」
「俺だってタイムスリップしたくてしたわけじゃないぞ!酔っぱらって起きたら、なんだかこんなことになっていたわけで」
「それについてお前の言っていることはさっぱりわからんが、結局のところ酔っぱらって倒れていたってことだろ?」
「むむ。それは確かに……」
ひとしきり笑いながら言い合いをすると、急に何もかもがどうでもよくなってきた。
「あーあ。なんだかいろいろ馬鹿らしくなってきたな」
喜兵寿は直の胸ぐらから手を離すと、大きく伸びをした。
「お前の言う通りだよ。俺は本当は日本酒を造りたかったんだ。でも俺が酒を造れば、源蔵にいの夢を奪ってしまう。だから日本酒は造らないことにした。酒に関わる仕事なんて他にいくらでもあるしな」
「はあ?どういうことだ?別に兄ちゃんと一緒に造ればよくないか?」
心底わからない、といった顔で首を傾げる直に、「そう簡単にいく話じゃないんだよ」と喜兵寿はため息をつく。
杜氏は日本酒造りの最高責任者。蔵でたった一人の存在だ。喜兵寿は別に杜氏になりたいわけではなかった。源蔵と共に酒を造り、柳やの味を守り続けることができるのであれば、肩書なんてどうでもよかった。しかし周囲の大人たちは喜兵寿を杜氏にし、源蔵を酒造りから外そうとしたのだ。
自分の存在が兄の夢を脅かしてしまう。自分たちを身を粉にして守ってくれた兄を傷つけることなど、絶対にありえなかった。そんなことをするくらいなら、酒なんて造りたくもなかった。
でも。
喜兵寿はゆっくりと煙管に火をつける。
今回の一件で、嫌というほど自分の気持ちがわかってしまった。消したはずの炎はいまだに身体の中でくすぶり続け、心は酒を造ることを全力で望んでいるのだ。だからこそ「びいる」なる酒にこんなにも心惹かれていたのあろう。
「なんかよくわかんねえけどさあ」
眉根に皺を寄せたまま、直が口を開く。
「別に俺、日本酒を完成させろ、なんて頼んでないからな?日本酒を造る技術をビールに使いたいだけ。喜兵寿の決意がどんなもんだか知らんけど、要は最後まで造らなきゃいいわけだろ?」
考えもしなかった言葉に、喜兵寿は「なんだ、その屁理屈は」と目を丸くする。
「例えば俺が『ビール造らない』って決めてたとして、でも麦汁を造ったところでビール造りにはならないわけだよな……うん、そうだ。やっぱり完成させなきゃ別にいいだろ」
直は自分の言葉に、うんうんっと頷きながら喜兵寿の手を取る。
「途中まで造ったところで、やっぱ『日本酒を造りました』ってことにはならないって。よし、そうとわかれば早速日本酒造りについて教えてくれよ!」
こいつはなんて無茶苦茶な……!
「そういうもん……なわけあるかい!違うだろ!」
「いーや。そういうもんなの!それこそ俺らあと数か月しか生きられないかもしれないんだぜ?細かいことなんてどうでもいいって。自分の都合のいいように解釈すること。これめっちゃ大事」
そういうと直は喜兵寿に手を差し出した。
「さ、一緒に江戸ビール造ろうぜ。時代を超えたコラボレーション。最強のコンビネーション!最高じゃん」
なんて強引で自分勝手な解釈なのか。しかし喜兵寿の心の奥底はムズムズと動き出す。西日を背にした直はやたらに眩しくて、やけに大きく見えて、気づけば喜兵寿は直の手を取っていた。
「いえーい!決まりな。日本酒の技術を用いた江戸ビール。完成したら令和でバズること間違いなしだな~!エモエモのエモ。エモエモエモエモだ」
「お前といると、いろいろどうでもよくなるな」
喜兵寿はふふっと笑う。
「お、褒めてる?!ありがとな」
「調子に乗るな。褒めてはいない。ふざけてないでさっさと帰るぞ」
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