第59話樽廻船の女船長、商人の町へ 其ノ拾漆

船の上に出ると、あたりは薄暗くなっていた。まだ申ノ刻(16時)だというのに、日が暮れてしまったようだ。空には真っ黒な雲がかかり、風はびょおびょおと不吉な音を立てている。打ち付ける波はどんどんと高くなり、時折波しぶきが船の中へと入って来ていた。


「おい!酒を持ってきたぞ!」


喜兵寿の声に、男たちがこわばった顔を向ける。どの顔も恐怖が喉に詰まってしまったように、蒼白く、苦しそうな表情をしている。それでも力を緩めることなく、自分の持ち場を必死で守っていた。


喜兵寿はまずねねの元に行くと、おむすびと酒を手渡した。


「おや梅のおむすびと燗酒かい?粋だねえ」


にっこり笑うねねだったが、酒を受け取るその指先は小刻みに震えていた。湯飲みに注いだ酒がこぼれる。気丈に振る舞ってはいるが、この船の、そしてここにいるすべての者の命を背負っているのだ。その重圧は計り知れないだろう。


喜兵寿はねねの手を包み込むようにして湯飲みを持つと、その中に鰹梅を入れた。


「こうして飲めば、多少は気持ちも落ち着くはずだ。大丈夫。きっとなんとかなる」


ゆっくり静かに耳元でささやく。


「さあ、まずは酒を飲んで」


ねねは喜兵寿に促されるままに、湯飲みに口をつけた。最初はほんの少し。そして少し驚いたような顔をして、ぐびりぐびりと喉を鳴らして酒を飲みくだす。


ねねはふうっと息をつくと、「こりゃあいい酒だ」と残りの酒も一気に飲み干した。そして満面の笑みで喜兵寿の方に向き直る。


「喜兵寿、あんたいい男だね。こりゃあモテるのも納得だ」


喜兵寿が「そりゃどうも」とほほ笑み返すと、ねねは自分の両頬をバチンっと叩いた。


「っしゃ!こんなところで諦めるわけにはいかないからね」


ねねはひとつ深呼吸をすると、男たちに向かって叫んだ。


「さあ、みんな!最高にうまい酒とつまみだ。ちゃっちゃと食って港を目指すよ!」


喜兵寿はにぎり飯と湯飲みを男たち手渡していく。皆櫂を置くのが怖いのだろう。なかなか漕ぐのをやめられない様子だったが、ねねの「早くしな!」という声に、躊躇しながらもおむすびを手にする。


皆におむすびが行き渡ったのを確認し、喜兵寿は声を張り上げた。


「これは安全祈願の食べ物『御難おにぎり』。かの日蓮上人が難を逃れるために食べたとされる、縁起のいい食べものだ。腹にいれときゃあ、きっと仏様も守ってくださるだろう」


喜兵寿は、べろべろに酔っぱらいながら御難おにぎりについて教えてくれた男の姿を思い出す。


「相模の地じゃあ、安全を願う時には毎回それを食うわけさ。うちの母ちゃんもよく握ってくれたっけなあ。まぁ訳あって、もう二度と相模の地には帰ることはできないんだけどな……」そう語る寂しそうな横顔と、故郷を懐かしむ目。


「人生いろいろある!」「帰れなくたって俺たちがいるだろ。この店がお前の故郷だよ」

そういいながら常連客同士で肩を組み、夜更けまで騒いでいたっけ。


あいつらの居場所を守るためにも、自分はいまここでくたばるわけにはいかないのだ。喜兵寿は、手にした御難おにぎりにかぶりつく。


「梅は『長寿』を意味する縁起物、それを酒に入れて一気に飲めば腹の底から力も沸いてくるってもんだ」


喜兵寿の言葉に男たちがざわつく。


「この酒よりももっとうまい酒が、うちの店にはたんとある。生き延びたやつで盛大に酒盛りでもしようじゃないか」


そういって徳利を持ち上げると、「いいねえ!」となおが立ち上がった。


「確かにこの酒もうまいけど、やっぱり柳やの酒とは雲泥の差だもんな。皆で鰹の刺身食べながら腹いっぱい日本酒飲もうぜ。そんでもってもう飲めない~ってなったら、あつあつの蕎麦で〆る。もちろん勘定はすべて喜兵寿もちな!」


「はあ?お前はいつも銭を払わないじゃないか!その分働いてもらうからな」


「いやあ、ただ酒やる気出るわあ」


喜兵寿の言葉を無視して喜ぶなおに、皆の空気が緩む。


「そうだなイ。くさくさしてる時間なんてないな。俺らは海人。船に乗ると決めた時から命は海に預けてんだイ」


甚五平はがぶがぶとおにぎりを口に詰め込み、酒で流し込む。


「うまイ!うまイ!」


それにつられるようにして、他の男たちもおにぎりを口にする。しばらくの沈黙の後、大量にあったおにぎりと酒はあっという間になくなった。


「うまかった!」「ありがとよ!」「よっしゃいっちょやったるか」


男たちは感謝の言葉を口にしつつ、再び櫂を手にとり位置につく。空はますます暗くなり、風はその強さを増していたが、男たちの目には小さな光が灯っていた。

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