第36話泥酔蘭学者、ホップを知る 其ノ玖

大阪にある商人の街、堺。「手に入れたいものがあるならば、まず堺を訪れよ」と言われるほどに、古くから人や技術、文化が集まる場所だ。


喜兵寿が生まれ育った伊丹からはさほど遠くはないので、父親や祖父からはしばしばその話を聞いていた。でも思い返せば大抵は堺商人の悪口だったように思う。

「あいつら酒の味もわからないくせに、買いたたきやがって」


「あいつらに見えているのは銭だけだ。銭がなければ厠の場所さえ教えてくれねえ」


父親や祖父は根っからの職人気質。とにかくうまい酒を造ることだけを考えていて、金勘定は後回しだったので、拝金主義の堺商人との相性はかなり悪かったのだろう。


しかし裏を返せば、堺は銭さえ出せば欲しいものは大抵手に入る場所なのだ。



「堺に行くならば、やはり樽廻船を使うのが一番いいだろうな」


柳やに戻った喜兵寿となおは、つるを交えて作戦会議を開いていた。


「樽廻船ってなんだ?」


首をひねるなおに、喜兵寿が説明する。


「樽廻船っていうのは、一言でいうなら“酒を運ぶ船”。ここらで重宝される“下り酒”は伊丹、池田、灘で造られ、樽廻船によって運ばれてきているんだよ」


「おお、酒専用の船ってことか。かっこいいな!それで?それに乗れば何日くらいで堺に着くんだ?」


「そうだな、だいたい15日程度といったところだろうな。ただ天候や潮の流れによってはもう少し早く着くかもしれないが……まあ、あまり期待はしない方がいいだろう」


喜兵寿の言葉に、なおは「ぐえ」とも「げえ」ともいえない声を出した。


「なんだ、その変な声」


「いや、だってよ15日間ずっと船の上にいるってことだろう?!朝も夜もずっと。うわああ、まじかあ、おれ船酔いするんだよなあ」


ガシガシと頭をかきむしるなおを、白い目で見ながらつるが言う。


「じゃあ歩いていけば?」


「はあ?そんなの無理だろ」


なおが素っ頓狂な声を出す。


「はあ?ってなによ。大阪までは大体みんな歩いて行くもんでしょ。飛脚なんて、ここから大阪まで3日で駆け抜けるって話だよ」


「いやいやいや、大阪ってあの大阪だよな?そりゃ無理だって。って、ひょっとしてこの世界の大阪は、俺の知る大阪とは違う大阪で、もっと近かったりするのか?」


なおとつるが言い合っているのを見ながら、喜兵寿はやれやれと煙管を口にした。


「なおは長い距離を歩きなれていないのだろう?だとしたら歩きは想定よりも長い時間がかかってしまうかもしれない。俺達に残された時間は限られているんだ、少しも時間は無駄にはしたくない。俺は樽廻船が最善の策だと思う」


喜兵寿の言葉は、静かだがずっしりとした強さがある。なおとつるは「たしかに……」と頷いた。


三か月以内にビールを造り上げなければ、座敷牢に入れられる。いわば「死」を意味するこの期限は決められたもので、どうしたって動かすことができるものではない。


堺でホップを見つけるのにどれだけかかるかわからないが、未知の環境でのビール醸造を考えれば、できるだけ原材料を揃えるための時間は短縮しておきたかった。


「わかった。樽廻船で行こう!気持ち悪かったら吐けばいいわけだしな。まあどうにかなるだろ」


よっしゃ、と立ち上がったなおを横目に、つるは喜兵寿に言った。


「でも樽廻船に乗せてもらえるの?あれってお酒を運ぶための船で、人を運ぶものじゃないでしょう?」


「まあな……しかし樽廻船問屋の新川屋は古くからの馴染み。事情を話して頼み込んでみるよ」


「新川屋ねえ……」


つるが眉間に皺を寄せていると、表戸が勢いよく開いた。


「きっちゃん、新川屋はだめ!」


見れば、夏が頬をふくらませて立っている。


「だめだめ!それはだめ!」

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