第7話江戸のストーカー、麦をくれる 其ノ壱
下の町の朝は早く、日の出と共に人々は動き始める。
朝の澄んだ空気の中に上る、飯炊きの煙。
そして響きわたる豆腐売りや納豆売りなどといった物売りの声。
人々の活気は壁を抜けて伝わってくるようだったが、なおはいかんせん朝に弱かった。
ごそごそと布団を頭まで引き上げると、二度寝の体制に入る。
昨夜は結局遅くまで喜兵寿と飲み明かしてしまった。
というかお互いに飲まずにはいられなかった。
一体どれだけ飲んだのかは覚えていないが、酒は身体にたっぷりと染み込んでいて、脳みそはゆらゆらと重たい。
なおは水を飲みたい欲求と戦いながら、ゆっくりと眠りの中に沈み込んでいった。
しかしそんなまどろみをドシドシという大きな足音が破る。
「おい、なお!起きろ!朝市に行くんだろう?」
ガバっと掛け布団を剥がされる。
「ちょ……やめろよ」
光に目をしばたたかせながら見上げると、煙管を口にくわえたまま、ジトっとこちらを見下ろす喜兵寿がいた。
この男、身長がでかいだけではなく、力も強いらしい。
どうにか掛け布団を取り返そうと抵抗するも、あっけなく回収されてしまった。
「さっさと顔を洗ってこい。朝飯ついでに市を見に行くぞ」
「俺まだ酒残ってんだけど……」
「そんなもん蕎麦でも食えば治るだろ」
喜兵寿は呆れたような目でなおを睨むと、着物を放ってよこした。
「そのまま出かけたんじゃあ、目立ちすぎる。俺の着物を貸してやるから着替えな」
「お。わりいな。」
「じゃあ向こうで待ってるからな。早くしろよ」
喜兵寿が部屋を出ていくと、なおは大きくあくびをした。
そういえば昨日朝市を見に行く約束をしたような気がしないでもない。
それにしても朝市っていったって時間が早すぎないか?
時計がないからわからないが、絶対にこの眠さは早い時間だ。
絶対6時前に違いない。
6時前はまだ夜だろ……
なおは再びあくびをすると、ごろんと布団の上に横になった。
「いまさら行かないっていっても許してくれないだろうなあ」
動かなければと思いつつも、横になったことで身体が下に沈み込んでいくような気がする。
眠気がどんどんと大きくなる頭の片隅で、なおはとりあえず身支度のことを考えてみた。
水場はたしか外にあったはずだ。
共用水場だと言っていたので、この様子だともう既にたくさんの人たちがいるに違いない。
だとしたら着物に着替えるのが先か。
って、待てよ?俺、着物着たことなくないか?
そうだ、夏祭りもスウェットかジャージだった。
昔の彼女に「浴衣デートね」っていわれて、断ったらフラれたことあったっけなあ。
なおはゆっくりと目をつぶると、手に持っていた着物を顔にかけた。
無理なもんはしょうがない。
とりあえずこの布は着れないけれど、顔にかけるにはちょうどいいな。
もうちょっとだけ、もうちょっとだけ眠れば……すっきりするはz……
「おい、だから起きろっていってるだろ!」
ごうごうと響くなおのいびきを聞きつけ、喜兵寿が再び部屋に駆け込んできた。
「お前は本当に寝てるか、酒飲んでるかだな」
そういってなおの首根っこを掴む。
「びいるの材料になりそうなものがあるか、市を見に行くのだろう?」
「ちょ、やめろよ!わかってるよ、わかってるんだけどよ。着物の着方がわかんないんだから仕方ないだろ!」
隙あらば布団の中に潜っていこうとするなおを、喜兵寿は驚いた目で見た。
「お前着物が着れないのか」
「今日着物の着方を練習するからさ、朝市は明日にしようぜ」
「ならば仕方ないな」
「そうそう、仕方ない……」
喜兵寿はなおの両脇に手を入れ立たせると、ぐいっと服に手をかけた。
「ちょ、なにすんだよ!」
「仕方ない、俺が着物の着方を教えてやる」
「いやいいって!そういうのいいから!」
「いいから黙って見ていろ」
小柄ななおが抵抗するもむなしく、喜兵寿はするすると服を脱がし、着物を着つけていった。
「その髪も結った方がいいな。長すぎる」
そういって今度はなおの髪を束ねていく。
喜兵寿の手のひらはゴツゴツと大きいにも関わらず、器用さがにじみ出ているような、長くて細い指だった。
「これでよし。さ、水場で顔を洗ってこい。さっさと出発するぞ」
帯を締め、髪を結ったからだろうか。
眠気はびっくりするほどきれいに消え去り、身体の中にしゃんと芯が通ったようだった。
「おう、なんだか急に腹が減ってきた気がする。朝飯食いにいこうぜ!」
なおは喜兵寿に大きく笑いかけた。
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