(13)エピローグ
メイズラント警視庁の地下、魔法捜査課オフィス。アーネットはいつになく上機嫌だった。
「事件は解決、美味しい料理は御馳走になる、報告書は書かなくていい。そして明日は休日ときた。これ以上の完璧な週末があろうか」
温め直した紅茶さえ甘露に思える。さあ、あとは適当に片付けてオフィスを出るだけだ。
「浮かれ放題だね、アーネット」
ブルーは冷めた視線を送る。
「見てなさい、こういう時こそ予想外の不運が降りかかるものよ」
ナタリーは浮かれるアーネットの事などお構いなしに、散らばった書類、いらない紙類を手早く整理仕分けするのに忙しかった。明日はマーガレットと外出する予定である。
「どんな不運があるっていうんだ?今夜は取って置きの酒を飲むぞ」
「だんだんおっさんじみてきてない?」
ブルーのツッコミも、何とでも言えと受け流すアーネットだった。
しかし、アーネットの不運の足音は確かに近づいて来ていたのである。どちらかと言うと比喩ではなく、具体的な、文字通りの足音として。
その足音のリズムは、アーネットが人生で二度、聞き覚えがあるものだった。最初は幻聴だと思った。しかし、それは間違いなく、地下室の廊下をこちらに向かって進んで来ていた。
「あれっ?」
ブルーもその足音に気付いたようだった。
「なんか聞き覚えのあるリズムの足音が」
言ったか言わないかのタイミングで、オフィスのドアがバンと開かれた。
「ごきげんよう、魔法犯罪特別捜査課の諸君」
その威勢のいい声は、アーネットを天国の雲の上から、地獄の岩盤に叩き落とすに十分だった。
声の主は、ヘイウッド子爵グレン・ヘンフリーその人であった。何やら、いつになく庶民的というか、比較的カジュアルな装いである。お付きの中年男性も今日はいないようだった。
「何しに来た!」
アーネットはつい、心の底からの本音をぶちまけた。貴族への敬意などすでにそこにはない。
「…いえ、本日はいかがなさいましたか、子爵」
「うむ」
さっきの暴言は聞かなかった事にしてくれたらしい。
「いやなに、ワーロック伯爵より礼の電話をいただいてな。なかなかに面白い事件だったようなので、顛末を聞きに参った。秘書はもう帰したし、妻にも今日は友人と飲むと伝えてある。庶民とはそのような付き合いをするのであろう?」
一体どういう風の吹き回しだ。庶民などはなからバカにしている差別主義者のヘンフリー氏が。まさか、このまま自分達とどこかに繰り出そうというのではあるまいか。冗談ではない。こんな面倒な男と一緒にいたら、極上の酒も蒸気船が通過したあとのテレーズ川の濁流の味と変わらない。
「レッドフィールド刑事、貴官は独身であろう。ならば時間に問題はないな」
まずい。非常にまずい流れだ。
「いやあの、俺はこれから…」
すると、ナタリーはサッと立ち上がって、ヘンフリーに深々とお辞儀をした。
「子爵にはご機嫌麗しゅう。このとおり、レッドフィールド刑事は独身にございます。今夜はとくに予定もないようですし、お暇つぶしの相手には丁度よろしいかと存じます」
その時のアーネットの「裏切られた」という表情は、生涯かけても忘れる事はないほど愉快であった、とナタリーはのちに語っている。
「それでは、失礼いたします。ブルー、行きましょう」
「バイバイ、アーネットに貴族のおじさん」
ナタリーとブルーは、30代の男二名を置いて、さっさと地下室を出て行ってしまった。足音は無慈悲に遠ざかる。
「ふむ、貴官はヒマか。丁度良い。いやなに、私も庶民の在り様というものを学ばねばならぬ、と妻よりきつく言われてな。庶民の中では貴官がもっとも付き合いがある」
嘘をつくな。そんなに付き合いが長い覚えはない。
「私は、いわゆる庶民向けのパブというものに入った事がない。デイモン警部によれば、貴官は稀代の女たらしであるそうだな。酒場関係にもめっぽう詳しいとか。ぜひ、お薦めの店があれば案内せよ。女性遍歴についてもぜひ聞きたい」
ヘンフリーの顔はすでに半分笑っている。からかっているのが目に見えてわかった。ヘンフリーが苦手だという事を知っているうえで絡んできているのだ。いや、そもそもデイモン警部は何を吹き込んでいるのか。
「冗談もたいがいにしろ!何で俺があんたと飲みに行かなきゃならん」
ついに本音の本音をぶちまけたアーネットに、ヘンフリーは笑った。
「ははは!ようやく本音を見せたか。お主は権威など大嫌いな人間だと聞いておる。いや、礼儀をわきまえぬ無礼者は嫌いだが、お主とは気が合いそうでな。特別に、敬語を使わんでも許してやろう」
「そんなもの、お前にわざわざ許可してもらう必要はない!」
アーネットはコートを引っ掴むと、部屋の鍵と鞄を持って立ち上がった。
「ほら、さっさと帰れ。ここは店仕舞いだ」
「おう、私と飲みに行く気になったか」
「行かねえよ!」
戸締りをして出て行くアーネットに、ヘンフリーはしつこく絡んできた。
「鍵はどう管理しておるのだ?持ち帰っているのか」
「そんなわけないだろ。決まった所に返すんだよ」
「なるほど。鍵など自分で閉じる事はないのでな」
「鍵ひとつでこんだけ話を広げる奴もいねえよ!」
ははは、というヘンフリーの笑い声が地下の廊下に反響した。
結局その夜、アーネットはよく知っているパブにヘンフリーを連れて訪れ、今回の事件の顛末を話せる範囲で説明したり、思い出すだけで胃が痛くなる女性遍歴などを暴露させられる羽目になったのだった。翌々日、アーネットが元気な顔で地下室に出勤できたかは、魔法犯罪特別捜査課の面々だけが知っていた。
(メイズラントヤード魔法捜査課/枢機卿の秘密箱・完)
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