枢機卿の秘密箱
(1)厄介な訪問者
それまでの春の陽気は何かの間違いだったかのように、メイズラント首都リンドンは曇天に覆われていた。気温は下がり、人々はワードローブの奥に仕舞いかけた厚い外套を再び羽織って、傘をいつでも広げられるよう臨戦態勢を取りつつ、足早に歩いた。
メイズラント警察本庁、通称メイズラントヤードの重厚なビルディングは、曇天と同じ灰色の外観がその威容を倍増させていた。
その本庁ビル正門前に、一台の黒塗りの高級そうな馬車がゆっくりと停まった。馬車のみならず馬も艶やかな黒い毛並みで、由緒正しい血統を思わせ、御者もまたそこいらの辻馬車の御者とは違う気品を漂わせている。
本庁に出入りする人々は何事かと興味深げに観察しながらも、雨の方が心配でそそくさと通り過ぎるのだった。
(1)厄介な訪問者
メイズラントヤード本庁の地下は、数年前まで放置されていた旧庁舎のものである。その一室を部署設立のため急場しのぎにあてがわれたのが、魔法犯罪特別捜査課であった。いちいちそう呼ぶ人間は稀で、魔法課、魔法犯罪課、魔法特捜課などとまちまちの呼び方をされているが、いちばん多いのは「魔法捜査課」である。
その魔法捜査課は先日、下院議員ローバー氏が魔法を用いて殺害された事件を解決したのち、至って平穏な日々を過ごしていた。もう少し正確に言い換えるなら、暇を持て余していたのだった。
「なんか事件起きないかな」
警察官としては不謹慎極まる発言の主は、特例で勤務する13歳の少年刑事、通称ブルーことアドニス・ブルーウィンド巡査であった。
ブルーは退屈そうに天井を見る。地下の魔法捜査課オフィス内は、天井にはめ込まれた魔法の力で発光する石によって、煌々と照らされていた。
「退屈なら刑法の勉強でもする?」
向かいのデスクに座るブロンドをボブカット風にした巻毛の女性が、法律の分厚い本をちらつかせると、ブルーは「げー」と舌を出して拒否してみせた。
「あのね。今年中には試験受けなきゃいけないの、わかってる?警視監じきじきのお達しよ。け・い・し・か・ん」
本庁で上から二番目に偉い人物の階級を二度も繰り返され、ブルーの表情はますます重くなった。
「10歳で大学出たあんたなら何てことないでしょ?」
「そういうナタリーは何歳で刑法の試験受けたのさ」
「17歳。一発合格」
ナタリーと呼ばれた女性は、自慢気に胸を張ってみせた。
「13歳で合格すればナタリーに自慢できるぞ」
向かって左奥、壁に対して斜めに据えられたデスクに座り新聞を読んでいた、グレーのスーツの男性が新聞をポンと置いて笑いかけた。
「アーネットは何歳で受けたの?」
「18歳」
アーネットと呼ばれた長身の男性刑事がそう言うと、ナタリーは「あたしの方が早いわね」と腕組みした。
「じゃあ僕も18くらいでいいじゃん」
「お前はもうすでに、特例で11歳の頃からこの課に勤務してるんだ。この時点で普通の刑事と待遇が違うのを理解しろ」
「なんだよそれー」
「言ってみれば飛び級で試験を受けられるんだ。厚遇だぞ」
ものは言いようだね、とブルーは肩をすくめた。先の面倒事は考えない事にしよう。
そんなやり取りをしていると、地下の硬い床を鳴らして部屋に近付いてくる足音が二つあった。
「誰か来た」とブルー。
「また他の部署の応援かしら」
ナタリーは、勝手が違う他部署の応援に回るのをあまり好まなかった。その部署やチームごとに捜査のリズム感が異なるものなので、飛び入り参加は厄介なのだ。
だがアーネットは、その足音のリズムに何やらどこかで聞き覚えがあった。わりと最近、どこかで聞いた。はたと思い当たったその時足音が魔法捜査課のドアの前で止まり、
『子爵、こちらです』
『うむ』
というやり取りが聞こえた。間違いない、勘弁してくれとアーネットが嫌そうな顔を見せるのを、他の二人は何の事だろうかと眺めていた。
ノックの音がして、アーネットは「どうぞ」と声をかけた。ドアを開けたのは地味だが高価そうなコートを羽織った、白髪の多い中年の男性であった。男性は部屋には入らず、「どうぞ」ともう一人の豪奢なスーツを着た男性を部屋に案内した。男性はアーネットと同じくらいの歳按配と見え、黒々とした若干くせのある髪をショートカットにしていた。歩き方や仕草に、尊大な性格が透けて見える。
「レッドフィールド刑事、邪魔するぞ」
その尊大な人物は誰あろう、先のローバー下院議員殺人事件で情報を提供してくれた、貴族院議員ヘイウッド子爵グレン・ヘンフリー氏であった。
仕方なくアーネットは立ち上がり、頭を下げて応対することにした。
「これはヘイウッド子爵、わざわざお越し頂きまして」
言いながら、ナタリー達にも目で礼をするよう合図する。ナタリーは心得たものだったが、ブルーはピンと来ないようであった。
「ブルー、いやブルーウィンド巡査。子爵に礼をしろ」
「え?ああ、うん」
言われてようやく気付いたらしく、ブルーはお仕着せ気味に頭を下げてみせた。
「む?」
ヘンフリーは何かに気付いたようで、ブルーの方を向いた。
「いま、ブルーウィンドと言ったか」
「え?ああ、うん。僕の姓はブルーウィンドだよ」
およそ貴族への態度とは言えない受け答えに、ヘンフリーの付き人は憤慨して、
「子爵に対して失礼であるぞ!」
と諌めた。しかしヘンフリーはそれを制して、
「やめろ、メディスン。もし彼が私の知るブルーウィンドであれば、失礼を詫びねばならんのはお前の方になる」
と言った。
「なんですと?」
「後で話す。差し当たって今はこの課に用事があるのだ」
「は…」
メディスンと呼ばれた付き人は、主に言われておとなしく引き下がった。ヘンフリーがいま言った事の意味は、アーネットとナタリーも完全には理解し切れていないようであった。
「余計な話はやめにしよう。このような堅苦しい挨拶も、私は面倒で嫌いなのだ。貴官らもそうであろう」
ヘンフリーは部屋の中央にある応接用兼共用テーブルの椅子に勝手に座ると、他の三人にも座るよう促した。メディスンだけは立ったままである。
「ふむ。これが噂の魔法捜査課か。あの石は魔法で光っておるのだな。なるほど…」
部屋をぐるりと見回すと、ヘンフリーはアーネットに向き直って言った。
「きょう来たのは他でもない。レッドフィールド刑事、魔法捜査課に依頼がある」
予想できた事ではあったが、アーネットはそれでも面食らった。専門の部署に個人が直接赴いて依頼する、というのは異例の事だ。
「と言っても、依頼する本人は私ではない。私は貴官と面識があるので、話を通しやすいと思ったのだ」
つまり、ヘンフリーは話を通すためだけにわざわざ自身でここに来た、という事だ。子爵を使い走りのように扱う、依頼人とは誰だろうかとアーネット達は思った。
「依頼人は私の遠縁でもある、ワーロック伯爵デニス・オールドリッチ氏だ」
今度はさすがに、勘弁してくれという気持ちがアーネットの表情に出たようで、ヘンフリーは笑った。
「どうした。伯爵からの依頼と聞いて、怯んだか。この私に遠慮会釈なしに用件を言ってのけた、貴官らしくもない」
好き放題言ってくれる、とアーネットは思った。今度は子爵家であるヘンフリーのさらに上の階級である、伯爵家と関わる事になるとは。
「それは、どういったご依頼内容なのでしょうか」
精一杯の平静を装って、アーネットは尋ねた。
「それは、直接伯爵より聞いてくれ。いや、私は知っている。だが、外で話してはならぬと伯爵より口止めをされていてな。引き受けてくれるのであれば、馬車を手配しよう」
「お待ちください」
アーネットは少し強めに言った。
「我々はいささか特殊な部署ではありますが、あくまで公的機関の一部門です。いかに子爵のご依頼といえども、上の者から正式に命令が下らない限り、動く事はできません」
「はて?デイモン警部は、貴官は上の命令など無視して勝手に現場に出向く刑事であると言っておったぞ」
それを聞いてナタリーが吹き出した。アーネットが睨むのを無視し、咳払いして姿勢を正す。
「そ…それはあくまでも例外です。ご依頼を受けないとは申しません。ただ、一応は上の者に許可を取ってからご返事をしてもよろしいですか」
「そう来ると思い、すでに貴官の上官には話をつけておる。何なら今確認してきても良いぞ」
なんという男だ。貴族といえども、横柄にも程がある。
「アーネット、引き受けるしかなさそうだね。断ったらクビだよ。いや死刑かも」
ブルーの突っ込みにヘンフリーは笑った。
「ははは!面白い少年だ。やはりブルーウィンドの家系は枠に捉われぬか」
付き人のメディスンは面白くなさそうな顔をしていたが、ヘンフリーはブルーの自由気ままな振る舞いを全く意に介していないようであった。
「子爵、これだけは確認させてください。ここ、魔法捜査課に依頼が来るという事は」
アーネットは、わかってはいる事だが、念のために問いただした。
「うむ。魔法に関わる事件だ」
「事件ということは、何がしかの被害があったという事ですか」
「そうだ。だが先ほども言ったとおり、依頼の詳細までは口外するなと伯爵から言われている」
被害とは何だろう。
「被害は被害だが、先日のローバー議員の事件のような性質の話ではない、それは確かだ」
「死傷者が出た類ではないと?」とアーネット。
「うむ。今のところはな。伯爵が表立って警察に届けを出していないのは、表ざたにはできない理由があるからだ。そして魔法が絡んでいる以上、他の課はもちろん、町の名探偵にもどうにもならん」
話が曖昧すぎて、ここで子爵と話していても埒が明かない、と三人は思った。
「わかりました。魔法捜査課は、ワーロック伯爵邸に赴いて相談者の話を聞きます」
「そう言ってくれると助かる」
話はまとまり、ヘンフリーが手配する馬車で、依頼人であるというワーロック伯爵邸に魔法捜査課は出向く事になったのであった。
その後、ヘンフリーは魔法捜査課についてあれこれと質問を浴びせてきた。これまで起きた事件はおおむね知っているようで、捜査した本人たちが忘れかけていたような話まで事細かに説明してみせた。どうやら、魔法というものに興味を持っているらしい。人種や民族などの問題について、やや偏狭な思考を持っている点は引っかかるが、ブルーにとってはこれほど魔法に理解を示してくれる人間は貴重だった。
ヘンフリーが長い雑談を終えて魔法捜査課を立ち去ったのち、アーネットとナタリーはブルーの前に仁王立ちして目を見据えた。
「何さ」
「刑法の前に勉強しないといけない事がある」
アーネットとナタリーは、ブルーの両親よろしく目を見合わせて頷いた。
「ワーロック伯爵邸に行く前に、目上の人間に対する礼儀をきちんと身に付けさせてあげる」
「いいよ!面倒くさい」
「良くないの!!」
そこから数時間、ヘンフリーの手配した馬車が到着するまで、主にナタリーによる徹底的な礼儀作法の指導がなされ、ブルーは地獄のような思いで正しい振る舞いを急場に身に付けさせられたのであった。
メイズラントヤードを辞したヘンフリーに、メディスンは馬車の中で質問した。
「子爵、さきほど申されました、かの少年についてですが…」
「ああ。彼の姓はブルーウィンドと言っておったな。その名が何を意味するか、知っておるか」
ヘンフリーは真面目な顔でたずねた。
「いえ、寡聞にして…」
見当もつかないメディスンにヘンフリーは、流れる馬車の外の風景を見ながら答えた。
「彼は、古い古い…それはとてつもなく古い、ある家系の末裔だ、とだけ言っておこう」
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