第5話
あれから二日が経った。
その間、特にこれといって何かあったわけじゃなく、ただただいつも通りの日常が流れていった。
「失礼しました」
今日はまた、よりにもよって一限に体育があった。だから私はこうして保健室から出てきているわけで、気分はやっぱり憂鬱だった。
ちなみにこの前のレポートを提出してひゃっはーしていたら再びレポートを授かった。なんてありがてえんだろう、ちくしょうめ。
「はぁ」
保健室の扉を閉めた直後、小さく溜息が出てしまった。それは意識なんてまったくせずに出てしまっていたから、心の芯のほうが相当参っているのだろう。思わず、胸元に抱えた筆箱をきりきりと握り込んでしまっていた。
まあ多分、こんなにも心がささくれ出っているのは、教室を出て保健室に向かう時、まだ教室に残っていた女子の数人が発した言葉が耳に入ってしまったからだろう。
ズルい。
きっと勘違いなんかじゃないだろう。視線は私を向いていたし、近くを通る時に目も合ったから、私が気にし過ぎているってわけじゃないと思う。あれは確実に私への
ズルい、かあ。
ほんと、笑っちゃうな。私からすればあなたたちのほうがよっぽどズルいんだけどなあ。自分たちがどれだけ恵まれているのかわかっていらっしゃらないようだ。
こんなポジション、欲しければいつでも譲ってあげるのに。ああほんと、譲れるなら譲ってしまいたい。こんな人生なんて。
私の心は雨模様。というより土砂降りかな。窓の外に見える空も同じように雨模様で、廊下は暗く少し肌寒い。建物を打つ雨音が、どこか寂しく胸を叩く。五月とはいっても雨の日はちょっと寒さがある。
ぶるりと身震い一つで意を決し、今日も今日とて頼まれた沙耶のジュースを食堂に買いに行く。ちなみに所望されたのは当然『レモン一〇〇』。どうしてあれなのと問うと、「あの子じゃないと駄目なの」と熱を入れて返された。あれはもう病気だ。
食堂に着くと、当然誰もいない。まだ授業中なのだから当たり前だけれど、きっと見知らぬ誰かだろうとここに居てくれたほうがこの気分は晴れただろう。
自販機でいつもどおり沙耶のジュースを買い、食堂を後にする。
さて、いつもと同じように人目を避けて帰るとしよう。教室内からそそがれる視線はちくちくと棘があって辛いから、出来る限り見つかりたくない。
可能な限り足音を忍ばせて、廊下を往く。
そういえば今日は雨だから男女ともに体育館で授業を受けているはず。そうなると遠回りのルートは体育館の近くを掠めるから、もしかしたら体育終わりの沙耶に出くわすかもしれない。
「さーちゃんに会いたいな」
沙耶と一緒に馬鹿な話をすればきっとこの気分も晴れるはず。嫌なことなんて頭のどこかにいってしまうはず。今までそうだったんだから、きっと今度だってそうなるから。
少しだけ軽くなった足取りで、体育館のほうへと向かっていく。
そして丁度、体育館近くの廊下に差し掛かったところだった。
思わず、ぴたりと足が止まる。
その区画の中間あたりに、彼がいた。
あの、サボりで、親切で、カッコつけで、ちょっと抜けたところもある、彼が、いた。
どうやら彼は窓の外の景色を眺めているらしい。鞄を肩にかけているから、もしかしたら遅刻したのだろうか。なんて不真面目な。
その横顔が立ち止まっているこちらに気付き、胡乱な動きで私を正面に捉えた。
「サボり?」
「いや、あなたが言うか」
思わずツッコんでしまった。
いやほんと、開口一番何を言うかと思えばそれか。いったいどの口が言ってるんだか。自分を見てみろ、自分を。どっちがサボりかなんて一目瞭然というものだ。誰が見てもサボりはあなただ。
憤慨しながら、ちょっと強めに否定する。
「私は授業の帰り。そう言うあなたは遅刻でしょ?」
「おー、正解。寝過ごしちゃった」
あはは、と軽く言ってくれるが、その目元は本当に寝不足でくぼんで見える。もしかしてほとんど寝てないんじゃないか。そんなので体調は大丈夫なのか。見ていて心配になる。
何だかイラついてしまって、意識せずに語気がやや強くなる。
「夜更かしはほどほどにしないと倒れるよ」
「んー、遊んでたわけじゃないんだけどな。バイトのあと勉強してたら零時回ってたっていうか。それからしばらく寝付けなくてさ」
「バイト、遅くまでしてるの?」
「ギリギリまでな。平日週五」
補導される寸前までアルバイト。それから帰宅して勉強なりなんなりをしていると。
そんな生活、いくら高校生っていう若い身分でも、身体がもたないだろう。事実、彼はこうして疲労困憊といった具合に仕上がりつつある。このままではどちらも立ち行かなくなって共倒れだ。
何をしているんだろう、この人は。何で、そんなことをしてしまうんだろう。
昔を思い出す。
共に横たわるあの子たちを。
この手に確かにあった温もりを。
笑い合ったその日々を。
信じ、従い、耐え、苦しみ、いつか終わりが来ると待ち続けたあの時間。
ねぇ、最良の結末を迎えられたのはその内の何人なの。
あの苦しみは報われたの。
頑張った意味はあった?
誰か、褒めてくれるのかな。
失われたあの温もりはどこに行ったの。
私たちの人生に、意味は――。
「……駄目だよ」
「うん?」
私が小さく否定すると、聴こえづらかったのか、彼が訊き返して来る。
ああ、嫌だな。こういうのは性分じゃない。そんな性格じゃないんだ。なのに、どうして。どうして私はこんなに息を吸い込んでいるの。どうして拳を握り込んでいるの。どうして腹の底に怒りが渦巻いているの。どうして俯きそうになっていた顔が、跳ね上がって彼の瞳を見据えているの。眦が吊り上がっているのが自分でもわかる。
私はどうしてこんなに憤っているのだろう。
こんなただの、赤の他人のために。
「そんな生活、しちゃダメだって言ってるのっ。そんなんじゃ、身体壊すから!」
「うえ? あ、ああ、そうだな」
「本当にわかってるっ? 壊れてからじゃ遅いんだよ⁉ あとから後悔しても遅いの。そうなる前に止めないと。失くしてからじゃ手遅れなんだから! もう戻らないんだよ!」
どうしてだろう。怒ってもいいのに、怒鳴り返してもいいのに、彼は悲しそうな顔をする。
「せっかく健康な身体なんだから! ちゃんと生きなきゃダメでしょ!」
捲し立てて、肩で息をする。
こんなに大声を出したのはいつぶりだろう。心臓がバクバクと狂ったように跳ね回って、胃はきりきりと締め上げてくるし、喉は久々に大声を出した弊害で酷く痛む。
腹が立ったんだ。
私が求めても、どれだけ焦がれても手に入らないものを当たり前に持っているくせに、それを取るに足らないもののように投げ捨てようとするその所業が。
悲しかったんだ。
少しだけ沙耶に近しいものを感じていた彼が、自分自身を平気で蔑ろにしている現実と、それを良からぬことだと認識していない事実が、胸を刺すように苦しく思えた。
息を整えようと黙り込んでいると、じっとこちらを見詰めていた彼が、ふと目を伏せて、そしてやがてそっと視線を上げた。
「ごめん」
謝って、続ける。
「確かに無理してた。バイト、減らしてもらうよ」
「えっと」
すごく神妙な雰囲気で言ってくるものだから、頭に上っていた血が降りて冷静になりつつある私はちょっと困惑だ。
「わ、私こそごめんね? 友達でもないのに偉そうなこと言って。そ、そもそもバイトそんなにしてるの、家庭の事情とか? だったり? もしそうだったなら私こそごめんなさいなんだけどなー……?」
おっかなびっくりお伺いを立ててみると、彼は少しだけ破顔して頭を振った。
「いや、そういうんじゃないんだ。……うん、違う」
「じゃあなんで?」
「なんでだろうな」
その
ああ、言いたくないんだろうな。きっとそこに、彼の踏み込まれたくないものがあるんだろう。なら、私は踏み込むべきじゃない。
私にだって踏み込まれたくない場所はある。ならこちらもそれを尊重しよう。
「えー、重ね重ねになりますが、今回は大変失礼な態度をですね、ええ」
「なんでそこまで遜るんだよ」
私が謝罪半分、おふざけ半分で言うと、彼は眉根を寄せた笑みを益々困ったようにして、でもちょっとだけ楽しそうに笑んでいた。
「けど女の子に怒鳴られたのは小学校以来だなー」
「そんな小さい時から女の子泣かせてたの?」
「ニュアンスが違う!」
男女のアレ的な意味で言ったのだが、どうやら彼はこちらの意図をばっちり汲み取ったようだ。ちぃ、残念。アンブッシュで楽しもうと思ったのにな。
「ほら! ちょっとした喧嘩というかさ。年相応のもの! よくあるだろっ? 君が想像してるような生々しいものじゃないから!」
「ちょっと! 生々しいってのは語弊ない⁉ それじゃ私がエロみたいじゃん! やめてよ人聞きの悪い!」
「事実だろ! このエロ!」
唸るような勢いで互いに睨み合う。
なんて失敬なやつだろう。うら若き乙女に向かってエロ呼ばわりとは、言語道断だ。もう謝罪の念は消えて失せた。この春瀬心美、容赦せん。
さあなんと言い負かしてやろうか。
「なにしてんの?」
ふと、彼のではないそんな声が聴こえてきて、私の決意と怒りは呆気なく霧散して、露と消えた。
ああ、しまったそうだった。体育館の近くで騒いでいたら、そりゃあ出くわすに決まってるよね。
錆び付いたような動きで声の主に目を向けると、そこには我が親友・
どうやら沙耶が睨み付けているのは私一割、彼九割といったところで、その刺々しい視線の大部分を受け止めている彼はたじろぎ、一歩引いた。
「い、いや、別になにも」
と彼は焦って雑に誤魔化しにかかったが、それは悪手。
こんな状況の場合、何を言っても理解されないし誤魔化せない。唯一の状況脱却の手段は逃走一択だが、これは後の社会的地位の
彼の言葉を受けて、沙耶の上がっていた眉がさらに吊り上がった。風切り音も勢いを増す。
あー、怖い。本当に怖くて見ていられない。そろそろ助けてあげたほうがいいかな。沙耶が本気で彼のことを敵認定しちゃいそうだ。彼も直視できないのか、目が泳ぎっぱなし。
「あのね、沙耶」
呼び掛けると、ぎろりとこちらに視線が向く。
あ、やだ、怖い。心折れそう。
言葉に詰まってプルプル震えていると、彼が決死の視線を向けてくる。
なになに、「もっと頑張れ」? ちょっとちょっと、頑張りたくても怖いものは怖いんだよ。いっそ見捨てて蹲ってこの嵐を遣り過ごしたい、もうやだ。
でも駄目だよね。私がなんとかしないと血の雨が降りそうだし。
ごくりと唾を飲み込んで、決意を一つ。ようやく喉から声を絞り出す。
「あのね、彼は御覧の通り変な人だし、悪者だし、失礼だし、サボり魔だし、ビビりだけど」
「何一つフォローになってねえよ」
彼の文句を「うっさい」と遮って続ける。
「一応ね、その……ト、……トモダチ、なんだ」
「トモダチ?」
「絞り出したような友達をありがとう。グッバイ、マイフレンド」
怪訝そうに首を傾げ、ますます高鳴る風切り音を前に、彼はこの世と私に別れを告げた。
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