第4話


 それからとどこおり無く授業は終わり、下校の時刻となった。


 大体のみんなはこれから部活動に勤しむのだろう。けど私は部活に所属していないからここからは完全に自由時間だ。

 といっても、唯一の友達である朔耶は今日はテニス部があるし、かといって街に繰り出して一人ぶらり旅するほどの気力もない。


 かくしてインドア女子な私はこうして家に直帰して肩を撫で下ろしているのだった。いや、本当に今日は色々あって疲れた。心はかなりげっそりしている。炭酸飲料でも飲めばCMのように「かぁ~っ」と言ってしまいそうだ。


 現在の時刻は十六時二〇分を回った頃。二階にある自室は丁度やや傾きつつある日が窓から差し込んできていて、レースカーテンの隙間からほんのり暗くなった外の様子が伺える。


「そろそろ帰って来るかな」


 だとすれば、さっさと着替えてしまわないと。

 鞄を机の上に置くと、制服の上着を脱いでハンガーを通し、そのまま流れで着替えてしまおうと首元のリボンを取ってブラウスを脱ぎ去り、スカートを脱いで仕舞い、Tシャツとショーパンを身に纏う。人目を気にする必要のない家の中はこういう格好で居られて気楽でいい。仕上げに、今まで自由にさせておいた長い髪を首の後ろでシュシュで緩く固定。これで完璧。


 と、着替え終わったタイミングで階段を駆け上がってくる足音が聴こえた。その足音は実に軽快で、誰が上がってきたのか瞭然だった。

 溜息一つにドアを開け、丁度踊り場まで辿り着いた犯人に向けて言う。


「こらっ、達哉! 危ないから走るなって言ってるでしょ!」


 すると件の人物はぎょっとして、


「わっ、出たっ」

「出たって何よ!」


 人をまるで怪物みたいに言うな。失礼なガキんちょめ。

 いかにも走って帰ってきましたと言わんばかりに髪がぼさぼさな少年。礼儀の成ってないこの子は私の弟の春瀬達哉はるせたつやだ。御覧の通り、小学四年になったというのにちっとも落ち着きってものが身に付かない。私がこの子ぐらいの頃はもっと分別ってものがあったよ、まったく。……なんだろうこれ、すごく年寄り臭いな。考えるのを止めよう。


 達哉は「へぇーへぇー」と掠れ気味に肩で息をしている。どうやら全力疾走で帰ってきたようだ。何がこの子をそこまで駆り立てたのか知らないが、元気なのはまあ良いことだ。


「転んで頭打ったらどうすんの。それ以上馬鹿になったらお姉ちゃん知らないよ」

「えー、転ばないから大丈夫だって」

「駄ー目。家の中で走らない! いいね」

「はーい」


 特に不満げにするでもなく、かといって従順とも言えない、つまりは適当な声音で返事をした達哉は、そのまま自室のドアを開けて姿を消した、


「姉ちゃん腹減ったー」


 と思いきや、開けっ放しのドアからそんな嘆きが聴こえてくるものだから苦笑が零れてしまう。やっぱりガキだこいつは。本当にまったく。

 何かこの子の腹を満たせる物はあっただろうかと思案するが、家はお菓子類はあまり備蓄しない質だからスナック系のものはないし、パン系に至っても食パンを食べさせると明日の朝食の献立に支障を来すだろう。となれば、


「じゃあホットケーキ作ってあげる。代わりにあんたは洗濯物取り込んで」


 達哉の部屋のドア枠に右手で持たれながら言うと、床にランドセルを置いて中身を引っ張り出そうとしていた達哉が今度こそ不満げな顔で振り返る。


「えー」

「じゃああんたがホットケーキ作るー? 焦がさずに出来るかなー?」

「やだー。無理ー。洗濯物ー」

「よし、オッケー。それじゃさっさとするのよ」


 言って、のそのそと勉強道具を学習机に広げ始めた達哉をそのままに、私は一階のリビングに向かう。

 小学生とはいえ、達哉は体格には恵まれたようで学年でも背は高いほうだ。それゆえ洗濯物を取り込むことに難儀することは最初はともあれ、最近はめっきりなくなった。それは紛れもなく弟の成長だから姉としては嬉しいんだけれど、もうちょっと勉学のほうにも成長を見せてほしいと思うのは姉の我儘だろうか。いや、ほんと成績酷くてお姉ちゃん将来が心配だよ。


 ともあれ、洗濯物の取り込みを代わってもらえるのは正直助かる。あれは意外と重たくて、負担がかかって嫌な感じがするんだ。


「よし、作るか」


 半袖だから捲る袖がないけれど、気分は袖捲り。


 棚からホットケーキミックスを取り出して、冷蔵庫からは卵一個と牛乳パック。牛乳は必要量約二〇〇mlをカップで測ってパックは冷蔵庫に返却。ボウルを引っ張り出して計量器の上に乗せ、零点リセット。数字が零になったらミックス粉を必要分だけ測り、そこに卵と牛乳を加えて泡立て器で混ぜ過ぎない程度に攪拌する。


 ホットケーキミックスの良いところは、ある程度雑に作業してもそれなりの出来になることもだし、なにより最初から味が決まっていることだろう。お菓子作りにおいて面倒というか大変なところである『見た目の出来』と『味の仕上がり』を心配しなくていいのは、こういう小腹が空いた時だとか、うちの弟のようなガキんちょを早急に黙らせないといけない時には大いに助かる。本当に神。神はここにいた。


 出来上がったねっとりとした生地を温めておいたフライパンにお玉で一掬いして一枚分入れて、蓋をして待つ。すると良い香りがし始めたので蓋を外し、フライ返しで裏返して今度は蓋をせずに片面を焼く。


 二枚目を焼き始めたところで丁度達哉が、洗濯物の山を抱えた状態でリビングの南側の桟から姿を現し、フロアマットの上にどさりと荷物を落とす。「できたー?」と訊いてくるものだから「まだー」と返すと、達哉は何も言わずにソファに腰掛け、テレビを付けて何やら見始めた。


 三枚目を焼いている間、さっと洗い物を済ませながらリビングのテレビへ視線をやる。

 映っているのは恐らく戦隊物だろうか。どうやらこれが見たくて急いで帰ってきたようだ。

 私は普段戦隊物なんて観ない上、丁度怪人が暴れ出したシーンが映っていたものだから「公的機関は何やってんだ」とか思ってしまったが、きっと彼らには止むに止まれぬ事情があるんだろう。避難誘導とかね。


 そうしていると最後の一枚が焼き上がったようで、三人分のホットケーキが出来上がった。厚さもそこそこあるし、何より焼き上がりは焦げ無しかつ薄茶色で美しい。これは結構うまく作れたんじゃないだろうか。

 達哉と私で一枚ずつ。一枚目に焼いた分をお母さんに置いておこう。皿に取り分け、お母さんの分だけは粗熱が取れたあとラップを掛けておくことにする。


「達哉ー、できたよ」

「やった」


 ぐっ、と小さくガッツポーズをして、達哉は駆けるように自分の席へ着いた。走るなと言うとろうに。呆れて肩を竦めながら、達哉の前にホットケーキの乗った皿をフォークと共に置いてあげる。


「なに塗る?」

「マーガリン」

「オッケー」


 注文を訊いて、冷蔵庫から件の品を取り出して渡す。うちで使っているマーガリンはバター風味のものだ。これ美味しいんだよね。気を付けないとつい塗り過ぎちゃう。

 席に着いて待っていると、達哉がホットケーキからマーガリンが滴るくらい塗りたくったのが見えて、やるなこいつと感嘆しつつ、渡してきたマーガリンのパックを受け取る。


 私が塗る量は控えめだ。これから夕食も食べなければならないのだし、ここで迂闊にカロリーを摂取するわけにはいかない。そもそもおやつを食べなければいいのにだって? そういうのは論外ってやつだ。


 マーガリンを塗ったホットケーキを切り分け、一切れ刺して口に運ぶ。うん、美味しい。安定の味だ。ほんのり甘い生地にバター風味のマーガリンの塩味とほのかな甘みが混ざって食欲をそそられる。

 達哉に負けず劣らずお腹が空いていたのか、私もパクパクと食べ進めて達哉とほぼ同じタイミングで食べ終わってしまった。


「達哉、お皿」

「うん」


 食べ終わった皿とフォークを受け取って、自分の分と合わせてさっさと洗ってしまう。

 洗い物をしつつ達哉をちらりと見やると、席に着いたままその視線はテレビの戦隊物へと向いていた。


「ねー、達哉ー」

「なにー?」

「学校楽しい?」

「楽しいよー」

「そう」


 何気なく訊いただけだったが、間髪入れずに返事が返ってきてちょっぴり安堵する。

 こういう質問の仕方の場合、学校生活のどこかに引っ掛かりを覚えている人間はどうしても一瞬ばかり反応に躊躇いが出る。達哉にそういう兆候はないから、この子は本当に学校生活を楽しんでいるんだろう。

 なんでそんなことわかるかって? 私がそうだからだよ。もし「学校生活たのちい?」なんて誰かに訊かれようものなら、足がガクガクと震えてどもりまくる自信がある。学校生活? ノンノン。ありゃー収容所みたいなもんよ。適応できなきゃ社会的な死しかない。


「なんでそんなこと訊くの?」

「なんとなくね」


 達哉が不思議そうにしているが、本当になんとなく訊いただけなんだ。特にこれといって訊かなきゃいけない理由とかは無かったわけで。


「嘘だねー」

「は?」


 ちょっと得意げな声色で、そんな言葉が飛んできたものだから、洗剤の泡を流していた手元がふと止まる。視線を手元から達哉に向けると、奴め、ちょびっと得意げに笑みを浮かべている。

 可愛いけどムカつくなぁ、うちの弟。仕方ない。乗っかってやるか。

 流し終えた皿を水切りに乗せ、手を拭きながら、


「その心は?」

「うん?」

「あー、『どうしてそう思ったんですか?』ってね」

「おー」


 説明に納得したようで、うんうんと頷いている。やったね、達哉。また一つ賢くなったよ。どうかこのままテストの点数五〇点代からせめて七〇代にまで上げようね。

 と、そんなことを考えていると、達哉がぴしゃり。


「今日なにか良いことあったんでしょ?」

「なんでよ」


 いや、本当になんでなんだ。どうしてそうなる。科学的で理論的な因果関係がそこにあるのか。立証可能な理論があるって言うのか。

 疑問で眉間に皺を寄せていると、達哉がしたり顔で告げる。


「姉ちゃん、良いことあったらいっつも僕にそれ訊いてくるからねー」

「……嘘やん」


 そんな馬鹿なこと、あるわけがない。自分に良いことがあったからって『きょうおとうとにもいいことあったかなぁー』なんてお花畑な思考を私がしているわけがない。私は現実主義者リアリストなんだ。悲観主義者ペシミストなんだ。脳内お花畑なパンピーでは断じてないんだ。

 そんな脳内否定会議も空しく、達哉は事実を陳列してくる。


「前に訊いてきた時は、沙耶ちゃんにケーキ奢ってもらった時ー。その前はー、沙耶ちゃんと同じクラスになれた時ー。そんでその前はー、沙耶ちゃんと同じ高校に受かった時ー」

沙耶塗まみれ過ぎる」


 自分の交友関係の狭さに検めて慄く。というか私、沙耶関連の話題で一喜一憂し過ぎではないだろうか。あの子、カンフル剤か何か? 強壮効果ある?

 思わず頭を抱える。


 指摘されてみれば、確かにそんなタイミングで達哉に訊いた覚えがある。

 でも仕方ないじゃないか。自分の気持ちが落ち込んでいる時に、周りの人に『やあ、ハッピーかい?』なんて訊く気になるだろうか。答えはノーだ。絶対訊かない。むしろ周りを呪う。私と同じところまで落ちろと願いたてまつる。


 そういう質問を他者にする時は、きまって自分の気分が高揚している時に限られるものだ。まるで幸せの御裾分けをするかのように、自分以外の人にも良いことがあったのなら良いのになと優しい気持ちになっている、ある種の躁状態。ザ、お花畑。きゃっきゃうふふ。


「でも今回は違うよ」

「えー?」


 私が強く否定すると、達哉はまたまた御冗談をとでも言いたげに眉根を寄せていた。


「だって今日は沙耶関連で良いことは特になかったからね」


 どや顔で言い放ち、腰に手を当て胸を張る。

 そう、今日は別に沙耶にケーキを奢ってもらったこともないし、同じクラスになれた喜びはとうに消化し終えているし、同じ高校に受かった事実は新たな三年間の苦悩の始まりに塗り変わった。むしろ今日はジュース代を回収し忘れているから一五〇円損している。

 これで私の皺塗れの脳がハッピーを感じるわけがない。私は不幸には敏感だぞ。


 自信に満ち溢れた私の出で立ちを見て、達哉は何を思ったのか溜息を吐いてテレビへ視線を戻す。


「姉ちゃんって時々バカになるよね」

「ば、馬鹿⁉」


 馬鹿な弟に唐突な馬鹿呼ばわりされて胸に突き刺さる悲痛を覚える。何だっていうんだ。今の答えのどこに馬鹿要素があるっていうんだ。


 ショックのあまり、自分の席に座ってぽけーっと時間を浪費する。


 それっきり興味を無くしたのか、達哉は戦隊物が終わるのを見届けると、「宿題してくるー」と言ってそそくさと自分の部屋へと退散していった。

 部屋を出ていく弟の後ろ姿を見送り、時計を見やるや五時を回ったところ。


「お母さん、今日は遅いんだっけ」


 確か、今日は仕事が長引きそうだから先に食べておいてと言われていた。

 当然、達哉はまだ料理は出来ないから必然私が作ることになる。そのことに特に不満はないし、文句もない。持ちつ持たれつ、困った時はお互い様。それが家族ならば尚更というもの。


 まだ夕飯を作るには少し早いし、洗濯物を先に畳んでしまって、そのあと体育のレポートを進めてしまおう。そして頃合いを見て夕飯を作り、風呂を沸かして達哉を叩き込んだあと私も入って、お母さんを出迎えて今日は御終い。


 思考を纏めて立ち上がり、洗濯物を畳もうとソファの近くに座り込む。

 そしてふと、窓の外の暮れなずむ夕焼けに思いを馳せる。


 私は今日、それだけ嬉しかったんだな。


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