第二章「運命って便利な言葉だよね」
第3話
つむじ風が、私たちの間を吹き荒ぶ。さながらそれは、ススキが揺れる平原で、背に
ごめん、嘘。
現実逃避をしようとしたが、できなかった。実際のところはお互い間抜け面で視線を交わしている。
私は今にも死にそうなくらい暗い顔でジュースのパック二つと筆箱アンド資料を抱えて立ち尽くしているし、例の呑気親切男子に至っては中庭にある生垣の端に腰掛けてジュース片手に顔を苦悶に歪めている。
いったいなんなんだこの状況は。誰かの悪戯か、気まぐれか。神様ファッキュー、
親友・
「あんた、さっきの」
と、まるで年老いたかのように掠れた声を男子は絞り出した。そんなに酸っぱかったのだろうか。まるで生まれたての小鹿のように身体が震えている。面白い。今にも命が尽きそうで心配だ。今死なれたら私のせいになりそうで困る。
頑張れ生きろ。そなたは
「う、うん。さっきぶり?」
「なんで疑問形?」
「えっと、また会うとは思わなくて」
「あー、それはそうだな。しかもなんで今……」
じろりと視線が自身の手元のレモンジュースへと向いた。その怒りは女子にみっともないところを見られた恥ずかしさだろうか。なんと哀れな。でも安心してほしい。あなたがどれだけ醜態を晒しても私には関係ないのだから。
「酸っぱかった?」
「酸っぱかった」
興味本位で聞くと、案外素直に彼は頷いた。
「これを買うやつの気が知れねえよ。なんだよこれ。ほんとに果汁三パーなのか? 嘘だろ。もっと入ってるって。こんなの自販機に置くなよ」
言われてるよ、沙耶。正気を疑うレベルで馬鹿にされてる。
と、そこで男子の視線が私の胸元に行って、そこに抱えているジュース二本、正確には今男子を苦しめているジュース『レモン一〇〇』の姿を捉えた。
「なんで買ってんだよ」
「あ」
男子の顔が驚愕と恐怖で染まり上がる。いや、
これは早々に弁解しないと怪物の仲間入りだ。
「あのね、これ、ほんとは友達に頼まれてたものだったんだ」
「友達?」
「うん、そう。だからね、おかしいのは私じゃなくて、その友達のほうなの。そっちだけなの。そこだけは本当に誤解しないでほしい」
「ほんとに友達かよ……」
ドン引きされていた。なんで。これだけ必死に自己弁護してるのに。意味が分からない。
内心憤慨していると、ふと男子が何かに気付いたように表情を失くし、慄くように口元を片手でそっと覆った。
「なあ、それならさ」
「なに?」
私が促してもやや言い淀んで、それでも意を決したのか口を開く。
「もしかして俺、さっき余計なことした?」
「さっき?」
さっきと言われて思い起こすのは、食堂でこの男子が私のレモンジュースを親切心で交換して、颯爽と去っていったこと。
たぶんカッコつけて、颯爽と去っていったこと。
「ふふっ」
「あーっ」
堪え切れなくて笑みを零すと、男子は羞恥の悲鳴を上げて頭を抱えた。
悲鳴と言っても理性が残っているのか、授業に配慮した声量だった。私だったら構わず悲鳴を上げているだろうに、彼は無駄に強いハートを持っている。羨ましい。
でもさすがに可哀そうだし、フォローするとしよう。
「でも、親切心でそうしてくれたんでしょ? ありがとね」
まあ、嬉しくなかったといえば噓になる。
いや、本当に嘘になる。正直言えばかなり嬉しかった。これまで生きてきた中でも、これから生きていく中でも、きっとああいうシチュエーションに出会えるのは二度とないだろう。それだけは断言できる。あのイベントはある種の確変だったのだ。次はない。
本当に私にとって貴重な経験ができたから、そう自分を卑下しないでほしい。
私の気遣いの言葉を受けてかどうかはわからないが、男子は胸の内を吐き出すかのように深い溜息を吐いて、ガシガシと頭を掻いて顔を上げた。
「ったく、うまくいかないもんだなー」
「人への親切が?」
「そうだよ。自分では良いことしたと思ったんだけどな」
「良いことには違いないでしょ? ちょっと空回っちゃったけど」
「うるせえ」
「酸っぱ……っ」
「ふふっ、何してんの」
ほんと、いったい何をしているんだろう、彼は。動揺してるにしたって自爆はないだろう。
本当に、馬鹿だなあ。
身体を震わせながら、口元を
その理由はなんとなくわかる。
彼は沙耶と同じで、人が当たり前に発している害意が薄いのだ。無言で黙り込んでいる時は怖かったけれど、話してみるとそれがよくわかった。
少しだけ、気分がマシになったよ。
唐突に二限の終業を告げるチャイムが鳴った。校舎のほうが少しだけ騒がしくなって、生徒たちが動き出しのがわかる。もうそんな時間になっていたのか。
きっと沙耶は待ち草臥れてる。早く帰ってあげないと。
「じゃ、私帰るね」
「ん、ああ」
去り際にひらりと手を振ろうとして、両手が塞がっていることに気付く。身じろぎを誤魔化すように笑みを浮かべると、彼も釣られて笑みを浮かべた。
そして、背を向けて歩き出そうとした時。
「なあ」
「うん?」
声を掛けられて背後を振り向く。最初に比べて彼への態度が急速に軟化しているなと、自分で自分に呆れるものだ。
けれど振り返ると、彼はこちらに目も顔も向けておらず、少し遠くを見つめていた。
その眼が見つめているものが何なのかわからなかったけれど、だからといってここを立ち去っていいとは思えなかった。
そんな彼が躊躇うようにしながらも、口を開いた。
「何かあったなら、ちゃんと誰かに相談しろよ」
「なにかって?」
「それは知らないしわかんねえけど。でもあんた、さっきひでえ顔してたからさ」
また勘違いだったら笑えよ、と彼は誤魔化すように頭を掻いた。
ああ、こんな他人にまで露骨に心配されるほど私は酷い顔をしていたのか。反省しないと。こんなことじゃ沙耶にはすぐ気付かれてしまうじゃないか。それだけは駄目だ。沙耶に背負わせるような話じゃないんだから。
意識して、口元に笑みを浮かべる。
「それって私の顔の造形の話? ひどいなー。女子の顔を馬鹿にするなんて学年中で嫌われるよ?」
あなたは心配しなくていいんだよ。
「でも大丈夫。私、友達少ないからさ、言いふらしたりできないんだ。ま、武士の情けでこの件はこの胸に閉まっておくよ」
嘘じゃない。沙耶以外に親しい人なんていないんだから。
「だから安心して」
だから、もうここでいい。これ以上踏み込んで来ないで。
「ん、わかった。悪かったな、変なこと言って」
その返事は、たっぷり五秒ほど沈黙を貫いて、それから視線を一瞬すら交わさず、無機質な声色で発された。明らかに納得していないし、言葉と裏腹に謝るつもりなど欠片もない。
でもそれで構わない。どうせもう関わることもないのだから。これで、終わりで問題ないだろう。
「気にしないで。それじゃ」
「ああ」
親切な彼を突き放すようなことをして罪悪感が胸を刺した。自分の臆病さと醜さに心底嫌気がさす気分だ。
だけどどうしようもないんだ。私はこういう人間なんだ。こうでしか居られない人間なんだ。これ以外に在り方を知らないんだ。
振り返って「ごめんね」と言いたいけれど、きっと何も伝わらないし、彼を困らせるだけだろう。ならば口を噤んで、ただ目を伏せよう。
いつもと同じように、気持ちを閉ざすだけだ。辛いことがあったなら、心のその部分を地べたに投げ捨てればいい。そうすればほら、また前を向けるから。
絆されれば弱くなる。弱くなればもう歩けなくなる。一度立ち止まってしまったら、私はもう歩けない。蹲って、死を待つしかなくなってしまう。
だから、歩き続けなければ。
弱さに向き合いたくないから、現実を見たくないから、私は立ち止まりたくないんだ。
名前も知らない親切な男子くん、本当にごめんね。変な女だと詰ってくれて構わない。なんなら恨んでくれたってかまわない。
ただ、見ず知らずのあなたが心配してくれたという事実だけは確かに救いになったから、どうかそのことだけはこの胸にしまわせてほしい。
私は勝手でわがままで、救いようのない臆病者だから、強がることしかできないんだ。
◆
教室に帰ると、体育組はもうほとんど帰ってきていて、沙耶はもちろんご立腹だった。
「おっそーい! どこで油売ってた、この不良娘。このこのっ」
敢えて
「悪かったってば。……食堂が混んでて」
「この時間に食堂が混むわけないじゃん」
馬鹿なの? みたいな視線を向けられて青筋を浮かべそうになった。
ええ、ええ、ごもっとも。自分でももっとうまい言い訳があるだろうと思ったよ。二限の休み時間に食堂が混むわけないものね。でもちょっと、さっきのことがあってうまく頭が回らないんだ。
「自販機が混んでたの」
「心美はちっと早く授業終わるでしょ。混むわけないじゃん」
馬鹿なの? みたいな視線再び。そろそろ殴ろうかな。
「今日は終わるのが遅かったの」
「ふーん」
そういうことにしといてやろう、みたいな疑いの視線を向けてくる。
まったくいったい何を勘繰っているのやら。
別にたまたま行き逢った親切呑気サボり男子くんのことを話すことに不都合はないし、最初はその気だった。だけどさっきの別れ際、こちらを案じてきた彼を突き放してしまったのがどうにも心に引っ掛かっていて、それゆえ話題に出すのが憚られたのだ。いったいどの面下げてと自分の中の一部が拒否反応を示している。
ああ、止めよう。これを考えていると顔に出て沙耶に気付かれそうだ。
「はい」
押し込むようにレモンジュースを沙耶の眼前に差し出して、この話題と追及を遮る。
沙耶はこちらの意図がわからないほど馬鹿じゃない。ジュースを受け取って肩を竦めると、不満そうな視線をこちらに向けつつ黙ってストローを刺して中身を吸い上げ始めた。
それを見て、自分の分のジュースもあったことを思い出す。
ストローの袋を破って取り出し、それを刺して液体を吸い上げる。
非常に甘い。ジュースの銘は『ピーチ一〇〇』。ちょっと甘すぎるし、正直趣味ではないけれど、たまにはこういうのもいいかと自分を納得させて飲み続ける。
ふと感じた視線に目を向けると、沙耶がストローから口を離してじっとこちらを見ていた。
その
「なに?」
すると、沙耶はまるで名探偵かのように思案顔になり、やがて重苦しく口を開いた。
「心美はジュースを飲まない」
「飲むわ」
そんな生態は存在しない。ジュースだって嗜むし、甘いものは大好きだ。デマを流布するのはご遠慮願いたい。
しかし沙耶は止まらない。
「失敬、語弊があった。普段、心美は自販機においてカフェオレを愛飲している。ジュースに浮気するのはよほど気が向いた時しかないはず。なのに、今日はいったいどうして……」
「そういう気分なの」
なんなんだこの迷探偵は。人の趣味趣向に難癖付けるだけなら出るとこ出るぞ。
「加えて最近お腹の肉が気になると容疑者はごちていたし、甘いジュースをわざわざ自分で買うとはとても」
「やっぱり探偵から始末すべきよね」
「なんの話?」
「邪魔者を消す順番」
「怖っ」
言って、沙耶は自分のジュースをズゴゴゴゴっと飲み干した。なんて行儀が悪い。呆れて物も言えないと、私も自分のジュースを飲み干そうとストローを咥える。
「でもさー」
「んー?」
ストローを咥えたまま、返事をする。
「なにかはあったでしょ」
「なんで?」
口を離して訊くと、沙耶はじっと私の顔を見た後、ふっと小さく破顔した。
「だってさ、今までずっとココは体育の後、いつも死んじゃいそうな顔してたもん。なのに今日はちょっと表情明るかったからさ、何か良いことあったんだろうなー、って。そう思ったんだ」
「……ふーん」
ちょっとだけ、泣きそうになった。
沙耶はいつもそんな風に心配してくれていたんだろうか。というか自分はいつもそんな表情をしていたのか。自分では無表情を保っているつもりだったのだが、実は失敗していたのだろうか。
ぺたりと自分の頬に右手を添える。
死んでしまいそうな表情か。でもね、沙耶。それはきっと違うんだ。きっと私は。
「あっ、チャイム」
沙耶が言うように、三限の開始チャイムが鳴っていた。彼女は慌てた様子で去りながら、
「今度でいいから教えてよね、何があったか」
言って、ゴミ箱にジュースのパックを「ていっ」と器用に投げ捨てて、自分の席に戻っていった。
いつか、か。
でもね、沙耶。本当に大したことじゃないの。
ただちょっと怖いなって思って。
ただちょっと何なのこの人ってなって。
ただちょっと親切にされただけの、たったそれだけだから。
授業中にジュースのパックが机の上にあるのはまずいだろうか。そう思って、机の側面に引っ掛けていた鞄の中を整理して安定させると、そこにそっとパックを置いて仕舞い込んだ。次の休み時間に飲み切るとしよう。
まったく自分でも呆れてしまう。ジュースごときいつでも買えるのだからそこまで大切にする必要なんてないのに。
でもどうしてか、このジュースを無下に扱うのは駄目だと、そう思ってしまったんだ。
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