第2話

 私が体育の時間に保健室に居る理由。それは決してサボりではなく、補習授業のためだ。

 といっても、入学してからのたった一カ月の間で補修が必要なほど体育を欠席したわけではなく、これは単に、体育を受けられないからその補填として受けなければならない座学だというだけで。


「春瀬さん、いらっしゃい」

「こんにちは、先生」


 待ってくれていた保健の先生にあいさつを返して、私は席に着いた。丁度ベルが鳴ったことで、そのまま授業が始まった。


 座学の内容は、簡単な保体の内容を資料を交えつつ聞いて、その講義範囲をレポートとして後日提出するというもの。レポートとしては少量だし、単に資料の内容を簡潔に纏めるだけで済むから比較的楽な授業。運動場や体育館で汗水垂らすよりかはよっぽど楽。

 でも、その代償として私の保体の点数はどれだけ頑張ろうと三以上にはならない。それ以下にはなっても、これより上にはいけないのだ。

 まあ、実技を伴っていないのだから当然だ。仕方のないことである。赤点にならないだけ十分だと思わなければ。


 とは言っても気分は憂鬱だ。保健の先生もそれには気付いているはず。だって私の体育の授業は「こうなる」と説明された時、私はきっと酷い表情をしていただろうし。こうして私のために本来ない業務に時間を割かなければならなくなっていることは申し訳ないが、この気持ちだけはうまくコントロールできなくて、表情もそれに引っ張られている。

 ただ、先生はこちらの事情を知っている分、特に何も言わないでいてくれているんだろう。


 いつもなら授業は真面目に受けるのだけど、どうしてもこの時間だけは苦痛だった。先生には悪いけれど、全く集中できていない。講義の内容は右耳から左耳に抜けていっていることだろう。だって内容が全然頭に残っていない。

 これは後で資料ちゃんと読み返さないと、文字数指定は少ないとはいえレポートの作成に苦労しそうだ。


 ああ、ほんと、世界なんて滅べばいいのにな。


 ますます憂鬱な気分になって右耳に掛かっていた髪の毛を少し雑にすくい上げた時、保健室の扉が静かに開いた。視線がそちらへ自然と引かれていく。

 そこには、やや身長高めな短髪の男子が居た。眠そうなまなじりを左手で擦り、欠伸を嚙み殺すかのように口元を戦慄わななかせている。


「失礼します」


 欠伸を堪えつつだからだろうか。やや浮付いた声色で言うと、重い足取りでこちらへと近づいてくる。彼はその足取りの途中、掛けた髪の引っ掛けが浅かったのか、それがさらりと頬へ流れ落ちた私と目が合った。

 知らない男子だ。いや、むしろ私が知っている男子なんて数える程どころかほぼ皆無なのだけど、それでもクラスでは見かけたことのない男子だ。間違いなく別学年か別クラスだろう。


 目が合ったがそれきりでふいっと逸らされ、そのまま男子は先生の前まで歩を進めた。


「あら、授業中にどうしたの」


 先生が訊くと、男子はとうとう我慢が出来なくなったのか、口元を手で隠して大きな欠伸を一回。やがてすっきりしたのか、眠そうな目のまま、


「眠いんで寝ていいですか。先生には保健室に行く許可は貰いました」

「そう。ならいいわよ」

「うす」


 保健の先生から許可を貰うと、男子はベッドのほうへと歩を進めようとして、またしても私と目が合ってその歩みが止まった。


 なんだ。何か私に文句でもあるのか。

 私がもっと度胸のある人間だったなら歯を剝き出しにして威嚇の一つでもかましたのだろうが、残念ながら私は臆病でか弱い生き物だ。必死に目を泳がせてこちらに敵対の意志はないことを相手に悟ってもらう作戦に出る。ワタシ、コワイイキモノジャナイネ。白旗がこの手に無い事が口惜しい。これでは全面降伏の意思表示ができないじゃないか。


 一人で内心あたふたしていると、男子はこちらに興味を失ったのかベッドのほうへと進み始めた。まあ、時間にして二秒ほどもなかったから目が合った瞬間に私が高速で視線を逸らしたかたちなのだが、まさかここでの授業中に同年代に遭遇するとは思わなかったため、酷くテンパってしまった。なんとも情けない。


 男子はそのままベッドの周りにあるカーテンを引っ張って周囲の視線を遮ると、もぞもぞとシーツが擦れる音がして、それから少しして寝息が聞こえ始めた。寝付くのが凄まじく早い。よっぽど眠かったらしい。


「これで三回目ねえ。さすがに問題かしら」


 保健の先生がぼやくのが聴こえて、へえなかなかやるなあ、と感嘆を抱く。


 恐らくこの「三回目」というのはこの一カ月という短期間での三回目ということだろう。であるならなかなか剛毅なものだ。普通は危機感を覚えて生活を正すものだが、あの男子はそれをせずこれまでと変わらない生活を送っているということになる。実に短慮。救い難い。

 これでは内申や成績に影響が出兼ねないというのに呑気に寝息をたてているのが哀れに思えてくる。

 本当に、呑気で。


「馬鹿な人ですね」

「こら」


 つい口を突いて出た嫌味に、先生の叱責が飛ぶ。でも、申し訳なくは思わなかった。

 だって、ちょっと羨ましかったんだ。

 誰にも縛られず、決まり事に砂を引っ掛けて、自由に振る舞う。

 別にルールを大きく破ったわけじゃなく、ほんの少しだけ背いただけ。ちょっとだけ惰眠を貪るために、授業を抜け出したってだけ。悪いと言えば悪いけど、そうそう目くじらを立てるほどいけないことじゃない。罪にすれば可愛らしいもの。


 でも、たったそれだけでも、それだけだとしても。

 自分が欲しいもののために行動に移せるというのは、私にとってはとても眩しい精神性で。そうなりたいと思っても私にはきっと無理だとわかっているから。

 無いもの強請りだということが私にだってわかっているから、だから、妬ましくて仕方なかったんだ。

 自分が持っていないものっていうのは、ひどく輝いて見えるものなんだよ。



 ◆



 やがて授業は終わり、次の体育の授業までに今日のレポートを纏めるように先生から告げられた。課題としてはかなり緩いが、今の時代に手書きというのが曲者だ。どうしても清書に時間が取られる。が、何にしてもやらなければならないのだから、どうせなら今日中に終わらせてしまおう。どのみち次の体育の授業は数日中にあるから早めに済ませないといけない。


「失礼しました」


 荷物を持った私はそう言って保健室の外へ出た。

時間はまだ二限の終業十五分前。廊下は静まり返っている。


 そう言えば沙耶にジュースを頼まれていたことを思い出す。体育館の近くにも自販機はあるが、沙耶が気に入っているレモンのジュースは食堂の自販機にしかない。だから彼女はわざわざこちらに依頼してきたのだ。

 なんでも運動の後はあの酸っぱさが良いらしい。私にはよくわからない感覚だ。

 わざと買ってくるのを忘れて沙耶をがっかりさせるのも楽しいが、それはあまりにも性格が悪いだろう。


 足は自然と食堂へと向いていた。


 授業中に廊下を歩くのはなぜか悪いことをしている気分になってしまう。不思議だ。

目的地に着くと、そこは廊下と違って静謐ではなく、厨房からの調理の音が控えめながら聴こえてきていた。おまけに自販機の低い駆動音が鳴り続けていて、なぜかそれに安心を覚える。


「えっと……これだっけ」


 硬貨を入れ終えて指差し確認。『レモン一〇〇』。製品名確認完了。ボタンを押す。

 重い音がして、飲料パックが落ちてきたことがわかる。屈んで取り出すと、お目当てのものに相違なかった。


 ふとパッケージの左下を見る。果汁三パーセントの表記。少ない。レモンジュースなのに九七パーセントはレモンじゃない。いったい他に何が入ってるって言うんだ。水か、水なのか。そもそも製品名の一〇〇ってなんなんだ。いったい何を指して一〇〇なんだ。

 沙耶、こんなやつのどこが良いの。もっといい人きっといるよ?


 むむむ、とパッケージと睨み合っていると、視界の端に人影と気配。

 はたとそちらを見やると、そこには先程保健室で惰眠を貪っていた呑気な男子が立っていた。

 どうやら目を覚まして飲み物を買いに来たらしく、私と鉢合わせしたらしい。

 今日は厄日かな、と内心げんなりしていると、男子がぽりぽりと頭を掻きながら、


「間違えたのか?」


 と、訊いてきた。


「え?」


 思わぬ問い、加えて話しかけられるとは思っていなかったから危うく声が上擦るところだった。なんなら悲鳴を上げるところだった。我慢できた自分を褒めてあげたい。

 私が答えにきゅうしていると、男子が私の手元を指差しながら、


「だから間違えて買ったのかって聞いてんの。睨み付けてるからさ」

「あー」


 なるほど、得心がいった。

 彼は私が難しい顔をしながらパッケージを睨み付けていたことから、私がうっかりボタンを押し間違えて嘆いていたと思ったのだろう。

 ううん、ちょっと待って。私そこまで間抜けじゃない。ボタン押し間違えるほど耄碌もうろくしてない。


 ぐぬぬ、とどう弁明したものかと逡巡していると、私が悩んでいる間に彼はすっと歩み寄って自販機の前に止まると、硬貨たちを突っ込んでラインナップを視線で一嘗めする。そしてさっと一つ、飲料パックを買い終えた。

 そしてパックを取り出すと、傍で様子を伺っていた私へそれを差し出してきた。


 見れば、そのパッケージには『ピーチ一〇〇』と書かれている。また一〇〇か、一〇〇なのか。いったいなにが一〇〇なんだ。


「ん」

「えっと」


 突然のことに迷っていると、彼はひょいっとこちらの『レモン一〇〇』を摘まみ上げ、代わりに『ピーチ一〇〇』を滑り込ませてくる。

 違う、そうじゃない。別に同じ『一〇〇シリーズ』だから買い間違えたってわけじゃない。


「じゃあな」

「あ、ちょっと」


 彼はそれだけ済ますと、レモンジュースを持って食堂を去ってしまった、入口兼出口に消えていく背に、何か言わなければと思ったが口が動かず、結局そのまま見送ることしかできなかった。きっと沙耶ならナイスな言葉を投げるんだろうな。一昨日来やがれとか。


 この手に残ったのは『ピーチ一〇〇』。沙耶が望んだのは『レモン一〇〇』。買い間違えたと言い張ってこれを沙耶に呑ませるのもいいとは思うが、名も知らない呑気男子に交換して貰った手前、これを沙耶に飲ませるのはちょっと違うとも思う。

 となると、すべきことは一つ。


「売り上げに貢献してやるかー」


 ポケットから小銭入れを取り出して、必要分だけそこから摘まみ出すと、自販機の小銭投入口にシュート。そして沙耶が愛して止まないレモン飲料のボタンを押した。

 再び重たい音がして、飲料パックが落ちてくる。それをさっさと拾い上げると、食堂の壁掛け時計で時刻を確認。

 授業の終了時刻まであと十分くらいだ。そろそろ体育組も着替えるのが早い子たちは帰って来る頃だろう。沙耶もどちらかと言えば着替えるのが早いほうで、中学校の頃もさっさと着替えては、教室で鎮座して暇そうな私にちょっかいを掛けに来たものだ。

 思い出して、くすりと笑えた。そのまま教室へ向けて歩き出す。


 そうだ、丁度いい。沙耶と一緒にジュースを飲みながら、この一連の流れを話すとしよう。

 保健室で授業を受けていたらサボりの男子がやってきて、そしたらその男子と食堂でまたバッタリ会ってしまった、と。そいつが意外と親切だったりしたこととかも、しようがないから武士の情けで語り口に加えるとしよう。

 きっともう会うこともないだろうから、ちょっとくらいなら酒のつまみ、もとい、ジュースのお供的な扱いをしてもバチは当たらないだろう。

 だって、私だってこれでもいちおう年若い高校生なんだ。一つや二つくらいふわふわした中身のない会話を友達としたって誰も咎めやしないし気にもしない。それが普通で、何もおかしいことじゃないんだから。


 最短ルートを通って教室に戻ろうとすると、廊下側の窓の空いている教室の前を通らなければいけない。それを思うと奇異の視線に晒されるのではと嫌な気分になったから、仕方なく遠回りのルートを通って帰ることにする。

 私の小さいハートは不安やプレッシャーにとても弱いんだ。君子、危うきに近寄らずというもの。辛いことや苦しいことからは全力で逃げ続ける所存だ。


「……」


 少しだけ傍を見上げた視線が、廊下の窓辺のガラスを越え、その先にある突き抜けるような青空を捉えた。

 綺麗だ。

 澄み渡った美しく、底のない青。どこまでも続く果てのないその様は、多くの人々がそれを海に例えた理由がよくわかる。もし生まれ変わるなら鳥が良いな。きっと自由で楽しい。

 昔から、空を見上げていると不思議と心が落ち着いた。たとえいつか自分がどこかで立ち止まってしまう時が来たとしても、空を見上げればもう一度歩き出せるとそう思えた。


 そう、それはきっと、いつだって駆け回っていたかつての自分を思い出せるから。


 私の心はずっとあの頃に囚われているんだろう。もう取り返しはつかないのに、あの頃に戻れたりはしないのに。「いつか、いつかきっと」と、あの頃の自分にいつか戻れるという根拠のまるでない確信と願いを胸の中心で燻らせて生き永らえている。


 でも仕方ないんだ。

 だってそうでしょう。

 生きるには理由が必要なんだ。

 頑張るには理由が必要なんだ。

 捨て去るには理由が必要なんだ。

 持たざる者がそれらを成すためには、普通の人よりももっと大きな理由が、大きな気持ちが必要なんだ。


 だから私は前に進めない。進み方がわからない。自力で答えを得る力を私はとうの昔に失ってしまった。そして、誰にもその力を取り戻させてもらえなかった。

 ねえ、私はいったいどうすればいいの?


 この嘆きにいつか答えは出るのだろうか。あるいは、誰か答えをくれるのだろうか。それとも死ぬまでこの疑問を抱えて生きていかなければならないの。


「馬鹿みたい」


 小さな自嘲が口を突く。

 一人でいると悪いことばかりを考えてしまう。これは良くない癖だ。きっと今の私の顔は他人様にはお見せできない酷いものになっているだろう。周りに誰も居なくて本当に良かった。特に沙耶にこんな顔を見せたら、きっと心配させてしまう。

 これ以上あの子に迷惑を掛けたくない。ただでさえ昔から世話を掛けてきたのだから。


 胸の中がモヤモヤする。ああ、駄目だ。こうなったら頭で考えるだけじゃもうどうしようもない。

 少し気分を変えよう。

 中庭に出て新鮮な空気でも吸おう。そうすれば少しは気分が晴れるはず。



~~~~



 この時、教室への道をわざわざ逸れて中庭に向かったのがそもそもの始まりで、決定的な選択だったのだと後に私は懐古する。


 だってそうなんだ。


 ここで、レモンジュースの酸っぱさで「うぇっ」と顔を顰めた彼と、暗いにもほどがあるってくらい意気消沈した表情の私がばったりと再会することが、私たちの時間の始まり。


 お互いに気付いて視線が交差した時、互いに動きが止まって、気まずい空気が流れたっけ。


 じっと見つめ合っていたっていうのに、ロマンチックさの欠片もない酷い光景。だって互いが互いにドン引きしてたんだよ? もし神様がいるのなら、もっと運命的な出会いにしてほしかった。ううん、巡り逢いって意味では確かに運命的ではあるんだけどね。「ちょっとおたく演出力足りてなくない? 何年神様やってんの」ってね。

 だけど、きっと世の中そんなものだよね。


 まだ春の陽気の名残を抱えた風が吹き抜ける五月の空。緑葉が勢いを増し、萌芽が新たな季節の到来を予感させる移り気な季節。


 先の死に囚われた私と、過ぎた死に囚われた彼。そして時々我らが偉大な親友殿。


 お互いが、お互いに、前へ進む勇気を手渡すための、大切な時間たち。


 明けないと思っていた夜を終わらせてくれた、大切な人。


 そう。私たちの季節は、ここから始まったんだ。

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