第一章「運命だなんて聞こえがいいけれど」

第1話

「もっとおしゃれしなー」


 私の髪を後ろから弄りながら、首にタオルを掛けた沙耶は不満そうに言った。

 朝練帰りゆえだろうか。格好はユニフォームから制服に戻っているが、運動後である証拠のように石鹸系の制汗剤の香りが鼻孔を擽る。


「いいの。誰かに見せるわけでもないし」


 その手から髪を逃がすように身をよじるが、意外と束にして掴まれているからか、その魔の手から逃れることができない。むしろなぜそっと触れるのではなく、折り目がつかない程度にぐっと握っているのだろうか。怖い。


「でもさー、せっかく綺麗にしてるのに勿体ないよ」

「そこはこだわりだからね」


 事実、髪の手入れには力を入れている。

 シャンプーとトリートメントは低刺激の物だし、タオルは毛羽立ってないか確認するし、柔らかい製品を選んでいる。それで髪を拭く時は当然そっと吸水させているし、ドライヤーで乾かすときは優しくくし入れし、乾かし過ぎず、かつ熱気が一点に集中しすぎないように気を配っている。艶が足りないようなら控えめにヘアアイロンをかけてケアしているし、枝毛がないか定期的にチェック。

 そこに余念はない。言った通りこだわりなのである。


 このこだわりに特に立派な理由があったわけではないが、幼少期に雑誌の表紙で見たアイドルかもしくはモデルさんの髪がとても艶があって綺麗だったから、だからオシャレをできるようになれたのならこうしたいと、そう思っただけだ。

 そう、ただの憧れだ。


「そう言わずに。これを武器にして男でも引っ掛けなー」

「興味ないから」

「なんでさー」

「なんでも」


 そういうのは面倒そうだ。想像だけでもげんなりするのだから、きっと私はそういうことに向いていないのだろう。たとえオスの捕獲に成功しても破局まっしぐらである。そんなの願い下げだ。飼い犬に噛まれたらショックで生きていけない。私のメンタルはとても弱いのだ。

 そもそもよく知りもしない相手と親密になるなんて、怖いことだ。みんな良く精力的に友達や恋人といった関係性を拡張していくものだと思う。少々戦慄を覚える。


 だってそうじゃない。相手の胸の内にどんなものが潜んでいるかわからないのに、どうして臆さずに飛び込んでいけるの。どうして平気な顔で相手のパーソナルスペースに踏み込んでいけるの。

 迷惑を掛けたらって、心配にならないの?


「クールだなあ。それとも暗いだけ?」

「暗いだけ」


 肩越しに覗き込みながら、茶化す様に沙耶が言うものだから、私もお道化どけてそう返す。


「じゃあさ、せめて休みの日みたいに色々髪型試しなよ」

「めんどいからパス」

「ちぇー、枯れてんねー」


 にべもなく切り捨てると、沙耶は不満そうに口をへの字に曲げた。


「そう言う沙耶こそ、男引っ掛けたら?」


 沙耶の髪だって、運動をするからって長さは肩までに留めているけれど、手入れは欠かさずしているようだし、その色は教員に注意を受けない程度に明るくオシャレにしている。性格の暗い私よりもよっぽど男受けするだろう。


「うへー、無ー理ー。まだそういうお年頃じゃなーいー」

「じゃあいつなのよ」

「そのうちねー」


 まったく興味なさげに受け流すと、沙耶は肩を竦めた。

 感触に満足したのか、沙耶は満足げな笑みを浮かべて髪から手を離すと、ぐしぐしっと私の頭を軽く撫ぜた。せっかく整えた髪が乱れるから是非とも止めてほしい。


「ちょっとっ」

「お子様なココへの罰!」

「さーちゃん!」


 悪戯に笑って、沙耶は自分の席へと颯爽と戻っていく。スカートであることを気にせず、風のように駆けるその悪戯坊主いたずらぼうずのような動きに、本当に彼女はうら若き乙女なのかと疑問に思う。実はガワだけ少女で中身はガキ大将だったりしないだろうか。

 いや、それはないか。他の人の前ではお調子者として振舞うことはあっても、あそこまでふざけることはない。そもそも入学してからのこの一カ月で彼女はクラス内でムードメーカーとして通っているし、「あいつ、良いよな」系の話が聴こえてくることもままあるのだ。なのに他の人の前でああいう真似をしているとは考えづらい。


 そう、ああいう態度を取るのは、私相手にだけ。


「……」


 ああ、嫌な感情だ。みにくい優越感だ。酷くじっとりとしている。心底不快だ。恥を知るべき。この人生の中で、ほんの少しだけ恵まれたものにこれだけすがりりつこうとするなんて。

 こんなものは捨てなければと、頭に手をやる。乱された髪を直すのと合わせるように、くしゃりと顔が歪むのがわかった。


 沙耶の席は教室の前側の二列目で、私の席は最後列。どうやら始業の時間が近付いていたようで、他のクラスメイトたちもぞろぞろと自分の席へと帰ってきている。


「まったくもう」


 小さく毒づいて、時間割に思いを馳せる。

 今日は二時限目に体育がある。

 とってもとっても、憂鬱だ。



 ◆



「心美、一人で寂しくない? お母さん一緒じゃなくて大丈夫?」

「誰がお母さん。いいから早く行きなよ。他の人待ってるよ」


 呆れたように嘆息すると、私の机の前で沙耶はうーんと唸って難しそうな顔をする。


「これが反抗期ね」

「はやく行け、馬鹿」


 筆箱を持って沙耶のお腹を軽く突くと、おおよそ乙女が出すべきじゃない呻き声とともに身体が九の字に曲がった。周りの席にまだ残っていた人たちが何事と目をやるが、またか、といった感じで目を逸らしていく。もはやクラスの風物詩だ。なんて不名誉な。

 ごほっと咳をして、沙耶は不服そうに口元を拭う。


「わかったって。ねー、心美。そっち終わったらさ、ジュース買っといてよ」

「いつもの?」

「いつもの」

「りょーかい」

「あざ。お金は後でね」


 軽い礼とともににかっと笑うと、沙耶は教室の前の扉のほうで待っていた他のクラスメイト数人に合流して、そのまま談笑しながら更衣室へと去っていった。

 沙耶だけでなく、この教室には他の女子も、男子ももう残っていない。ここに残っているのは、別行動をとらざるを得ない私一人だけ。


 この状況に特段孤独を覚えるわけじゃないし、不満があるわけでもない。そんな段階はもうとうに過ぎ去ったし、もう、どうでもよくなった。もう、諦めてしまった。


 自分一人だけ授業に参加しない様子を奇異の目で見られることも、それを説明する時の相手の無理解の視線も、ズルいだのなんだのとこっちの気持ちを知りもしないで好き勝手囁ささやく陰口も、もう慣れてしまった。


 たまに親友と笑い、たまに親友と遊び、たまに親友とふざける。

 それだけで満足できる。それだけでもう十分だ。十分なのだから。

 だから、我慢できる。どれだけ不条理でも、我慢してみせる。


 静まり返った教室の空気は、どうしてか、肌を刺す様に痛々しかった。隣の教室から聞こえてくる談笑の声が、いやに遠く聴こえる。


 憎い。


 そう思うのは悪いことだろうか。

 きっと普通の人からしたら不合理なのだろう。酷い言い掛かりなのだろう。何の恨みがあってそんなことを宣うのかと、詰りたくなるだろう。そんなのはただの逆恨みだと、もっともな事実を突き付けられることだろう。


 でも、そう思わずには居られないんだ。

 どうして私なんだと、どうして私だけなんだと、そう言いたくなってしまうんだ。

 いつから寂しいという気持ちが周囲への憎しみに変わってしまったのか、私にももうわからないんだ。誰にこの気持ちをぶつけたらいいのかわからないんだ。

 この気持ちは、きっと誰にも理解されない。理解してもらえない。

 きっと、沙耶にだって、無理だ。


「嫌な奴だなー、私」


 自嘲は虚空に呑まれて、誰の耳に届くこともなく消えていく。

 少しだけ気分がましになった私は、掴んだままだった筆箱をそのままに、保健室へと向かった。


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