第30話 俺、案の定、迷子になり、そしてユリアーネと出会う。
ツアーのレクリエーションは、まだ残っているらしい。
だが、始まるまでには、結構な時間があるということなので、女のガイドに散策を勧められた俺は、昼食を取ってから、周辺を見て回ることにしていた。
「調子に乗って、また迷子にならないでくださいね」
2人のもとを離れる俺の背中に、ドロシーが声をかけて来る。
「ちょっと! 前回のは不可抗力でしょう? それに、いくら俺だって、1日に何度も道に迷ったりなんかしないよ。子供じゃないんだから」
俺の返事に、ドロシーがジト目で応じる。
人並みの注意力があれば、
森の中を、ゆったりとした足取りで俺は歩いていく。
人の輪から離れてしまえば、時折、思い出したように吹いて来る風が、木々を打ち鳴らすだけで、あとは驚くくらいに静かだった。鳥の鳴き声さえも、遠くからしか響いて来ない。
「……」
時間にして、15分ほど経っただろうか。
いくら女からのお誘いとはいえ、根本的に大自然に興味のない俺では、森に対する関心も長くは続かない。視界に広がる茶色と緑色の景色も、細かく見ていけば目まぐるしい変動があるのだが、大本となる基本的な基調が変わらないせいで、どうしたってすぐに見飽きてしまう。
……そろそろ戻るか。
そう思って、足を反対側へと向けようにも、周囲の風景が同じなせいで、後ろを振り返ってみても、自分がどちらから来たのかが分からなかった。
「ふむ。慌てるな、俺」
落ち着いて
このままでは、集合場所がどこだか分からないが、そちらについても心配はいらない。ドロシーの現在地を目指して進んでいけばいい。ドロシーはほかの参加者と
やはり俺のスキルは便利だなと、女神から与えられた能力に、感心しながら歩いていたのだが、どれだけ足を動かしてみても、一向にドロシーに巡りあわなかった。それどころか、近づいている気配さえしないのだ。
「ふ、ふむ。あ、慌てるな。俺」
こんなことも想定内――なわけがない。
どうしていいか全く分からない、泣きそうだ。
……
迷ったんだが? マジで? 俺、
これはもうどうにもならんと覚悟を抱いて、俺は明後日の方向へと、進むことを決意する。ドロシーのもとに戻れずとも、逆の方角に向かってずっと歩けば、そのうち森から出られるだろうという、大変思慮に富んだ極めて
鼻歌混じりに足を動かしていると、やがて俺の前には神殿が顔を出していた。
かなり古い神殿だ。
いたるところが朽ち果てていて、外壁にも無数の蔓が這うように伸びている。
「……」
綺麗かと問われれば、さすがに汚いとしか答えられないが、それでも荘厳な雰囲気を漂わせていることは、紛れもない事実だ。
接近。
神殿に寄っていって見てみれば、古代の遺物なのか、まだ目にしたことのない不思議な文様が、外壁にいくつも描かれている。それらが絵なのではなく、旧時代の文字なのだったとしても、この世界の字を知らない俺には、どのみち読むことができない。
手触りは堅固。
石なのか岩なのか判然としないが、鉱物でできていることは間違いないようで、触ると冷たさを覚える。心なしか粉っぽいような気がするのは、掃除もされずに長い年月を放置されたことで、砂埃をかぶっているからなのだろう。
神殿を眺めながら、その周りをぐるりと歩く。
どうやら俺は表とは反対側にいたようで、180度回れば、そちらに神殿の入り口が見えた。
それと同時に、入り口付近にいた女の存在にも、俺は気がつく。こんなところに人がいるのかと思いはしたが、彼女の悩ましげに佇む姿に、どきりとしてしまった俺は、思わず、そばに生えていた木の陰に隠れていた。
そのまま何をしているのかと、彼女の様子を窺っていれば、ふいに相手のほうから声がかかる。
「そこにいる人。出て来なよ」
俺が隠れている場所には、一度として彼女は視線を向けていない。
一瞬、俺以外にも誰かいるのかと思ったが、そうではないだろうと思いなおして、俺は前に進んで姿を現した。
「ごめん……ちょっと出ていくタイミングを逃しちゃって」
「それは別にいいんだけど。何か用なの?」
中空へと手を伸ばしたまま、彼女は俺のほうを見ずに応える。
「いや、用事ってほどのことじゃないんだけどさ。いったい、君が何をしているのかなって思って……」
「ユリアーネが? 妖精の話を聞いていたの」
そこで初めて、彼女の視線が俺と重なった。
……妖精。
あいにくと、霊感とか、
ひょっとすると、異世界にいる今ならば、俺にも不思議な存在が、見えるのではないかと思ったのだが、どうにもそう単純な話でもないようで、妖精の姿はまるで拝めなかった。そんなふうに俺が明後日のほうを向いていたから、目の前の彼女にも、俺が妖精を見ることのできない人種だと伝わったようで、呆れたように、また自分の腕を中空へと伸ばしていた。
それとも、俺が彼女の話を、妖精のことを信じていないと思ったのだろうか?
それは誤解だ。
この世界に、妖精と呼ばれる幻想的な何かが実在していることは、以前、デリック商会のガスからも教えられている。日時はほら、ドロシーの父ブライアンを助けるために奔走したときだ。
……言われたのは、火の妖精が病気を引き起こす、という話だったような。
症状の名前を覚えていることに、あまり自信はなかったのだが、とりあえず、彼女との会話を続けたくて、俺は口を開いていた。
「それじゃあ、
「……できない」
「そっか。いや、聞いてみただけなんだ」
妖精と話すことのできる彼女にさえ、治すことができないならば、やはり病気の治療にあっては、
「なんだ、そういうこと? できるよ。てっきり、誰かを治してくれっていうお願いなのかと思った」
「うん……。うん? ごめん、どういうこと?」
できるのにしちゃダメってこと?
「治したくないの。だって、あれはお金持ちの人の病気じゃ
「……なるほど」
さっきから気にはなっていたのだが、やはりユリアーネというのは、この子の名前なのだろう。ちょうどいいので、俺もこのときに自分の名前を彼女に伝えた。
言われてみれば、ガスからも、貧乏人は
お金持ちが自然を大切にしないのかどうかは、いまひとつ分からなかったのだが、地球でも環境を破壊していたのは企業側――つまり、裕福なほうの人間だった気がするので、たぶん本当の話なんだろう。世界がどれだけ異なっても、そこに住まう人間の本質というのは、そうそう変わらない。
「ユリアーネは自然が好きなんだね」
ちらりと、彼女が俺のことを一瞥する。
いきなり、名前で呼ぶのはまずかったかと思ったのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。
「どう……かな。妖精の瞳は、ユリアーネが生まれたときからの体質だから、そんなこと、考えたこともなかったよ」
あとで調べて分かったことだが、妖精は特別な人間しか見ることのできない存在で、これを見るために必要な目のことを、妖精の瞳と呼ぶのだそうだ。
俺の発言に首を捻っていたユリアーネが、神殿の入り口に向かって歩き始める。
何も言わずに移動したので、てっきり、ついていってもいいものだと思って、俺はユリアーネの背中を追っていた。
近寄って来た俺に気がついたユリアーネが、少しだけ驚いたような声を発する。
「……なんだ、ついて来たの」
「えっ、うん。ごめん、ダメだった?」
慌てて、俺はその場で立ち止まるが、彼女は首を横に振っていた。
「……。いや、もういいと思うよ。ただし、2つだけ守ってね」
このとき、どうしてユリアーネが、「もういい」なんていう言い方をしたのか、俺はかなりあとになるまで理由が分からなかった。それを今ここで説明するのは、
ユリアーネの提示した約束というのは、神殿を決して修繕しようとせずに、このまま朽ち果てるのに任せるというのが1つ。そしてもう1つが、神殿の中にいる人物に無関心でいることだった。
その人の邪魔をすることは当然アウトだし、逆に、支援しようとするのもいけないという、割かし不思議なルールだ。
でも、ユリアーネが言うなら、俺も深くは気にしない。
「分かった。決まり事は守るよ」
俺が了承すると、彼女は再び歩きだした。
ユリアーネの話では、20年に渡って、妖精使いになるための修業をしている人間が、この神殿の内部にいるらしい。ソーニャの言っていた、神隠しに
……事件や事故に巻きこまれたわけじゃなくて、自発的なものだったのか。
その点だけは吉報かもしれない。ソーニャが内情を知らないということは、一度も森の中から出ていないのだろうか。
入り口を進んで正面。
ちょうど反対側に置かれてある祭壇を無視して、ユリアーネは
そのまま祭壇の横を通って、裏側にある中庭に到着。
ここにも用事はないらしく、庭を横切ったユリアーネは、一番奥の壁際まで足を運んでいた。
一見すると、なんの変哲もない場所だ。
だが、地面のタイルに積もってしまった土埃を払えば、そこに地下へと続く扉が目に入る。
「少し待ってね」
「う、うん」
扉に手をあてて、ユリアーネが開けようと試みている。
それとなく、俺は
神殿の勝手を知っていたところで、1人では持ちあげられないだろうと、俺はユリアーネに声をかける。
「全然、手伝うよ?」
「ううん、大丈夫。……お願い」
ユリアーネが言葉を紡いだ直後、扉が独りでに開き始め、その入り口を俺たちに向けて露わにしていた。
……あぁ、これが妖精使いか。
頭では分かっていたつもりだったが、こうして目の前で、超自然の現象をまざまざと見せつけられれば、いくら俺が馬鹿でも、ユリアーネの力が本物だと悟らざるをえなかった。
たぶん、これは魔法じゃないんだろう。
魔法について、俺は詳しいわけじゃないが、魔法を使用する際には、術者本人だったり手のひらだったりに、若干の発光が見られる。しかし、今のユリアーネには、その光がなかったように見えた。もちろん、彼女は人間なので、魔物の使う邪法とも違う技のはずだ。妖精の力を借りたのだと理解するのが、最も自然だった。
「行こう。心配ないよ。閉じこめたりしないから」
持ちあがった扉を指さしながら、ユリアーネが俺に言う。
「君が俺を監禁したいなら、別にそれでもいいんだけどさ。……でも、痛くしないでね」
「変なの……」
そう言って、ユリアーネが薄く笑う。
……
ユリアーネに促され、俺は階段をおりていく。
日のあたらない場所に入っていくので、さすがに地上階よりも薄暗いのは免れなかった。
自分がどこを歩いているのかさえ、いまいち分からなくて不安だったが、ユリアーネが俺の袖を引っぱってくれたので、足を前に出すことにためらいはなかった。
「どう? そろそろ少しは感じ取れるようになった?」
おもむろに彼女が口を開く。
それが俺に向けて言われた言葉でないことは、すぐにわかった。人型の輪郭が、おぼろげながらも奥のほうに見えたからだ。
近づく。
ようやく暗闇に目が慣れて来たので、少ない明かりであっても、俺にもその修行者がどんな姿でいるのかが分かった。
座禅のように足を組んだまま、1人の男がじっと
伸びきった髪と
清潔とはほど遠い身なりの割に、男の体臭を感じないのは、定期的に、水浴びだけはしているからなのかもしれない。
男がちょうど今、俺たちの到来を気がついたというように、ゆっくりと重たい
「……いえ、自分にはまだ」
「そう……。でも焦らないでね。自力で妖精使いになるなんて、20年でも天才と呼ばれる世界なんだから。30年で妖精を見えるようになれば、十分に秀才なの」
なんの話か分からなかったが、ユリアーネの台詞を聞いて俺も理解する。
妖精使いになるための、修行の進捗状況を尋ねているのだ。
「それを聞いて、少しだけ安心しました。自分には無理なのかと、僅かに気持ちが揺らいでいたんです。改めて、今日から修業を始めたと思って、初心に帰ります。……ところで、ホトミーユさんは、今日はいらっしゃらないのですか?」
再び、男が目を閉じて顔を下に向ける。俺というに
「そろそろ引退だってさ。妖精が見えなくなって来たらしいよ」
「……。ホトミーユさんのような、生まれつきの妖精使いでも、瞳の力を失うことがあるのですね」
「もういい
ユリアーネの声音に、消沈したような色はない。
ただ本当に気になったから聞いた、というような口ぶりだった。
「とんでもない。すでに、我が師はユリアーネさんです」
「うん、安心してよ。ユリアーネはホトミーユと違って若いから。あと30年はここに来られるの」
「できれば、お2人が元気なうちに、一人前になりたいのですが……自分には過ぎたる願いだと思うことにいたします」
「うん、そうして。決して焦らない。デイヴィッドが無事に妖精使いになれたら、ホトミーユがどんなにお婆さんになっていたって、絶対に喜ぶよ」
肯定するようにして、男が静かにうなずく。
2人の会話はそれっきりだった。
一言くらいは、部外者の俺でも声をかけられるんじゃないかって、そう甘く見積もっていたのだが、分不相応も甚だしい。俺が口を挟む余地なんてどこにもなかった。
これが妖精の世界。
そして、妖精使いを目指す者の住む世界なんだ。
結局、2人に対して、俺は神殿を出るまで何も言えなかった。
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