そこにある春

西野ゆう

第1話

「ただいまー」

「おかえりー、ママ」

 玄関の鍵穴に鍵を差し込む音で私の帰宅を察知した七歳の娘が、かじかむ指でブーツのファスナーをのろのろ下げる私を、玄関マットの上で足踏みしながら待ち構えている。

「よいしょっと」

 ようやく脱げたブーツを端に寄せた私の手を、娘が両手で包み込んだ。

「お外、雪積もってた?」

「うーん、まだ積もってないけど、明日の朝は積もってるかも」

 そう言った私の表情と、娘の表情は対照的だ。

 ゆっくりとした歩みでも十五分もあれば学校に着く娘の頭の中は、雪だるまか、雪合戦でいっぱいになっているようだ。そんな娘には悪いが、冷え性に悩む私は冬が嫌いだし、電車が止まらないかという心配ばかりしている。

 私の気など知らない娘は、いつもよりも明るい笑顔で私の手を取ったまま、リビングの扉を開けた。

「お帰り。随分冷え込んできたみたいだね」

 キッチンには風呂上りなのだろう、夫がTシャツ一枚で首にタオルをかけ、コンロの前に立っていた。

「あれ? 私、食べて帰るって言ったよね?」

 夫と娘は外食で済ませると言っていたが、夫の前では何か湯気が立ち昇っている。

「うん、知ってる知ってる。これはね、あーちゃんのリクエスト」

 夫が笑顔でそう言うと、あーちゃんと呼ばれた娘が夫の横に立った。

「ママはそこで待っててね」

 小さなサプライズが好きな父娘だったが、今日の企みは香りで分かってしまった。ホットココアを作ってくれているのだ。ココア好きの私と娘に、夫が上等なココアでも買ったのだろう。

「じゃあ、あーちゃん。コップをここに置いて」

 夫の指示で、娘がカウンターに三つのマグカップを置いた。全体がとても深い夜空の色をした無地のマグカップだ。そのマグカップに、夫がミルクパンからココアを注ぐ直前に、娘が私に笑顔を向けた。

「ママぁ、よく見ててね!」

 夫におませな目配せをして見せた娘に、夫が頷いてミルクパンからココアを注いだ。

 濃紺一色だったマグカップに、温度の変化でかまくらの中であくびをするネコの絵が浮かび上がった。

「すごいでしょ?」

 得意げに言う娘に、私は頷いた。

「すごいね。絵が出てきたね」

 私の言葉に、娘は嬉しそうに夫と目を合わせていた。ココアを注いだ後、夫はもうひとつ別の鍋で温めていたものを注ぎ、何やら手を動かしている。

「まあ、とりあえず飲もうか」

 夫がココアをテーブルに置くと、夫が最後に何をしていたのかが分かった。ココアの層と混ざらないように薄く抹茶ラテを乗せ、そこに絵を描いていたのだ。いびつなハートだったが、なんとも彼らしくて愛おしかった。娘のカップにも、同じ絵が描かれていたが、さすがに自分の分にハートは余計だと思ったのか、ただ抹茶ラテが加えられているだけだった。

 カップの内側は、空色に塗られていて、飲み干せば明るい日差しが差し込んでくるようにも思える。

 甘さとほろ苦さの絶妙なバランスをゆっくりと楽しみながら、目を閉じ、暖かな春の日差しを思い浮かべながら飲み干すと、夫が囁いた。

「ココアは土。抹茶は草原。ミルクの泡はシロツメクサみたいだろ?」

 からになったマグカップ。外側の雪景色は薄れ、底には春の草原が広がっていた。

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そこにある春 西野ゆう @ukizm

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