ホッと。ポッと。

西野ゆう

第1話


 冬の残業は堪える。自分の失態が呼んだ残業なら尚更だ。終電こそ逃しはしなかったが、妻と事前に立てていた計画は全て水に流れた。

「ようやくね、予約できたの。よぅやく、ね」

 付き合い始めた頃から、変わったコだと思っていた。なにしろ、この頼りがいのない私を、独特のダジャレと笑顔で元気づけてくるのだから。

 しかし、今晩だけはそんな妻も落ち込むだろう。

 半年も前に予約をしたレストラン。よほど予約が取れたのが嬉しかったのか、「ようやく予約」と何度も繰り返していた。

 自宅のドアを前に、覚悟を決める深呼吸をしていると、妻が中からドアを開けた。

「最後の仕上げ、あなたも手伝って」

「おかえり」も言わずに私の手を取り、靴が脱げないのにも構わず食卓に引きずり上げる。

 テーブルの上には、炎を上げるカセットコンロ。蓋の開いた土鍋には材料が入れられ、湯気が出ている。見たところ他に入れられるべき材料も見当たらず、鍋は食べられるのをただ待っているようだが……。私に課せられた仕上げが何なのか首を傾げると、妻は私の手を取り、横に置いてあった鍋の蓋の上に乗せた。

「急な残業って辛いよね?」

「ん? まあ、そうだな」

「じゃあ、鍋に向かって『急な残業!』って言って」

 何がしたいのか分からぬまま、私は妻に従って「急な残業!」と片手をメガホン替わりに鍋に向かって叫んだ。料理に「愛情のスパイス」とは聞くが、鍋に苦行を強いているようで、何だかおかしかった。そんな風に思っている私に続いて、妻も蓋をする前に鍋に向かってひと声かけた。

「独りで待つの辛い!」

 その言葉を逃がさぬように、妻は私の手ごと蓋を取り、急いで鍋の上に乗せた。

「『辛い』に蓋をしたら『幸い』になるでしょ?」

 一瞬何を言っているのか分からなかったが、私の手のひらの上に妻が文字を書き始めた時、私はすぐに理解した。

「ありがとう。君のおかげで、私はいつも幸せだよ」

 その日の鍋は、少し火が通り過ぎていたが、確かに幸せが詰まっていた。

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ホッと。ポッと。 西野ゆう @ukizm

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