第三章

 妻が亡くなってから、私はその印税を含む財産管理を旧知の知人である投資家へ委任している。過去に対談をしたある経済人を経由し、紹介を受けた。その経済人が生み出した会社組織はバブル崩壊によりグループの解体を余儀なくされ、彼自身も実業家としては第一線を退き、作家活動に精力を出すようになったそうだが……。何であれ、私とその投資家との間に橋渡しをした人物とは近年あまり交流を持つこともなくなってしまったが、当の投資家自身との交流は今も続いている。

 彼もまた私の作品の熱心な読者であることを自認する人物であり、彼自身が優秀なのもあり、楯の会の活動を停止して以降は貯まる一方であった財産はバブル崩壊を経てもなお増加の一途を辿り、今や作品すら書くこともない一老人に過ぎぬ私にとってこの資産は過大であり、使っても使い切れる予感がせず、かといって私自身、贅沢に溺れることができるほど若くはなかった。

 利殖はふしぎな経験である。(四六)

 利息は見わたすかぎりの時間の平野の上に、苔のようにはびこって殖えてゆく。われわれはそれをどこまでも追うわけには行かない。われわれの時間は、次第に坂道を伝わって、まちがいなく断崖の上へ連れて行かれるのだ。(四七)私は財産のほぼ全てを投資家へと一任し、私自身は日々の生活を過ごす。朝起きる。歯を磨き、おかずを揃え、二日目の味噌汁を焚き、朝食をとり、日が天頂へ昇るまでの間を庭で過ごし、昼間には食事を、時おり出前なぞを頼んだりし、青年期に親しんだ書物を読み、夜には枕元のウィスキーをのみ……眠りにつく。そのあいだも、利子や各種の利得は、時を刻むにつれて少しずつ増大していたのである。

 人々はそうやって財産が少しずつふえてゆくと思っている。物価の上昇率を追い越すことができれば、事実それはふえているのにちがいない。しかしもともと生命と反対の原理に立つもののそのような増加は、生命の側へ立つものへの少しずつの侵蝕によってしかありえない。利子の増殖は、時の白蟻が少しずつ着実に噛んでゆく歯音を伴うのだ。(四八)

 投資家の彼が家に来るたび、私の資産は増えている。目に見えて驚くほどに増えているわけではないが、それでも十年、二十年の単位で見れば随分な増加が見えるように思われる。利得とはまさしく時の暗示であった。利得が時の暗示であった場合、時とは死に至るまでの秒読みの暗示であり、すなわち利得とは死の足音そのものであった。

 そうした私の意識を察しているのか、彼は会う度に

「長生きすれば資産は増えます。長生きをしてください」

 と語る。大半の老人が自身の老後資金について苦慮する中で、生きていけばいくほどに財産が増える老人がいるというのはなんという矛盾であろう! いくら財産を積み重ねたところで向うの世界に資産を持ち込むことができるわけでもない。三途の川の向こう岸へ行くのに必要なのはせいぜいが六文銭程度のものである。……

 かつて向う岸にいたと思われた人々は、もはや私と同じ岸にいるようになった。すでに謎はなく、謎は死だけにあった。そしてこのような謎のない状態は決して認識の勝利ではなかったから、私の認識の矜りはひどく傷つけられ、ふてくされた認識は再び欠伸をはじめ、あれほどまでに憎んでいた想像力に、再び身を売ることをはじめるのであった。そして永遠に想像力に属する唯一のものこそ、すなわち死であった。(四九)


        ⁂


 その日も投資家の彼は屋敷へと来た。道中で聡子と会ったらしく、二人一緒に屋敷へ来た。

「一昨日の夜は大変だったんですから」と聡子がいう。

「何かあったんですか」

 と投資家の彼が返す。

「先生がね、夜中に帰ってきたんですよ。タクシーに乗って。酔って熟睡してしまっていたようで、私が呼び出されて先生を部屋のベッドまで運んだんです」

「へえ」

「でも、珍しく楽しめたようでしたから、そういう日があるのも良いと思いますけれど」

 聡子がそう言った後、投資家の男は私へ話題を投げかける。

「先生は決して貧乏というわけではないのですから、もう二人ほど使用人でも雇って、日常の全てを委任してしまうのは如何でしょうか?」

「考えておくよ」

「是非に」

「それより聡子さん。彼にお茶でも出してやってくれ。私と彼は居間へいくから」

「承知致しました」

 そうして聡子は調理場へと消えていき、私と投資家の男は居間へと辿り着く。

「先生」

「分っているよ。順調なんだろう」

「それは――たしかに、そうなんですが」

「私は君を信用しているから、来なくたって私は怒らないよ」

「そうは言いましても……堤社長からの伝手でしたから、僕も適当な仕事はできませんよ」

「それにしてみても随分昔の話じゃないか」

「希望があれば何か優待が得られるような株を買うこともできますよ」

「興味がない」

「ならば別荘でも買われますか」

「もうバブルは終ったんだ。この屋敷一つでさえ使い切れていないというのに」

 彼は目敏く、私の言葉に反応する。

「それならばいっそ、この家を売られてしまっては?」

「――なんだって」

「四谷の辺りはごみごみとしていますし、用事があれば電車でも使えば良いじゃないですか。千葉か神奈川辺りに家を買うかするんです。鎌倉辺りに家を持っても、都内へは一時間ほどで通うことができます。もし山が良いのであれば奥多摩にでも」

「駄目だ」

 即答だった。あまりにその回答が即断であったために、投資家の男は動揺するそぶりを見せる。

「第一、 それでは聡子さんが通えない」

「雇う人を変えれば……」

「何にしても駄目だ。この家を手放すつもりは私にはない」

「――そうでしたか。失礼しました」

「いや、すまない。君が親切心でそれを言っていることは私にも理解出来ている。けれども、この家を手放すような気には、とてもじゃないがなれないんだ」

「いえ、行き過ぎたことを言いました」

「怒っているわけじゃない。老人のわがままだと思ってくれればいい……」

 その後、私は彼と定例の、利殖の進捗について伺い、一通りの説明が終ったあとに彼を見送った。


 その直後のことだった。投資家の男と入れ違いになって、私の息子が家に来た。

「久しぶりですね、お父さん。元気でいらっしゃいましたか」

 と息子が言う。聡子は息子の顔を見てあらと言い、またお茶を出す用意を始めた。……何やら今日という日は、来訪者の多い一日らしいことが分かる。

「どうしたんだ。何か用事が?」と私が聞くと、息子は

「近くを通ったから」

 と返した。私にはそれが嘘だということが分った。

「あの人、入れ違いになっちゃったか」

 と彼が言った後に、もう一人来訪者が現れる。それが誰なのか、私は薄々理解ができていた。案の定それは娘で、私は自身の書斎へと移動した。

 書斎には大量の本がある。

 これは私の要塞のようなものだ。……言葉や美や、或いは文学それ自体に対し様々な言を弄して私は非難を続けてきたが、最後に残ったのが言葉の塊たる書物で充たされた部屋とは何たる矛盾であろう。

「先生」

 その書斎には、あいつがいる。

「先生。違いますよね? 先生は逃げて来たんだ」

「違う」

「本当にそうですか? きっと下ではあなたの子どもたちが、あなたの死後の財産を巡る話し合いをしているところでしょうよ。それを察したから、あなたは逃げた。以前から彼らは会う度にその話をしているのですから、当然のことでしょう……『こいつは何としてもよくない。父祖からうけついだ富というやつは、何か遺伝性の病毒みたいなものを伝えるんだろう』。(五〇)批評家連から評価を得られなかったあなたの作品で、こういう言い回しがありましたよね。全く、その通りではないですか?」

 私は何も返さなかった。

「沈黙ですか。でなければ失語症ですか? 都合の良いことです。あなたは言葉を怨んでいましたから、言葉を喪うことができればそれは本望でしょう。人生とは何だ? 人生とは失語症だ。世界とは何だ? 世界とは失語症だ。歴史とは何だ? 歴史とは失語症だ。芸術とは? 恋愛とは? 政治とは? 何でもかんでも失語症だ。(五一)あなたはていのよい言い訳を手に入れた」

 あいつは続ける。その語調は淡々としていて、かつ冷酷であった。

「あんたは本当は怨んでいるんだろう。怒っているんだろう。俺の顔を見たくもないし、見るたびに恕せないと思うばかりだろう。でも、ここへ招ばれて来るとき、俺はあんたの顔を見たかったんだ。見るのが怖いくせに、どうしてだか、見たかったんだ。そして一生あんたのそばにいれば、今度こそ俺はまともな人間になれるだろうと望みをかけたんだ。わかるかい? 玩具をこわした子供を本当に後悔させるには、ずっとそのこわれた玩具と一緒に暮させることだ。決して新しい玩具を買ってやっちゃいけないんだ。(五二)

 一体、あんたは何を望むんだ。できないことを知りながら誘惑する。逃げ場のないことを知りながら追いつめる。蜘蛛のほうがあんたに比べればまだましだな。蜘蛛はともかく自分の糸を紡ぎ出して、獲物をからめ取ろうとするんだから。あんたは自分の空虚を紡ぎ出さない。ほんのこれっぽっちも支出しない。あんたは空虚の本尊、空虚の世界の神聖な中心でいたいんだから。

 あんたは何を望むんだ。言ってみな! 何を望むんだ」(五三)

「○。……(五四)○○○○」


        ⁂


 以前は、幾度となく私の下へやってきた講演会の依頼も、現在では随分と数が減り、その内容もまた変質していった。

 以前は小説論であったり、或いは思想領域に関する話、哲学の講義であったが、近年では老人を相手に、死を迎えるにあたっての心構えについて述べる機会が増えていった。しかし、死にかけの老人が、死にかけの老人連に向って死の話をするとは、何と滑稽な姿であろう。そうした場はもはや火葬場や葬式会場と大差がない。今は、、死んでいない、今は、、まだ火葬されていない、今はまだ息をしている、、、、、、、、、、、。……その程度の違いしかないではないか。

 言ってしまえばそうした依頼を断ることもできるし、実際に数を絞るようにはしているのだが、そうした場面がないことには外に出ることも殆どないため、私は意図的に、年に数回は講演会の依頼を受けるようにしている。その時の報酬は度外視していることも多く、やはり依頼側がファンである場合には多少の色をつけているように思えることもあるが、そうした事情を察した目ざとい人間は、実に安い値段で私を講演会に呼びつけようとしたし、実際にそうした依頼も、ファンからの依頼も私はとくに差をつけるようなことはしなかった。


 しかし、次に行った講演会は特別なものとなった。私の講演会に、著名人が現れたからだ。髪を黄色く染め、独特な服装に身を包んだその怪物のような女は、老人連の間では相当な著名人らしく、その席の周辺は自然と空白が生れ、その怪物的な女はただ黙って私の公講演に耳を傾けていた。

 講演会を終えた後、その怪物的な女は私へ近寄り、こう言った。

「お久しぶりですね、三島さん」

 今や、私と同世代の人々の大半が死に、殆どの人々が私のことを先生、、と呼ぶ今に、私のことを三島さんと呼べる人間が何人いるのかと私は思案したが、どうしても私は、私の記憶する同世代の人々と、目の前にいる怪物的な女の顔とが一致しなかった。

「申し訳ない。私はあなたが誰なのか分からないが、同世代で、親しい人物であったことだけはわかる。果して、どなたでしょう」

「もうどうでもいいことですよ。そういったことは」

 と女は言った。

「あなたはあれほど美しかったのに。あなたはあれほど、呆れるほどに愚かで、真っ直ぐで、生真面目で……あれほど美しかったというのに、あなたという人は一体どうしてしまったのですか」

 その言葉に私は、あいつの姿を。かの青年――私の頭をスパナで打ち付けた、あの青年の姿を想起した。

「あなたはあれから、おかしくなってしまいました。スパナで殴られたからおかしくなったんじゃありません。ノーベル文学賞をとったから? 老いたから?……そうではないでしょう」

 そうして女は、核心的な言葉を吐いた。その語気には怒りが滲んでいた。

「あなたは、あの時に死ねばよかったんです」

 そう、女は宣言した。女は続ける。

「あの時に死ぬことができたならば、あなたは神になれたのです。何の神か? 青年の神か?……違います。あなたは、愚直で、生真面目で、それでいて何か世界から役割を託されるのだという無根拠な直感を持った、死にたがりの文学青年の――神になれたでしょう。しかし、あの時に死んだあなたに抱くそうした直感や天命は全て虚飾のものです。本当はあなたは、神に成り代わる偽の神たらんとした……そうではないのですか?」と、女は言った。

「すまない。申し訳ない。本当に、本当に私は思い出せないんだ。

 きっとあなたが私にとって、とても重要な、大事な人物であったことは理解できる。しかし、思い出せない。だが、あなたが言っていることは理解できるし、それを言うことができるあなたはきっと、私にとってとても大事な、かけがえのない人だったことだけは理解出来るんだ。しかし、あなたは……」私は言った。「誰なのですか」と。

 女は怒った。その怒りは何か神罰じみていて、苛烈でありながら美的であった。

「なぜあなたは死ななかったのですか。なぜ、なぜ、なぜ! 老いたあなたは、あまりにも醜い……」

「もう、時間は巻き戻せないんだ。あなただって理解しているはずでしょう。時間の流れはあまりにも早すぎて、全ては過去になり、全ては曖昧になってしまう……私は今の自分に、満足しているんです」

「そうですか。では私はもう、あなたに会うことはありませんよ」

「すまない。大事な人」

「おやめなさい!」

 女は叫んだ。

「そう言って良いのはあの人だけです。文学者・三島由紀夫だけがそう言って良い。もはやあなたは……三島由紀夫ではない、、、、、、、、、のです」

 では。そう言って女はその場を去った。


        ⁂


 その日の夜もまた――夢を見た。

昼間に出会ったあの女の苛烈な態度が、私の記憶の一部を蘇らせた。夢枕に立った、というのが正しいであろう。

 夢に現れたのは、森田必勝であった。

 事件が未遂に終ったあの時、私が逮捕された一方で、初志を貫徹せんと腹を切り果てた激烈なる青年。……彼はその腹から湧き出たかのような腸を露出させ、垂れたままの状態で背筋を真っ直ぐに伸ばし、夢の中で私を強く詰った。

「なぜ先生は来てくださらなかったのですか」

「なぜ先生は生きているのですか」

「なぜ先生は死ななかったのですか」

「なぜ先生は私を裏切ったのですか」

 耳をすませば、その声が輪唱となり、一連の神がかりのような詩となっているのが理解できた。彼らの声は様々で、しかし皆一様に青年の声を持っているのが理解できた。彼らは一様に私の不足を、裏切りを、怠慢を、老醜を詰り、そうした後に一つの怖気立つような詩が生じた。……

「……今、四海必ずしも波穏やかならねど、

 日の本のやまとの国は

 鼓腹撃壌こふくげきじょうの世をばげん

 御人徳のもと、平和は世にみちみち

 人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交わし

 利害は錯綜し、敵味方も相結び、

 外国とつくにの金銭は人らを走らせ

 もはや戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し、

 邪まなる戦のみいんにはびこり

 夫婦朋友も信ずる能わず

 いつわりの人間主義をたつきの糧となし

 偽善の団欒は世をおおい

 力はへんせられ、肉はなみされ、

 若人らは喉元をしめつけられつつ

 怠惰と麻薬と闘争に

 かつまた望みなき小志の道へ

 羊のごとく歩みを揃え、

 快楽もその実を失い、信義もその力を喪い、

 魂は悉く腐蝕せられ

 年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、

 道徳の名の下に天下にひろげ

 真実はおおいかくされ、真情は病み、

 道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく

 なべてに痴呆の笑いは浸潤し

 魂の死は行人の額に透かし見られ、

 よろこびも悲しみも須臾しゅゆにして去り

 清純は商われ、淫蕩は衰え、

 ただかねよ金よと思いめぐらせば

 人の値打は金よりも卑しくなりゆき、

 世に背く者は背く者の流派に、

 なまかしこげの安住の宿りを営み、

 世に時めく者は自己満足の

 いぎたなき鼻孔をふくらませ、

 ふたたび衰えたる美は天下を風靡し

 陋劣なる真実のみ真実と呼ばれ、

 車は繁殖し、愚かしき速度は魂を寸断し、

 大ビルは建てども大義は崩壊し

 その窓々は欲求不満の発光燈に輝き渡り、

 朝な朝な昇る日はスモッグに曇り

 感情は鈍磨し、鋭角は磨滅し、

 烈しきもの、雄々しき魂は地を払う。

 血潮はことごとく汚れて平和に澱み

 ほとばしる清き血潮は涸れ果てぬ。

 天翔けるものは翼を折られ

 不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑あざわらう。

 かかる日に、(五五)……」


 私は目を覚ました。

 既に正午は過ぎ、日は天頂に昇っていた。インターホンを鳴らす音がする。――私は準備を開始した。

 家の中にあるありとあらゆる収納の類を引っ繰り返し、家財道具から必要なものを見極めようとした。私は叫んだ。

「刀はどこだ!」

 刀が必要だった。神風連も最後には日本刀に縋った。私も同様だ。日本刀が必要だ。刃の切り口から流れ出る血液のみが世界を変革し得る。血が必要なんだ! 人間の血が! そうしなくちゃ、この空っぽの世界は蒼ざめて枯れ果ててしまうんだ。僕たちはあの男の生きのいい血を搾り取って、死にかけている空、死にかけている森、死にかけている大地に輸血してやらなくちゃいけないんだ。(五六)

 外から女の叫ぶ声がする。そうだ、私には宿命がある。私はベランダに出て叫んだ。

「私は市ヶ谷へ行くんだ! 今すぐに!」

 そう言って私は家中を引っ繰り返して日本刀を探そうとした。二階にはない。一階にあるのか? 私は階段を降りようとした。瞬間、世界が一転した。視界が歪み、ぐちゃぐちゃになり、私は階下で腰を抜かした。

「先生!」

 そこには聡子がいた。そうして私は了解した。涙が滲んで来た。(五七)

「どうされたんですか、先生! 泥棒でも入ってきたのですか。ああ、こんなに部屋が汚れて……やはり、泥棒ですか?」

「違う」

「では何だと言うのです?」

「違う。違うんだ。そうじゃないんだ」

「先生」

「そうなんだ。私はただ、この世界に耐えられないというだけのことなんだ。世界が必ず滅びるという確信がなかったら、どうやって生きてゆくことができるだろう。(五八)世界がなかなか崩壊しないということこそ、その表面をスケーターのように滑走して生きては死んでゆく人間にとっては、ゆるがせにできない問題だった。氷が割れるとわかっていたら、誰が滑るだろう。また絶対に割れないとわかっていたら、他人が失墜することのたのしみは失われるだろう。(五九)だから、私は、私は……」

「先生。落着いて下さい。ひどい汗ですよ……きっと怖い夢でもみたのでしょう」

「違う」

「寝る時にみるものは全て夢ですよ」

「あれは夢なんかじゃないんだ。あれがもし夢であったら、私は全部うそになってしまう、、、、、、、、、、、。眠りに落ちる時に眼裏に映るあの暗闇は、夢ではない何かへの接続点なんだ。目ざめているときの自分は意志を保ち、否応なしに歴史の中に生きている。しかし自分の意志にかかわりなく、夢の中で自分を強いるもの、超歴史的な、あるいは無歴史的なものが、この闇の奥のどこかにいるのだ。(六〇)だから、私は」

「先生。失礼を」そう言って聡子は私の頬をぶった。じんわりとした鈍い痛みが頬に滲みる。そうした後に彼女は言った。

「折角ですから今日は家財道具を整理致しましょう。奥様が亡くなられてから、まだ奥様の私物にはふれていませんでしたからね。良い機会です。それに、先生も、たまには旧友と親交を深めてはどうです? 今より多少は夢見が良くなるやもしれませんよ。あなたの躰はもはやあなただけのものではないのです、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。だから、もう少し大事にお使い下さい」


        ⁂


 そうして妻の遺品を整理する最中、私はかつての楯の会の制服を見つけだした。埃をかぶっていて、いささか色落ちがおきていることもないが、それでもあの頃の時代のものが出てくると、私は自分の過去について考察をせざるを得なくなる。

 制服を見つめる私を見、何かを悟ったらしい聡子は、目ざとくかつての楯の会の会員リストを見つけ出し、私にそれをあてがい、かつての楯の会メンバーを集めて会食をするように勧めた。少なくとも、思案するよりはその方が良いであろうと考えた私は、彼女のその提案にのろうと思った。


 私がかつての楯の会の会員へ連絡をとると、大半は意外だというふうな反応をした。自身が会員であったことは覚えていても、もはや文学者・三島由紀夫と自身らは無関係なものだと思い込んでいたらしく、私の声を聴いただけでもいたく感動して、電話先で涙を流すような者もあった。

 集会の場所は、新橋にある末げんとした。実際には電話が通じない者や、実業家として忙しい者、或いは故人となっている者も居たため、人数はそう多くない。十人に満たない数を集めて、私たちは老年における再度の出会いを祝し、乾杯した。

 話題の大半は、老いるに至るまでのそれぞれの活動の履歴であり、節々にノーベル文学賞作家となった私への称賛があり、青年であった頃の彼らの、若さがもたらす特有の不躾さを覚えていた私は、彼らのそうした抜け目ない、いかにも老齢が強いる人間性の変化を体現するかのような態度をみて、何か言いようのない不快感を覚えた。

「昔は若かった」

 それが彼らの口上にもっとも多くのぼる言葉であった。長生きをするとは、それをした者自体に衰亡の兆しを内包させる。老人にはもはや劇的な人生や世界の終末などといった事件は起き得ず、ただ彼らは口を開けて死という最後の経験を飲み干す準備をしている。老齢においてはもはや生きるとは衰えることである。衰亡はおもむろに進み、終末はしずかに兆していた。床屋のかえるさ、襟元にちくちくする毛のように、忘れているときは忘れているのに、死が思い出すたびに首筋をちくちく刺した。(六一)


 結局、私は彼らから何一つ目新しいような話題を得ることができなかった。彼らの話題と言えば、病院へ行って診断結果に一喜一憂するといったことで、曰く、たえず癌の心配をしていて、医者の笑いものになっていた。彼らはあらゆる医者に猜疑心を抱き、病院を転々と変えるのだった。つまらないことに吝嗇になる点でも互いに理解があり、わがことを除いては老人心理に精通している矜りを互いに譲らなかった。(六二)

 私には、彼らの生活が容易に想像できた。

 朝起きてまず見るのは死の顔である。障子のほのかな明るみに朝をさとって、詰った痰の重みに喉を絞めつけられて目をさます。痰は夜のあいだにこの赤い暗渠のくびれに堆積して、そこに狂想のしこりを培うのだ。そしていつかは、誰かが、割箸の先に綿をつけて、これを親切に取ってくれる役を引受けるのだ。

 今朝もまた生きていた、と朝目ざめて、第一に彼らに告げるのは、咽喉のこの海鼠のような痰の球である。同時に、生きているからにはまだ死ぬ怖れがある、と第一に知らせるのもこの痰の球である。(六三)……

 彼らのそうした性質の会話を見聞きするうちに、私は彼らの薄い肉の膜の裏側にある骸骨を夢想した。人は焼けば骨のみが残る。肉とは若さの象徴であった。老いは彼らの肉を少しずつ、中国の刑罰のように削ぎ落としていき、彼らをより骨へ、骨へと近づけていく。全ての人間は骨だ、とも言えるが、もっとも骨に近いのが彼ら老人なのであった。

 結局、彼らとの会談で得たものは何一つとして存在しなかった。ただ、どのように若く鮮烈であったものも、年を食えば同一の、面白みのない、骨に等しい何かに変化するという事実を再度確認するというだけの効能しか彼らは持ち合わせてはいなかった。


        ⁂


 そうした会談は結局、当初の目的を果すことはかなわず、その晩にも私は悪夢を見た。

 夢の中で、対談する二人がいる。一人はこめかみから血を流し、もう一人は腸を露出している。二人はお互いの傷に言及することなく、淡々と、けれども楽しげに会話を行う。

 言うまでもない。こめかみから血を流す男は蓮田善明氏であり、腸を露出する男は森田必勝である。二人のうち、こめかみから血を流す男がいう。

「俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。それが何の役に立つかと君は言うだろう。だがこの生を耐えるために、人間は認識の武器を持ったのだと云おう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐えるという意識なんかないからな。認識は生の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、それで以て耐えがたきは少しも軽減されない。それだけだ」(六四)

その言葉を聞いてか聞かずか、腸を露出した男もまたいう。

「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない。(六五)世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない(六六)

 それを聞いて、私は呻いた。締め殺される鶏が最後にあげる断末魔の叫びのように、私は呻き、言葉を発していた。

「私は行為の一歩手前まで準備したんだ。(六七)行為そのものは完全に夢みられ、私がその夢を完全に生きた以上、この上行為する必要があるだろうか。もはやそれは無駄事ではあるまいか。(六八)そうではないのか?」

 そうだ。彼が言ったことはおそらく本当だ。世界を変えるのは行為ではなくて認識だと彼は言った。そしてぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識もあるのだ。私の認識はこの種のものだった。そして行為を本当に無効にするのもこの種の認識なのだ。してみると私の永い周到な準備は、ひとえに、行為をしなくてもよい、、、、、、、、、、という最後の認識のためではなかったか。

 私は言った。言おうとした。

「美は……」と言いさすなり、私は激しく吃った。埒もない考えではあるが、そのとき、私の吃りは私の美の観念から生じたものではないかという疑いが脳裡をよぎった。「美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」(六九)

 しかし、彼らは。蓮田善明氏も、森田必勝も、私の言葉そのものではなく、私自身を、私の肉体を凝視し、そうして、こう言い放ったのである。

「お前は、だれだ?」

 私は自身の名前を叫ぼうとした。その両方を、私の名を――しかし、それは口から出ようとした途端に霧散し、無となって消えた。

「どちらさまですか?」

 森田必勝もまたそう言った。

「あのような老人を私は知らない」

「私も知りません。彼は一体、誰なのでしょうか?」

 私は叫ぼうとする。叫び、口の端に泡が浮かぶのまでわかる。しかし、それは言葉にはならず、ただ空中にあえぎ声となって、消えていく。二人は全く、私を認識することはできない。そう、世界は墓石のように動かない。(七〇)

 私は考えた。

 今この場所こそが、私の来世の宛先ではなかっただろうか? 来世は、時間の彼方に揺曳するものでもなく、空間の彼方に燦然と存在するものでもなかった。死んで四大に還って、集合的な存在に一旦融解するとすれば、輪廻転生をくりかえす場所も、この世のここでなければならぬという法はなかった。(七一)

 そこに。暗闇の中、蓮田善明氏と森田必勝と、そして誰でもない私がいるこの場所に、あいつは、彼は――現れたのだった。彼はいう。

「本当のことを話して下さい」

 私は言った。

「本当のこととは何です」

 そうして私は滔々と、彼に対して反論を述べてみせる。

「私は狂人の世界に親しみを持ったことは一度もなく、狂気を理解しようと努力したことすらなかった。私が或る事件や或る心理に興味を持つときは、それが芸術作品の秩序によく似た論理的一貫性を内包しているときに限られており、私が「憑かれた」作中人物を愛するのは、私にとっては「憑かれる」ということと、論理的一貫性とが、同義語だったからである。そして論理的一貫性は、無限に非現実的になり得るけれども、それは又、狂気からも無限に遠いのである(七二)

「いい加減、認めませんか。私はあの青年ではないんですよ

 お分かりでしょう? あの青年はあなたがノーベル文学賞を取った半年後に、あなたを襲撃して、あなたの頭をスパナで殴り、直後行方不明になった。……全くお笑いですがね、あなたの後期の作品の茫漠とした感じ、その幻想的な空気はその鉄の一打によって生まれたのかもしれないという寸評があるそうですね? 何を莫迦な。もしそうであるならば、あなたは完全に呆けているか、或いはその兆しがあり、それを文学にしたということになるではありませんか。はは、全くお笑いだ」

「なぜそう思うんだ?」

「簡単ですよ。だってあなたは、あなたが書いたことの全てを覚えているじゃありませんか。

 あなたの話すこと、あなたの考えること、あなたの全ては、あなたが書いた作品に書いたことそのものではありませんか。全てはあなたが過去に書いたことで、あなたはもはや人間ではなく、あなたが書き続けてきた大量の、無限にも思えるような作品群の、そうした優雅の産物の――墓ではありませんか」

分かっているでしょう。そう彼は繰り返す。

「あなたは呆けてなどいません。呆けた老人のふりをして、そうして自分を無害なもののように取り繕い、そうして人々からお目溢しされようとして、そうして賞を受け取った。見事なものです。あなたの演技によってノーベル文学賞があなたの手に渡り、あなたの手には紫綬褒章があり、レジオン・ドヌール勲章がある。それら諸々全ては、後期におけるあなたの詐欺的な、こそ泥じみた文学的技巧のために齎されました」

 ですが、と彼は言う。

「私は絶対に、絶対に、絶対に、絶対にあなたを恕しません。ですので、私はこれからあなたに、本当のことを話して貰おうと思います。その問いかけはたった一つです。色々と思いつくものが他にあるやもしれませんが、私にはたった一つしか思い浮かびませんでした。それはつまり、このようなものです」

 そうしてあいつの顔は、何者かのあいまいな顔に変容して(七三)、私に告げるのであった。

「どうしてあなたは、あの日に――一九七〇年十一月二十五日に、腹を切って死ななかったのですか?」

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