第2話 待ちに待ったその日
中学に入学した時から、私の心は二年後の修学旅行にあった。
早く三年生になって、修学旅行当日を迎えたかったものだ。
そんな私の期待を、いやがうえにもさらに高めた知らせを耳にした。
私が入学した年、三年生の修学旅行の行き先は関東方面で変わらなかったが、第一日目の目的地が、何とあの東京ディズニーランドになったというのだ。
私の期待は、一年生の時点で早くも暴騰した。
これはきっと最高の思い出になるに違いないと確信し、いよいよ三年生になるのが待ち遠しくなった。
そして、短いような長いような中学校生活も二年が過ぎ、晴れて中学校三年生となった1989年の5月20日、私は夢にまで見た修学旅行初日を迎えた。
それまでの中学校生活はこの日のためだったと言っても過言ではない。
前日、修学旅行へ持参するお菓子を学校で定められた千円の範囲内でいかに好適な組み合わせで購入すればよいかと、スーパーでじっくりと選んでいたために帰宅が遅くなったものだ。
きっと明日から始まる三日間は人生で最も幸福な期間となり、終生忘れることなく何度も思い出すことになるだろう。
私はその日、そう信じて疑わなかった。
そして迎えた修学旅行当日は私の通うO市立北中学校に集合し、バスに乗って東海道新幹線の駅へ。
そこからは新幹線に乗って最初の目的地・東京へは一直線だ。
新幹線の中でクラスの連中はお菓子を食べたり、トランプをやったり、意味もなく動き回ったり、私を含めた三年二組全員はこれから始まる輝かしい時間に誰もが胸躍らせ、車内に期待が充満していた。
新幹線はあっという間に愛知県を越えて静岡県に入った。
浜名湖を超えて天竜川を過ぎ、富士山の雄姿を拝みながら、そのまま一路東に向かい、普段の退屈な学校生活とは全く異なる得難い極上の非日常を味わいつつ、三島、熱海、小田原、そして新横浜に到達。
やがて多摩川を越えて東京都に達すると、今まで見たこともない大都会に入ったことを実感した。
ビルの大きさや市街地の質が自分たちの知っている最も大きな街である名古屋市を凌駕しているのだ。
テレビでしか見たことがない東京を実際に目の当たりにした我々は圧倒された。
東京駅に到着すると、そこからはバスに乗って最初の目的地、東京ディズニーランドに向かう。
車中では私を含めたクラスメイトたち誰もが旅の疲れなどみじんも見せず、これからが本番だと興奮していた。
ディズニーランドへの道中は窓の外がいかにも東京という光景の連続に目を奪われ続けたため、あっという間に到着してしまった印象がある。
昼食は外の景色を見ながら移動中のバスの中で摂り、待ちに待った約束の地に到達したのは正午過ぎ。
広大なディズニーランドの駐車場でバスを降りて一刻も早くランド内に突撃したかった我々だが、いったん集合させられ、学年主任の教師である宮崎利親から、長ったらしい注意事項を聞かされた。
宮崎がいつもの論理破綻した冗長な説明において何度も強調したのは「班行動厳守」。
所属する班を離れて班員以外の人間と、又は単独で行動してはならないということだ。
そうは言っても私は自分の所属する班に不満だった。
なぜなら班長の岡睦子は私の好みからは程遠い容貌の上に気が短く口うるさい女。
もう一人の女子、芝谷清美はクラスのカーストで底辺に位置するネクラな不可触民的女子。
男子の大西康太とは同じクラスになったのが小学校から通算して初めてだし、少々気が合わないところもあって普段からあまり話す仲ではない。
こんな奴らと一緒でどう楽しめと?
私は班から離脱することをとっくに心に決めていた。
だが、その決断が後の災難の大きな要因になることをこの時点の私はまだ知らない。
入口ゲートをくぐると、もう教師たちの統制は効かない。
班は大体男女二人ずつの四人を基本構成としているが、わが校の制服を着た男ばかり三人や女ばかり五人、或いは男女のペア等の不自然な組み合わせがあちこちで出現し始めた。
皆考えることは同じなのだ。
私もしない手はないではないか。
我々の班は独裁的な班長の岡の一存で最初に「シンデレラ城」、次に「ホーンテッドマンション」に行くことになっていたが、私は移動のどさくさに紛れて離脱に成功、別行動を開始した。
本当は同じクラスで気の合う中基伸一や難波亘と行動を共にする手はずになっていたが、あまりにも人が多すぎて彼らがどこへ行ったか分からなくなった。
今から思えば携帯電話のない時代の悲しさだ。
そうは言っても、私は一人であることを幸いに自由自在にアトラクションを回ることができた。
「カリブの海賊」、「ビッグサンダーマウンテン」に「空飛ぶダンボ」等々、ジェットコースター系を好む私は「スペースマウンテン」に三回も乗った。
「ホーンテッドマンション」やショーなど見てても退屈なだけだ。
「シンデレラ城」など論外。
班長の岡の感性に支配された班と行動を共にしていたらそういった退屈なアトラクションやショッピングばかり行く羽目になっていたはずで、こんなに満喫はできなかったであろう。
私は自身の果敢な行動力を自画自賛しつつ、自分好みのアトラクションを渡り歩き、小腹がすくとソフトクリームやポップコーンを買って小腹を満たした。
ディズニーランドの食べ物はどこも割高であったが心配はない。
お小遣いはたっぷりもらっているのだ。
しかし、調子に乗って食べ過ぎてもよおしてきてしまった。
幸いトイレはすぐ近くにあり、そのトイレに入るとさすが天下のディズニーランド、床で寝ても平気なくらい清潔だ。
しかもありえないことに私以外に人がいないのがありがたい。
私は心置きなく個室の一つに飛び込んだ。
そして、修学旅行が楽しかったのはこの時までだった。
今考えても無駄だが、なぜよりによってこのトイレを選んでしまったのだろうか?
このトイレこそ、有頂天の私を奈落の底へと突き落とす悲劇の始まりとなったのだから…。
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