「お前を愛することはない」と言われたので、好きにさせていただきます……クモですが、何か?

しゃぼてん

第1話

 初めてお会いした夜、旦那様は、こわばった表情で、いきなり私におっしゃいました。


「お前を愛することは絶対にない。好きにしてくれて構わないから、俺の目の前にだけはあらわれないでくれ」


『そうですか。では、好きにさせていただきますね』


 私はそう告げて、物置の中へと移動しました。

 私としても、旦那様への愛があってここへ来たわけではありませんから、それで構わなかったのです。

 それに、私にはわかっていました。旦那様は本当はお優しい方なのだと。

 でなければ、私のようなものに「お前を愛することは絶対にない」などと話しかけたりはしないのです。

 旦那様が本当に私を嫌っていたなら、すぐさま私を叩き潰すか、スプレー缶で毒液を噴霧していたはずです。

 これまで、私は何度もそのような目にあわされて家から追放されてきたのです。

 ……え? 私ですか?

 私は15センチ程の大きさのアシダカグモです。


 さて、では、さっそく私のお仕事をはじめましょう。

 私の主なお仕事は、夜中にカサカサと動き回る茶色や黒のあの生物を狩ることです。

 旦那様のお家には、私の獲物の巨大な巣ができていました。


『これは、とても働き甲斐のあるお家ですね』


 私は毎夜毎夜、せっせとお仕事にいそしみました。




 数週間後。旦那様は散らかしきった室内で、おひとりでつぶやいておられます。


「最近、前よりゴキブリを見ないなぁ。軍曹がいるからかな」


 軍曹というのは、人間が私たちに付ける異名のひとつらしいです。

 最前線でゴキブリと戦ってくれるから、という理由で与えられた称号のようですが、淑女としてはもう少し可愛らしくお上品な名が良いです。

 それはそうと、カサカサ音のあの生物は、実はまだ室内にたくさんおります。

 なにしろ、旦那様はまったくお掃除をしないので、このお部屋はゴキブリのパラダイスと化しているのです。

 今も私は夜毎、ひそかに彼らを大量に始末しております。




 さらに数週間後。


「最近、ほとんどゴキブリを見ないな。さすがアシダカ様」


 旦那様は、部屋の隅にいる私を見ながら、そうおっしゃいました。

 段々と旦那様の私への好感度があがっているのを感じます。

 最初は「俺の目の前にあらわれるな」と言っていたのに、最近は、部屋の隅にいる私を見かけても気になさらないどころか、このように旦那様の方から声をかけてくることすらあるのです。

 ところで、あのふてぶてしい楕円形の生物は、この部屋からいなくなったわけではありません。

 だいぶ数は減りましたが、私はまだまだ狩りに忙しい日々を送っています。





 数か月後。旦那様は親しみのこもった声で言いました。


「もう1週間以上一度もゴキブリを見ていないよ。さすがアーちゃん。がんばってくれてるね」


 近頃、旦那様は私のことをアーちゃんと愛称で呼んでくださります。

 私が近くを歩いていても気になさらないどころか、いつも愛想よく話しかけてくださるようになりました。

 むしろ、私の姿に数日気がつかなかった時などは、「アーちゃん、どこ行った?」と探していることすらございます。もちろん、私は常に室内にひっそりとおりますが。


 こうなってくると、私の方としても段々と、このちょっと間の抜けた旦那様に愛着が生じてきます。

 ですから、私は獲物を狩るだけではなく、日々、様々なお手伝いをしております。


 例えば、だらしのない旦那様がガスコンロという炎を出す装置をつけっぱなしにした時は、私がスイッチを切っております。

 それから、旦那様は「明日は仕事だ。これ以上遅刻するとクビになるから気を付けないとな」といいながら、目覚まし時計のスイッチをオンにし忘れることもあります。ですので、旦那様の就寝中に私が確認をして、忘れている時は目覚ましの設定をオンにするようにしております。

 さらに、旦那様はよくカギという金属をあちらこちらに置いたまま忘れて、朝方「ないない、カギがない! 遅刻しちゃう! どうしよう!」と叫んでいるので、夜の間に私がカギ置き場に移動するようにしております。


 さて、私のメインのお仕事についてですが。この部屋に住みつくゴキブリはすでにすべて殲滅いたしました。

 ただし、隙間だらけのこの部屋には、毎晩、エサを探して彷徨う風来ゴキブリが侵入してくるのです。

 その原因は、旦那様の食べ残し。

 特に今、旦那様がぽいっとゴミ箱に投げこんだスイカの皮なんて、奴らの大好物でございます。

 私はまだまだ毎晩、そのような食べ物に引き寄せられてやってくるゴキブリ退治に勤しんでいるのです。




 さらに1か月後。

 最近の旦那様は私をテーブルの上に呼んで、いっしょに食事をしないかと誘ってきたりいたします。

 もちろん、私ごときが同じテーブルでいっしょにお食事などおこがましいので、最初の頃はお断りしておりました。

 ですが、旦那様の食事に蠅がたかるのを見て、気が変わりました。

 最近は、私も同じ食卓で蠅をいただいております。

 ちなみに、私は殺菌作用のある消化液で体を清掃しており、いつでも清潔ですので食卓を汚染することはございません。


 さて、今日も休日に一人でゲームをしている旦那様は、ふと壁にとまっている私に目をやって話しかけてきました。


「アーちゃんって、いつもひとりだね。俺もそうだけど」


『旦那様。アシダカグモはテリトリーを持つので、この程度の広さの部屋にはひとりしか住めないのです。他のアシダカグモがくれば縄張り争いの戦いが始まってしまいます』


 しっかりとお返事をしておりますが、残念ながら私の声は旦那様の耳に入ることはありません。

 旦那様は悲しそうな声でつぶやきました。


「なんで俺って、いつもひとりなのかな。友達も恋人もできないんだよな。昔っから」


『さようでございますか』


 アシダカグモはひとりで生きるのが普通ですから、私は特に考えたこともありませんでしたが。群れをなして暮らす習性のある人間は、ひとりでいるのがお辛いようです。


「なんで俺、こんなにモテないんだろ。別に顔はそんなに悪く無いし、性格もそんなに悪くないと思うんだけど。一度くらい、彼女ができてもいいと思うんだけど。やっぱり臆病でコミュ障だからかな」


『不思議でございますね』


 人間の美醜は私には理解しかねませんが、旦那様のお顔の各パーツの配置は全体的に整っております。

 それに、旦那様の優しい性格を私はよく知っています。

 なにしろ、旦那様は害虫一匹殺さないのです。あのこっそりと忍び寄っては旦那様に接吻をして血を吸い取る忌々しい蚊ですら殺さないのです。もちろん旦那様に近づくあのアバズレ……失礼、蚊のメスなどは、私がすぐさま始末しておりますが。

 また、旦那様は臆病……つまり、警戒心が強く慎重なご性格ということですが、その性格は、アシダカグモ的にとってはむしろ生存率をあげる望ましい性格です。


 旦那様は悲しそうにつぶやきました。


「寂しいな。俺は一生独りなんだろうな」


『私が、ずっと傍におります』


 私は思わずそう答えておりました。もちろん、私の声は旦那様には聞こえませんが。

 旦那様は私にむかって言いました。


「俺の友達はアーちゃんだけだよ」


 聞こえていないのにも関わらず、私たちの会話は不思議となりたっているように聞こえました。



 それから、次第に冬が近づいてまいりました。

 室内のゴキブリも絶滅し、寒くなってきましたので、私の獲物となる虫は室内にはもうほとんどおりません。

 私も冬眠すべき季節がやってまいりました。ですが、私はまだ室内を歩き回っております。旦那様が私なしでやっていけるのかつい心配になってしまうのです。

 それに、最近あまり食事をしていない私は、正直、この冬を乗り越えられる自信があまりありません。

 越冬に失敗すれば、もう二度と旦那様にお会いすることもできなくなる。そう思うと怖くなり、ついつい冬眠に入る時期を先延ばしにしてしまっていたのです。


 ある夜、私は旦那様のベッドの上の天井で、これから就寝しようとする旦那様を見守っておりました。

 旦那様が目覚まし時計をちゃんと設定するのを見届けてから、眠った旦那様にこっそりと別れを告げて、冬ごもりのための場所に移動するつもりでした。

 しかし、不意に私は脚から力が抜けていくのを感じました。

 気が付いた時には、私は旦那様の掛け布団の上に落ちたままひっくり返っておりました。

 どうやら、私の死期がやってきたようです。


「アーちゃん!」

 

 天井から落ちた私に気が付いた旦那様が、上の方から私をのぞきこんでおります。


「アーちゃん! しっかり!」


『旦那様。これまでありがとうございました』


 巨大な水の塊が、上から降ってまいりました。旦那様の目から水滴が流れ落ちてくるのです。


「アーちゃん、死なないで。ごめんよ。最初に会った時、ひどいことを言って。あの時は、犬や猫ならともかく、蜘蛛を愛することなんて絶対にないと思ってたんだ」


『お互い様です。旦那様。私も人間を愛することなんて絶対にないと思っておりました』


「でも、俺がまちがっていた。アーちゃんがいない生活なんて想像できない。ずっといてほしい。だから、死なないで……」


『私もずっと傍にいたいと願っておりました。最期の時に旦那様が一緒にいてくださって、うれしいです。旦那様、どうかお元気で……』 


 私は意識が遠のいていくのを感じました。

 一瞬、光に包まれた世界が見えました。

 そして、次の瞬間、私は全身に奇妙な感覚を感じました。

 自分の体が自分の体でなくなるような。

 私は恐る恐る自分の体を動かし、自分の全身を観察しました。


 いつの間にか、私の肌の色がうすくなり、体毛が一部をのぞいてほとんどなくなっていました。そして、奇妙な脂肪のかたまりがふたつ胸部についており、手足は短いものが合計4本……。

 この体は、まるでお風呂場で脱皮して水浴びをしている時の旦那様のお姿に近いものがあります。一部のパーツの形状が違うことの他は。


 どうやら、私は人間になったようです。

 そして、私はまだ同じ場所におりました。今は室内が随分と狭く小さく見えますが。


 旦那様はすぐ傍で、啞然とした表情で私を見つめています。

 旦那様はすっかり赤い顔になられており、私と最初に会った時よりもさらに全身硬直したご様子です。

 私は起き上がり、両手をついてご挨拶をいたしました。


「不束者のクモですが、末永くよろしくお願いします。旦那様」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「お前を愛することはない」と言われたので、好きにさせていただきます……クモですが、何か? しゃぼてん @syabo10

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ