腐
たけのこ
第1話
紅葉が混ざり始めた鬱蒼たる森の中、舗装もされていない雑草だらけの獣道をスーツ姿のまま歩く。
肌寒く澄んだ空気、湿った土の匂い、木漏れ日を揺らす微風、植物のさざめき、鳥たちの歌声。
その全てが、あの灰色の世界を現実から遠ざける。
しかし、それでも、この胸の痛みが消えることはない。
胸を締め上げ胃液を押し出そうとする暗澹な記憶は、何処にいても何をしていても私を追い詰める。
そう、あの社会で培った理性に押し潰された私の感情は常に悲鳴を上げていた。
もう限界だ。
このまま、消えてしまいたい。
この命なんて少しも惜しくはない。
朽ちて塵芥となり、自然へと還りたい。
そう簡単に死ねる保証もない、死ぬ勇気もまったくない、それでも、見知らぬ森の奥へと歩みは速まっていく。
段々と呼吸は乱れ、心臓は鼓動を強め、身体が火照る。
ズボンのポケットにあるスマホが何度も振動する。
煩わしくなった私はそれを取り出し、遠くへ投げ捨てる。
今は、生まれて初めて胸に去来した、この正体不明の高揚感に身を任せていたい。
どこまでも、どこまでも、この足枷が砕け散ると信じて。
*
坂を登り息が切れ足の動きが鈍くなった頃。
唐突に、進む先に茶色の肌を覗かせる朽ちた朱色の鳥居が現れる。
その周囲には背の高い植物が生えているといえど、ここまで接近するまで気付かないことが有り得るのか。
気付けば動物の声は消え失せ葉擦れの音だけが響いており、体温が上昇し汗をかいたこの身体に少しばかりの寒気が訪れる。
まるで別世界に迷い込んだかのような違和感。
いや、それならば殊更、都合がいい。
神隠しのように、あの世界からおさらばできるのなら何よりだ。
正気を失ったまま、私は再び歩みを進める。
一歩、また一歩。
重くなる足取りとは裏腹に頭は軽くなっていく。
そして、ようやく辿り着いた鳥居の、その奥には。
―――あまりの美しい光景に、私の思考は停止する。
廃墟と化した神社、拝殿の階段部分に赤い着物を着た女性が座っている。
明らかに生きた人間であるはずなのに、明らかに、この世ならざるものだと本能が警鐘を鳴らすほど恐ろしく美しい姿。
しかし、私はそれに近づかずにはいられなかった。
歩みを進める度に強くなる、甘い、酷く甘い匂い。
腐った果実のような、鼻にこびりつく甘い匂い。
崩れかけた石畳の通路の上、ふらふらと引き寄せられていく。
思考がまとまらない、目の前の彼女で全てが埋まっていく。
一歩近づく度に、私は獣へと変貌していく。
彼女は、近づく私の存在を認識できていないように静かに座している。
有らん限りと網膜に焼き付く、黄色の帯で締められた、赤く、いつくもの花々が散りばめられた着物姿。
その鮮やかさに劣らないほどの白く光沢した肌とは対照的に、毛先を真横に切り揃えた少しの歪みもなく真っ直ぐに伸びる黒く艶のある長髪。
そこから覗く整った顔。
切れ長の目に長く濃い睫毛、細く筋が通った鼻、小ぶりの唇には紅を差しており、まるで人間が想像しうる限りの美を詰め込み作られた人形のようだ。
だからこそ、これは、違う。
私たち人間とは違う生き物だ。
関わってはいけない。
何より、この甘い、酷く甘い匂いが、引き返せと本能に訴えている。
だが、今の私は、それを望んでいるのだ。
「あの」
声をかけると彼女はゆっくり顔を上げ、彼の真紅の瞳に私の視線が吸い込まれる。
それだけで全てを奪われてしまった
消し去りたい過去も、黒い記憶も、全て彼女の存在に上書きされる。
見つめ合うだけの静謐に満ちた時間。
一時して、遂に彼女は口を開く。
「何用だ」
衝撃。
その声は、男の声だった。
低く、それでも凛とした通りのいい声。
いや、彼の前では性別など些事であろう。
それよりも、彼の機嫌を損ねる前に早く応えなければ。
初めて出会った彼に用事なんてあるはずもないが、私は馬鹿なことだと思いつつも胸の奥にある感情をそのまま吐き捨てる。
「私を、殺してくれ」
他人のことを何一つ考えていない独り善がりな発言。
私が生まれて初めて口にする、強烈な熱が籠った願い。
しかし、彼ならば。
到底人間だとは思えない超然とした彼ならば、私を殺してくれるかもしれない。
そんな淡い期待。
この世界で最も美しいと思える彼に殺されるのなら、それ以上の喜びはない。
「来い」
少しだけ思索した様に見える彼は、優雅に立ち上がり私に言葉を投げかけた。
ただ、呆れ消え去らず私に言葉をくれる、それだけで堪らなく嬉しく心が弾んだ。
そして、私は少しの疑いもなく彼に追従した。
*
神社の右手、少し離れには一戸建ての和風住宅があった。
拝殿のあの荒れようから彼は廃墟に住まう霊とでも勘繰っていたが、その住宅は思いの外、整っている。
木造の部分や白壁には汚れ一つなく、むしろ怪しく思えるほどに。
そのまま、玄関の引き戸を開いた彼に続き私も家に入る。
意外にも、私を出迎えたのは至って普通の光景だった。
玄関口から陽の光が射す薄暗い廊下には線香の香りが漂っており、どこか郷愁に駆られ胸が締め付けられる。
不意に、漠然と不安を抱えながらも生きること自体に疑問なんて持っていなかった小さい頃を思い出す。
いつから、こうなってしまったのか、いや、生まれた時からこうなる定めだったのか。
「何をしている」
先に土間から廊下へ上がった彼の声に、私は慌てながら靴を脱ぎ後へ続く。
二人の足音だけが響く、あまりにも静かな空間。
歩きながら少しだけ視線を周囲に向けるも生活感は全くない。
何もない闇の中に向かって行くような心寒さを覚えながら、それこそが私の願いだろうと自らを奮い立たせながら先へ進む。
そして、彼はようやく足を止め、左手に現れた襖を開き入室するよう私を促す。
何も迷う必要はないと足を踏み入れると、そこは畳張りの客室のようで、奥には縁側があり、解放された雨戸からは緑の庭が覗いている。
「しばし待て」
久しく目にしていない伝統的な和室を眺めていると、彼はさっさとその場を去ってしまう。
仕方なく、一人残され行き場を失った私は部屋の真ん中にある座卓に寄り、その傍の座布団に腰を下ろす。
手持無沙汰になった私は、先程から香る線香と井草の匂いを堪能しながら心を落ち着かせる。
勢いに任せここまでやって来たものの、今までの自分の行動を振り返ると慚愧に堪えず据わりが悪いのだ。
いい歳した大人が精神を病んだ子供のように、見ず知らずの相手に馬鹿げた感情を吐露するなど、普通ならば唾棄すべき行為だ。
いや、どうせ死ぬなら、その感情すら無用だろう。
彼が私を殺してくれるのなら、いや、殺してくれなくとも、この覆ることのない下らない人生に想いを巡らせることも無駄であるだけだ。
「待たせたな」
そう考え事をしていると、彼は丸盆を抱えこちらへやって来る。
そして、優雅な手つきでコトリと二つの湯呑を座卓の上へ置いた後、私の対面に彼は座った。
「さて。確か、殺してくれ、と言っていたな」
「すみません、あなたの姿を見て、つい衝動的に口にしたもので」
「しかし、本心なのだろう」
彼の瞳を見つめると、全てを見透かされたような錯覚に陥る。
「はい。……あなたは、人間じゃない。そして、死にたい私の前に現れた。もしかすると、あなたは私に死を与えてくれるのではないかと、恥ずかしながら舞い上がってしまったのです。本当に、馬鹿な話ですよ」
「いや。己はお前が望むものに他ならぬ」
私は夢でも見ているのではないだろうか。
そうであれば、その言葉を都合のいいように解釈してもいいだろうか。
「そ、それじゃあ」
「しかし、お前がどんな人生を送ってきたのか、なぜ死にたいのか、それを知らなければ手に掛けることなど到底出来ぬ。何も言わずに己の願いだけ叶えてもらおうなど、虫が良すぎるだろう」
「惨めな男の半生を語ったところで何になりましょうか。何一つ誇れるものも無いというのに」
「曲がりなりにも人間であるのなら、何もないことはありえない」
「虫の一生でも話したほうが、まだ劇的でしょう」
意図せず溢れた言い訳に彼の機嫌を損ねたのではないかと勘繰った私は、焦り懸命に取り繕おうとする。
「あの、初対面でこのようなことを言うのは可笑しいと思われるかもしれませんが、私は、あなたにつまらない人間だと思われたくはないのです。私のことを知る前に殺してもらえるのなら、是非ともそうしてほしいのです」
しかし、何を思ったのか彼は何も言わずに立ち上がり私のすぐ傍へと歩いてくる。
何事かと緊張を走らせた瞬間、あろうことか彼は私を押し倒した。
情けなく仰向けに倒れた私の上に覆い被さるよう、彼は四つん這いになる。
そして、彼の長い髪が黒い帷となり、この世界は二人だけのものとなった。
「随分と、冴えない男だ」
彼は私を見つめる。
「それなのに一丁前に痛みを抱えている。その傷は果たして、幻ではないのか。まるで、痛がるフリをして他者の気を引こうとする幼子のようだ」
返す言葉もない。
「醜く泣き喚けばいいじゃないか。他者と傷でも舐め合えば、そのつまらない人生よりは少しだけマシになるだろうに」
「私は」
遂に、誰にも言えなかった言葉が口を突いて出る。
「私は、理性の化け物なんです。良い人間として生きようと感情を押し殺し、ただ、他人に都合のいいように扱われる人形になってしまった。自分の夢も熱情も忘れてしまった。愚痴の溢し方も、他者との関わり方も忘れてしまった。今更、変わることなんてできない。今、ここで、この期に及んでも、あなたを意のままに抱きしめることさえ――」
身体が重なり、彼の唇が、私の口を塞ぐ。
何も考えられない。
言葉を紡ごうとした思考が全て消え去る。
ああ、この一瞬が永遠であればいいのに。
そう、想うはずなのに。
私の全身が微かに震えだす。
何故だ、悦びか?
いや、これは。
「それは、恐怖だよ」
唇を離した彼は呟く。
何故。
何よりもそれを望んでいたはずなのに。
「やはり、お前にはまだ、死ぬ資格がないようだ」
「そんな。人間の生死に意味なんてないのだから、資格なんて必要ないでしょう」
そう反論すると、彼は勢いよく頭突きをしてきた。
鈍い音が響き、痛みのあまり呻き声を漏らす。
「弱者であること、その弱さに甘んじ、自らの都合のいいようにこの世界を解釈し殻に閉じ籠っていると思えば、腐敗した奇跡を求め雛鳥のように泣き喚く、それがお前だ」
「……何もなかった。それでも、痛みだけは人一倍あった。痛みに耐えるだけで、いつの間にかこんな人間になっていたんだ。自ら死を選ぶ勇気もない人間に」
「本質を違えるな、逃げたい感情と死にたい想いを一緒にしてはいけないよ」
「人間から解放されるには、死ぬしかないじゃないか」
「馬鹿を言っちゃいけない。それすらも、人間が生み出した欺瞞に過ぎないんだ。死んだ先に、都合のいい現実なんて待ってはいない。死ぬことは救いではない。今のお前に足りないのは、そこから抜け出すための勇気一つだ」
涙を溜め懇願するような彼を見つめても、彼は許してくれそうにない。
そして、彼は立ち上がり私を見下しながら。
「さぁ、お行き。お前の命はまだ動いているのだから。ただ、その足に力を込めるだけで何処へだって行けるはずだ」
*
あれから、数年の時が流れた。
逃げ続け、畢竟、金も尽き社会的地位も逃げる理由も失った。
何もない部屋。
宙から垂れる縄が私を誘う。
椅子の上に立ち輪に首を通す。
そして、私は椅子を蹴った。
体重が一気に、首に、苦しい。
ただ、苦しい。
――霞む景色の中、視界の端に赤い何かが見えた気がした。
*
陽気差し込む森の中、舗装されていない草花が生えた獣道を、私はスーツ姿で歩いている。
暖かく澄んだ空気、青々とした緑たちの香り、祝福を歌う鳥の声を運ぶ微風。
その全てが、この現実を彩っていく。
逸る足に息を切らせながら高揚する感情のまま歩みを進めると、再び、あの朽ちた鳥居が姿を現す。
地面を蹴るように走り鳥居をくぐると、そこには、あの時と全く変わらない陽に照らされた美しい彼の姿があった。
ああ、甘い、酷く甘い匂いがする。
腐った果実のような甘い臭いだ。
私は何一つ恐れず、崩れかけた石畳の道を歩き彼の前に立つ。
そして、彼の紅い瞳を見つめる。
「久方ぶりだな」
「ええ。あなたに、伝えたいことがあって、ここまで来ました。……思い返せば、こんな単純なことに気付くまでに随分と時間を要したものです」
「見違えるようだな。もう、泣き言はいいのかい」
泣き言、そんなものは疾うに消え去ってしまった。
「私は、あなたに出会ったことで生きるということを知った。あなたに恋焦がれることで、私の心臓が鼓動していることを知った。そうして今を生きているから、過去に囚われ涙することもないのです」
そう伝えると、彼は優しく微笑んだ。
ああ、やはり、世界で一番美しい。
その笑顔は私の悲嘆を全て過去へと追いやり未来に明かりを灯した。
私の頬に一筋の涙が伝う。
「あなたは、いつだって私たちを励ましていたんだ。生きる意味などない残酷な世界で、それでも、その身の恐怖を以て生きてくれ、と。生きる理由はなくとも、生きる歓びはあるのだと、教えてくれていたんだ。この世の全ての苦しみや人間に備わった醜い欲も、歓びを知るためにあるのだと」
「お前みたいに、己を美しいと思う馬鹿者も居るようだがな」
「ええ。だから、私は、これからも生きていけるのです。あなたを忘れない限り、この世界はいつだって輝きを増すのだから」
私たちはいつだって、陽射しの中で生きている。
そして、今日を、今を生きていけば、新しい明日がすべてを塗り変えていく。
もう、明日に怯えることもない。
全ては私次第なのだから。
「これから、私はまた、人間の群れの中で生きていきます。歴史を、命を紡ぐ一員として。平坦な道ではないでしょうが、それでも、命尽きるまで、誰かと互いの生に触れ歓びを謳いながら」
私は深く息を吸い、涙を拭う。
「名残惜しいですが、これで、お別れです」
「ああ」
「――それじゃあ、またいつか」
そう告げ、彼に背を向け歩き出す。
私は、これからも、生き続ける。
精一杯生きて、またあなたに会えた時に笑えるように。
「いってらっしゃい」
腐 たけのこ @takesuno
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