第40話 どうせなら楽しんだ方がいいのです
裕作の隣に座っている沙癒は、目の前で二人がこんなに騒いでいるにも関わらず穏やかな寝顔を浮かべて眠っている。
体は完全に脱力しており、スヤスヤと小さな寝息を立てている。
その姿には警戒心の欠片も感じられず、傍から見ても心配になるくらいだ。
沙癒は保健室を出てからというもの、目覚める気配が一切ない。
寝返りを打つことも、寝言をつぶやくこともない。
相当疲れがたまっていたことは間違いないが、それとは別に彼の眠りはあまりにも深い。
声を掛けても、体をゆすっても基本的には目を覚まさない。
このまま誰かに連れていかれても一切気が付かないだろう、そんな不安を抱いてしまう程の無防備な姿をさらけ出している。
「――ふっ」
沙癒の乱れた前髪を指で掬うように整えては、その可愛らしい寝顔に思わず頬を緩める。
同じ屋根の下で過ごす兄弟で、毎日顔を合わせているにも関わらず、沙癒の細かな仕草や可愛らしい姿が新鮮に映り、弟を見る度にその姿に見惚れてしまう。
その美しい顔と可愛らしい声。
そして、歪んではいるが毎日自分の事を慕ってくれるその姿勢。
そう、沙癒と初めて会ったその日から、裕作は彼の姿に魅了されている。
兄である裕作にとって、これ以上愛おしく感じてしまう存在はいない。
「……ほんと、あんたって沙癒のこと好きよね」
「へ?」
「顔、ニヤけてるわよ」
秋音に指摘されて初めて自分が笑っていた事に気が付いた裕作は、ハッと息を呑む間に大きな掌で口元を隠す。
「まぁ、こんな可愛い弟いたらしゃーないわよね」
しゃーないと言いつつも鼻を鳴らしてほくそ笑む秋音に対し、裕作は「クソッ」と吐き捨て視線を逸らすように景色を眺める。
「裕作、あんたもしかして照れてんの?」
「て、照れてなんかねぇよ」
「耳の先まで赤く染めてんのに説得力無いわよ、バーカ」
「……くそっ」
裕作は否定をするが、沙癒の寝顔に見惚れていたのは事実なので何も言い返せない様子だった。
「やーいブラコン、体はデカいくせに心はピュアピュア男~!」
「やかましいぞ秋音!」
「アハハ、今度は頬まで赤くなってるわよ!」
それに付け込んでか、秋音はニマニマと表情を歪めてバカにしたような態度を取り続ける。
こうなった秋音は止まらない。
昔から早乙女秋音はいつもそうだった。
仲良くなり始めた頃から裕作に対し何故か強気な態度で接し、何度もちょっかいを掛けるようになった。
特に、小学校の高学年になる頃からそれが顕著に表れており、未だにその関係性が続いている。
「ほら七海、あんたもそんな変に緊張してないで裕作のバカ面見てみなさいって!」
先ほどからどこか上の空の七海に話しを振ると、緊張で固まった身体をビクッと跳ねさせて「はい!?」と裏返った声で返事をした。
「七海まで巻き込まんでいいって!!」
「あはは! 裕作のやつ普段は仏頂面かましてるのに、沙癒のことになったらすーぐこうなんだから!」
和気あいあいと会話をする二人を、七海は俯瞰するように観察をする。
指を指しながらご機嫌な様子で茶化している秋音に対し、何も反論が出来ない裕作は口を尖らせ不貞腐れることしか出来ないでいた。
「――不思議な光景でしょう?」
「え?」
七海の背後で車を運転している黒川が、小さな声で問いかけるように話しかける。
「見た目や性格が全く違う二人が話しているのもそうですが、何より裕作様のようなガタイの良い人が一方的に攻められているのを見るのは何より愉快でしょう」
「た、確かに……」
怖い印象すら感じるその巨体を要する裕作が可愛さの塊のような存在に言い包められており、世界があべこべになったような感覚に陥ってしまう。
まるで小さく非力な蜂一匹に怯えてしまっている熊のようで、常識では起きえないような不思議な出来事が目の前で繰り広げられている。
その光景は愉快そのもので、現に隣にいる秋音は裕作を茶化すことに夢中で、黒川の声など耳に入っていない様子だった。
「彼らの関係は子供の頃から変わっておりません。体格に大きな差が生まれようと、秋音様のご家庭事情を理解したとしても」
二人は仲良くなってから、彼らの立場が大きく変わったことはない。
秋音が度々弄り、それに翻弄される裕作。
しかし、ただ一方的に攻められているだけでなく、時々裕作からも怒鳴るような反撃を見せている為、二人は対等な関係であることはすぐにわかる。
それに、傷付け合うような悪口を言い合わない所を見ると、今の様な言い合いは厚い信頼関係の上で成り立っており、ただふざけ合っているだけに過ぎない。
「立場や家柄など関係ありません。七海様も、加わってみて如何ですか?」
渋く穏やかな声で黒川が提案を持ちかけ「ほほほ」と独特な笑いを見せる。
その言葉を聞いた七海は、再び二人を見やる。
「ほんと、あんたって子供の頃からなんも変わらないわよね、あはっ、馬鹿丸出しで感じ!」
「なんだと!? 色々変わっただろ! 見ろよ、この筋肉をよぉ!」
「ムキッっじゃないわよ!? 待ってこんなところで脱ごうとするな馬鹿ッ!」
シートベルトをしながら器用に制服を脱ごうとする裕作を慌てて止める秋音。
落ち着いた雰囲気のある高級車の中とは思えない知性の欠片もない会話が繰り広げられており、緊張していた自分が馬鹿らしくなってきた。
「――ふふ、先輩、なんだか可愛いですね」
そんな二人の姿を見た七海は、頬を緩ませ小さく笑った。
「なっ……お前まで変なこと言わんでいいって!」
「いや事実ですって! こういうのなんて言うんでしたっけ? キャップ?」
「ギャップ萌えっていうのよ、ギャップ!」
「これが萌えってやつですね、萌え~!」
「くそっ、どいつもこいつも好き勝手言いやがって!」
先ほどまでの遠慮した態度は何とやら……普段の調子を取り戻した七海は秋音と一緒になり裕作を茶化し始めてた。
騒がしい二人が一緒になって会話を進めて行き、いよいよ収拾がつかない状態になっていく。
その会話を運転席から聞いている黒川の小気味良い笑い声も加わり、さらに賑やかになり、秋音宅へ到着するまでお祭り騒ぎのように笑い声が飛び交うようになったという。
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