前車の覆るは後車の戒め
三鹿ショート
前車の覆るは後車の戒め
私にとって、父親は反面教師だった。
他の男性と関係を持ったことを、涙を流しながら謝罪してきた母親のことを許すその姿は寛容だと言うことができるが、それが繰り返されたとしても母親に対する愛情を放棄しなかったことは、愚か以外の何物でもない。
結局、父親は母親に捨てられたのだが、それでも母親のことを責めようとはしなかった。
「私の愛情が足りなかったのだろう」
儚い笑みを浮かべながら言葉を吐く姿を見て、私は父親のような人間と化すことを避けたいと思った。
だからこそ、私は他者というものに対して、常に疑いの目を持つようにしていた。
日頃から他者を訝っていれば、相手が私を傷つけるような言動に及んだとしても、それほど大きな傷を負うことはないのである。
***
当然ながら、恋人である彼女に対しては、他の誰よりもその言動を注視していた。
私に対して愛情を抱いている様子を見せながらも、私の母親のように、見ていないところでは何をしているのかが分からないからだ。
だが、彼女を束縛するようなことに、私が及ぶことはなかった。
そのようなことをすれば、彼女が私から離れていってしまう可能性が高くなるからである。
つまり、私は誰よりも彼女のことを疑いながらも、誰よりも彼女のことを愛していたのだった。
私が仕事をしている間は、金銭を支払って彼女の素行を調査させていたのだが、疑わしい様子を見せたことは一度も無かった。
それどころか、外で食事をする際などにおいて、私以外の異性も存在しているということを、彼女は私に対して事前に伝えてきたのである。
自分が私以外の男性と親しくなることについて、私が快く思うことはないと察していたのだろうか。
そのような理由によって、わざわざ私にそのことを伝えているのならば、彼女が私を裏切る可能性は低いといえるだろう。
普段の様子とこれまでの言動から、彼女のことを信じても良いのだろうか。
そのように考えたところで、私は首を左右に振った。
時間をかけて自分のことを信用させることで、私の監視の目が緩むことを期待しているということも考えられる。
彼女が私以外の人間と繋がっている姿を想像しただけで、呼吸が荒くなり、頭の中が赤く染まってしまう。
ゆえに、もしも彼女の裏切り行為を目にしたときには、自分でもどのような行為に及んでしまうのか、想像することもできなかった。
だからこそ、私は彼女に対する疑いの目を向け続けなくてはならないのである。
***
彼女は、最期まで私を裏切ることなく、この世を去った。
多くの子どもや孫と共に涙を流しながら彼女のことを見送る中で、私は己がどれだけ愚かな思考を抱いていたのかと後悔した。
彼女は、清らかな人間だったのである。
そのような人間だったというにも関わらず、私は常に疑いの目を向け続けていた。
彼女が私や子どもたちのことを心から愛していたにも関わらず、私が同様の行為に及ぶことは、一度も無かった。
動くことが無くなった彼女の頬に手を添えながら、私は謝罪の言葉を吐き続けた。
表面上ではあるが、私が彼女のことを最期まで愛していたということは、これまでの言動から分かっていたのか、子どもたちは謝罪する必要は無いと告げてきたが、それでも私は彼女に頭を下げ続けた。
手遅れだということは理解しているが、何もしないよりは良いのである。
***
「ようやく、再会することができましたね。今日ほど嬉しい日はありません」
「そのようなことを言えば、彼が泣くのではないか。いや、既に泣いているか」
「あそこまで涙を流されると、少しばかり申し訳なさを覚えてしまいます」
「それは、彼がきみのことを愛していると知りながらも、彼のことを裏切っていたからか」
「彼は、私のことを心の底から愛し、信用しているわけではありませんでした。愛してくれていたことは分かっていましたが、私に疑いの目を向けていることもまた、気が付いていましたから」
「そのことに気が付いていながらも、私と関係を持ち続けていたというのか。誤魔化すことには苦労しただろう」
「そのようなことは、ありません。私が関係を持っている相手が、まさか父親であることなど、彼は想像もしていなかったでしょうから。私が両親の様子を見るために実家へ戻るということも、彼は親孝行な娘であるというようなことだけを考えていたでしょう。彼は、常に他者を疑っていたようですが、その頭の中に存在していたものは、常人の思考のみです。私たちのような異常とも言うことができる関係を想像することができると分かっていたのならば、私は父親と関係を持つことはありませんでしたよ」
前車の覆るは後車の戒め 三鹿ショート @mijikashort
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