1-5 黒い煙

「信くん、一緒に行ってくれへん?」




 霧子たちに会った翌日の放課後、希は信がバックパックを背負ったタイミングで呼び止めた。



「え? どこに?」



「信くん、決まっているやろ? ピアノ教室やよ」

 希の背後からまりが現れ、呆れながら答えた。



「ごめんね信くん、お母さんにはあの黒い煙のことは言えてなくて、そろそろ行かな先生が怒るよって昨日の夜に言われてもて」



 信は教室のカレンダーを見る。今日は金曜日で、希のピアノレッスンの日だった。



「どうしたらええかな」



 信は腕を組んで悩み始めた。霧子や礼央に信は羽田野先生と関わってはいけないと釘を刺されている。



「希ちゃんは、礼央くんから何も聞いてないの?」


「しばらく休めってしか言われてへんかな……」


「信くんさっ、体験教室ってことで潜入したらどう?」


 まりは、信と希の肩に手を触れて笑顔で話す。


「体験教室?」



「ピアノ始めたいんですけど、まずは体験させてくださいって、一回だけレッスンをしてくれるねんよ。私、一回体験したことあってさ。希ちゃんに頼んで言ったその日にしてもらえたよ、ほんまはあかんらしいけど」



「その方法なら、信くんに一緒に来てもらっても変に思われへんね! 信くん、どうかな?」



 希は、上目遣いで信を見つめた。一人でピアノ教室へ足を踏み入れることがとてもじゃないが出来ないんだという希の強い気持ちが信の目に映る。怯えと希望が入り交じった感情が信の頭の中に入ってくるようだった。信は目を閉じ、「よし」とつぶやくと深呼吸して希の肩に触れた。




「分かったよ、でも本当に危なくなったら、僕と一緒に逃げよう。とにかく今日は先生や黒い煙の正体を探ることにするよ」


「ありがとう信くん、本当にありがとう」


 希の目から涙が溢れた。



「希ちゃんさ、羽田野先生のこと、本当に大好きなんや。やけどさ、急に変になったから、元の先生に戻ってほしいって気持ちがあるねん。私には出来へんけど、信くんなら出来るかもしれへん。言い出しっぺの私は、とりあえずそのビルの玄関で待っとるから、二人が飛び出してきたら一緒に逃げるわ」



「まりちゃんらしいね、一番先に逃げそうや」


「確かにそうかもしれへんわ」


 まりは、嬉しそうにきゃっきゃと笑う。希と信もつられて笑った。希ははっとして教室の掛け時計に目をやった。



「もう五時前や! それじゃあ、宜しくお願いします」



 希は信とまりに向かって一礼した。



「ほな行こか」

 三人は足早に教室を出て、学校を後にした。



 □■□



 希はピアノ教室へ向かっている最中に、スマホから教室の専用ダイヤルへ電話をかけた。今日は休まずクラスメイトの信と共に教室へ訪れること、信の体験レッスンを急遽お願いしたい旨を事前に伝えるためだ。緊張した面持ちで希は通話している。



 まりと信の二人は、希を不安にさせないように彼女を挟むようにして左右に並んで歩いている。希が電話を終えると安堵した表情を浮かべた。



「どないやった? 僕が行っても問題なさそう?」



「信くん、オッケーやったよ。体験レッスンは、私のいつものレッスン時間に信くんのレッスンを挟んでやることになったみたい。電話は、受付におる杉野さんがいつも出るんやけど、今、上階の教室で、エレクトーンの配置替えをしとるみたいで、代わりに羽田野先生が電話に出てくれた」



「えっ、先生が電話に出たん? 希ちゃん、電話している時、何も問題なかったん?」



 まりは慌てて希に声をかけている。かなり心配しているようだ。



「特に問題なかったかな。ちょっとだけ先生の声が普段より落ち着いとるくらい? かな」


「いつもはテンション高いの?」

 信は冷静な表情で希に話す。


「思い返すと、いつも幼児クラスと小学生の低学年クラスが私のレッスン前にいくつかあるからかな? テンション高くしてレッスンされてて、演技っていうんか、小さい子たち相手やから、敢えて高めにしとる気がする。そのままの状態で私のレッスン時間を迎えるから急にテンションは下げにくいのかも」



「じゃあ、いつもとはやっぱり違うんやね」

 信は深呼吸をして進行方向に目をやる。



「あっ、あそこやんね希ちゃんの教室」



 まりが指さす先を見ると、古いビルが車道沿いに建っていた。



 ビルの二階と三階の窓ガラスにはそれぞれ〔音楽教室〕や、〔体験レッスン受付中〕などと色褪せて大きく書かれたラミネートが貼られている。太陽光の影響で文字の周りにプリントされた花やフルーツ、音楽記号が掠れてほとんど見えなくなっていた。


 一階には美容室があり、一部洋風な鉄柵が美容室のドア前に設置され、そこにしおれた朝顔が巻き付いていた。音楽教室のビル以外は水田が広がり、少し離れたところに、格安の有料駐車場や、不動産会社やカフェ、歯医者が入った三階建てのビルがぽつんと建っているくらいだ。道路沿いには雑草が生い茂る中、誰が管理しているのか分からない花壇があり、オレンジと赤のマリーゴールドが見事に咲き誇っている。




「なんかほんま田んぼばっかりやな」

 信はマリーゴールドを眺めてつぶやいた。



「しゃーないやん、ちょっとした田舎やねんから」

 まりはため息をつきながら答える。



「ちょっとした田舎って、もうそれは田舎やん。少し田舎であることに抵抗してると思うわ」

 まりは、呆れた顔をして肩をすくめた



「信くんはね、ほんまの田舎を知らんだけ。ほんまの田舎はすごいで。なーんもないっ」

「そんなに何もないん?」

「驚くほどない。全部田んぼ。ビルなんか存在せん」



「二人とも、話してるけどビルの目の前まで来たよ」

 希が二人に話しかけた。




「ごめん希ちゃん。じゃあ、まりちゃんここで待っとってね」


「はーい。潜入捜査気をつけてね」


 まりは敬礼のポーズをとった。信と希は、まりにぎこちない敬礼を返し、ビルの中に入った。

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