1-6 黒い煙

 信と希は階段を上がって二階へと向かう。


「そういえば信くん、礼央くんの気になることって、結局あれ何?」

「あー、それは時期に分かると思う」



 信は自分の口から言ってはいけないなと、当たり障りのない回答をした。



「何それ、気になるなぁ」


「希ちゃん、今は潜入に集中しなあかんよ」


「そうやった、信くん来てくれるから安心してもて……」


「それ、礼央くんの前で言うのは止めといた方がいいかも」


「え、前に言っちゃった」


「あー……そうなんや」



 信は複雑な表情を浮かべた。二人は階段を上りきり、廊下に進んだ。音楽教室のガラス扉が見える。


 ガラス扉の奥には受付カウンターが見える。やはり杉野はいないようだ。


「じゃあ僕から入るよ」



 信はガラス扉をゆっくりと開け、中に入る。希の記憶で部屋の様子は分かっていたので、迷いなく右奥のレッスン部屋へ目線を移した。レッスン部屋の木製扉は閉じられており、扉の隙間からピアノを演奏する音が漏れていた。



「中に羽田野先生がいるみたいだね、とりあえずノックするよ」


 信がレッスン部屋に恐る恐る近づく。希は息をのんだ。信は深呼吸した後、扉を三回ノックする。


「羽田野先生、初めまして、山下信です」


 信が声をかけた瞬間、ピアノ演奏が止んだ。



 ピアノ椅子の足と床が擦れる音が響き、カツン、カツン、とヒールの足音が徐々に扉に近づいてくる。


 信は二、三歩後ずさりした。足音がする度に心拍数が上がっていく。





「ようこそ、山下信くん」





 信は声にならない悲鳴を上げた。





 声は扉の向こう側ではなく、真後ろから聞こえたのだ。





 身の毛もよだつ状況に、震え上がる。同時に、後方にいた希の気配を感じないことにも気付いた。




 信は、もうどうなってもいいと歯を食いしばり、後方へ勢いよく振り返った。真後ろには誰もいなかったが、希が床にうつ伏せになって倒れていた。



「希ちゃん!」



 信は希に駆け寄ってうつ伏せになっている希を仰向けにした。希は顔面蒼白で意識を失っている。




「ああ、どうしようどうしよう」




 額に汗を大量にかき、手が震える。礼央や霧子に止められた意味をようやく理解した。


 自分には何も出来ない相手だと今更になって気付いたのだ。



 呼吸も荒くなり、頭が真っ白なった。咄嗟にレッスン部屋が気になり顔をあげると、扉が鈍い音を立てて、ゆっくりと開いていく。







「可哀想な子、君も、私も」






 部屋の中から大量に黒い煙があふれ出し、凄まじいスピードで信と希を飲み込んだ。受付フロア全体に充満すると、信は耐えきれず黒い煙を吸い込んでしまい、希に覆い被さるように倒れ込んだ。





「馬鹿野郎!」





 ガラス扉が勢いよく開き、眩しい光が黒い煙をつんざく。羽田野の金切り声がビル全体に響き渡る。




 光の元に立っていたのは礼央だった。




「祓え給へ清め給へ! 祓え給へ清め給へ!」





 礼央が略祓りゃくはらへことばを唱え、二回大きな音で柏手を打った。



 一回目の柏手で突風が吹き渡り、受付フロアの窓ガラス全てが割れ、黒い煙が窓の外へ追い払われ消えた。二回目の柏手で羽田野の姿が跡形もなく消滅した。



 礼央が信と希の元へ駆け寄り、廊下側へ振り返って叫んだ。




「熊田ぁっ! 救急車を呼べ! 二人とも息をしてないっ死ぬぞ!」



 廊下にはまりが立っていたが、あまりの恐怖に呼吸を乱し、涙を流していた。



「わっ分かった、今、今呼ぶからっ」

 まりは、ポケットのスマホを取り出し、震える手で119をダイヤルし電話をかける。




「何あれ何あれ何あれ、ほんと意味わからん」



 動揺するまりの後方から、三階にいた杉野が焦った表情で駆け寄った。階段側には他の生徒や保護者がこちらの様子を伺っている。




「何があったの! 悲鳴と窓ガラスが割れる音が聞こえたんだけど」



「近づくな!」

 礼央が鋭い目つきで杉野を睨み付け、大声を上げた。杉野は礼央の声で身体が動かせなくなった。





「何これ、身体が動かない」



「死にたくなかったらこっちに来るな、熊田が救急車を呼んでいるから、この場所を正確に救急隊員に伝えろ!」



 杉野は、礼央の言葉の一つ一つに物理的な圧をビリビリと感じていた。そのたびに身体が硬直するのを覚えた。



 見た目では考えられない威圧感だ。杉野は言葉を発することなく礼央に向かって頷き、まりのスマホを受け取った。



「希を巻き込みやがって、目ぇ覚めた時は覚えとけよ信」



 礼央は鬼の形相で信を睨み付けていた。希に覆い被さっていた信を仰向けに寝かせ、希の肩を抱えて、強く抱き寄せた。



 右手で優しく背中をさすって、首の付け根あたりで手を止め、何かをつまみ出すような所作をとった。手には黒い炎がまとわりついていた。




「これだけ濃いのが……、ごめんな希、そばにいればよかった」



 左手で希の頭を撫でた。礼央の表情はいっそう険しくなり、黒い炎が纏った右手の拳を強く握りしめた。




「祓え給へ、清め給へ」




 力を込めると白炎びゃくえんが出現し、黒い炎は消滅した。





「祓え給へ、清め給へ」





 礼央は白炎を纏った右手で、信の身体に触れた。白炎は信の身体全体に広がり白い光を放ちながら燃えている。




 割れた窓ガラスの外から、救急車のサイレンが徐々にビル側に近づいてくる。二つのサイレンが鳴り響いているため、二台で来ているのだろう。



 礼央は希を両手で抱き、静かに泣いた。

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八月の約束 榊亨高 @sakaki_michitaka

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