1-2 黒い煙

 学校に到着し、三階の教室へ二人は向かっていた。


「おはよう! 信くん希ちゃん」

 

 二年一組の教室からスキップをしながら熊田まりが現れ、二人に声をかけた。


「おはようまりちゃん、今日は特に元気やね」

「まぁね、ええことあってん」

「ええことって?」

「内緒! まぁ内緒にしててもバレるやろけど」

「そんな、勝手に視たりせえへんよ」



 彼女は希と同様に、小学三年生の頃からお互いを下の名前で呼び合うほど仲の良い友人である。また、信と希が視えないものが視えてしまうことを家族以外で知っている人間だ。校舎の三階まで階段を上がりきったところで、まりが希の顔を覗き込んだ。



「希ちゃん、なんか元気ないなぁ? 大丈夫?」

「まりちゃん、実は、ちょっと嫌なことがあって信くんに相談する予定やねん」

「そうなんや、私も聞いたらあかん?」

「まりちゃんも一緒に聞いてくれると心強い」

「ほな、私も参加するわ」

「じゃあまりちゃん、放課後に僕らの教室で集合ってことでいい?」

「オッケー」



 まりは信と希の二人とは別のクラスで、二人と別れて教室に向かった。



「希ちゃん、本当に大丈夫だった?」

「うん、信くん、気を遣ってくれてありがとう」

「じゃあ放課後に」



 二人は教室に入り、それぞれ放課後までお互いに話すこともなく過ごした。



 ◇◆◇


 放課後、三人は誰もいなくなった教室のドアを閉め、窓際を背にして座り、話をすることになった。



「ごめんね、二人とも時間を作ってくれて」


 希は、申し訳なさそうな表情で信とまりに頭を下げる。


「全然大丈夫、気にしないで」

「ほんまやで希ちゃん」

「ありがとう」

「……それで、相談したいことって?」



 希は俯き、深呼吸をしてから話し始めた。



「私、小学一年生の時からピアノ教室に通ってて、ずっと同じ羽田野先生って女の先生に習っているんだけど、その、……この前のレッスンで先生に会った時、様子がおかしくて」



 希は言葉を詰まらせ、俯き、どう話して良いか困惑し始めた。希の様子をしばらく観察していたまりは、信の肩を人差し指でトントンと触れて、耳元で囁く。



『なんか言いにくそうやから、信くんちょっと覗いたら?』

『えっ、あぁ、うん』



 まりに促されるまま、希の頭の中を覗くことにした。



「希ちゃん、言いにくそうやから直接視るね、手、少し触れても良いかな?」

「うん、ごめんね、ありがと」



 信は椅子を希側に寄せて、彼女の右手の甲に指先だけ優しく触れた。



 目を閉じ、目の前に座る希の姿を、頭の中で同じように想像する。そして、希の眉間をカメラのズームのように拡大していき、そのまま眉間の内側へと吸い込まれるように入り込む。まさに希の中へ信の意識がダイブしている状態だ。信は人に触れると触れた相手の過去の記憶を視ることが出来る。





 希の中へ入り込むと、信は受付カウンターがある部屋の中央に立っていた。




 カウンターの真正面はガラス扉があり、扉には音楽教室と文字が掠れて印字され、扉の向こうには廊下が続いている。壁はところどころに黄ばみや傷があり、新商品のエレクトーンを宣伝するポスターや、音楽発表会の日程表が掲示されており、老舗の音楽教室であることがわかる。



 受付には二十代後半の女性が座り、ノートパソコンやファイルなどを広げて事務作業をしている。胸元のネームプレートには杉野と書かれていた。カウンターの手前にはベンチがあり、そこに制服姿の希が座っていた。希は読書をしており、二人とも信の存在に気づいていない。



 カウンターに向かって右側には、木製の扉があり、扉には〔羽田野先生レッスン中〕と札が掛けてある。ところどころ隙間があるせいで扉の向こう側からピアノの音が漏れていた。


 時計が午後五時三十分になると、演奏がピタリと止んだ。



 信は、扉の隙間に注目した。微かに黒い煙が隙間から漏れ出ている。


 隙間から漏れた黒い煙は、床に滞留するも、徐々に信の足もとに近づいてくる。信は黒い煙に足先が触れないように後退した。




 杉野が「希ちゃん、どうしたの?」と声をかけているので、信は希に目線を移した。



 希は扉をまっすぐに見つめたまま身体を震わせ怯えていた。再び扉の方を見ると、扉が開き、小学生数人が勢いよく黒い煙の中から飛び出し、ガラス扉を開けて廊下をかけていった。信は驚いて、ガラス扉の近くまで後退した。



 レッスン部屋からは黒い煙を纏った羽田野と思しき女性が出てきた。顔色が悪く、胸部から黒い煙が溢れ出ていた。部屋の中は黒い煙が充満して何も見えなくなっている。



 羽田野が希と杉野に笑顔で話しかけているのに対し、希は何とか笑顔を保ちながら話を聞いているが、体は強張ったまま辛そうにしている。



 黒い煙のせいで、信は気分が悪くなっていた。希が言葉に詰まるのも理解できる。例え記憶の中でも悍ましい黒い煙の中で居続けることは苦痛だった。



 そろそろ希の記憶から出て行こうかと信が思い始めた時だった。






 希に話しかけていた羽田野が急に黙り込み、笑顔が消え真顔になった。







 信はハッと息をのむ。足が石のように硬くなり自由に身動きが取れない。






 目の前にいる希と杉野は、ピタリと動かなくなった。信の鼓動は速くなる。すると、羽田野が信にぎょろりと目をむく。









『視たな?』









「わぁっ!」




信は額にびっしょりと汗をかき、教室の天井を見つめ、椅子ごと後方へ倒れ込んでいた。

希とまりは驚いて声を失っていた。





「どうしたん信くん、何があったん?」



 まりは動揺して立ち上がっていた。


「……こんなん初めてや」


 信はゆっくりと起き上がり、倒れた椅子を元に戻した。


「信くん、何が視えたん?」


 希は、恐る恐る信に声をかける。





「僕に気づいてた。記憶やのに、羽田野先生が僕の眼を見て『視たな?』って言うた」




 希とまりは凍りついた。幽霊がたとえ視えなくても、信の言葉に想像以上に恐怖していた。




「どういうことなん、それって普通ありえんやろ?」



 まりは声を震わせながら信に問いかけた。




「分からへん、僕も初めてや、あんな怖いこと初めてや」



 信も想定外のことで動揺していた。



「そこで何を話しとるんや?」



 急な呼びかけに驚いて、三人は声がする廊下を凝視した。



「何やねん、そんな目でこっち見んなや。ただ聞いただけやろが」



 廊下には同級生の高橋礼央たかはしれおが立っていた。白いパックパックを背負い、日焼けした肌と毛先が金髪という印象的な希の幼馴染だ。



「礼央くん、ごめん、びっくりしてもてん」



 希は焦って言い訳をした。



「希も、山下も熊田も、三人とも顔色が悪いぞ。帰宅部は早よ帰れって先生が言うてたで」




「ごめんね礼央くん、ありがとう」



 希は廊下にいる礼央に駆け寄って頭を下げた。



「急に近づくなや! キッショいな」



 礼央は希に言い放つと口を歪ませ、舌打ちをしながら早歩きで立ち去った。



「高橋くん、なんかピリピリしているね、何なんやろ」



 まりは首を傾げて信に問いかけた。



「キショいは良くないよね、ただ……軽くなったね」

「軽くなった? どういうこと?」

「あー、何でもない。気にしないで」

「何で誤魔化すん?」

「……気のせいかもしれないんだ」

「気のせい?」



 まりは信の顔を覗き込むが、信は目を逸らしたままだった。



「何やろなぁー」



 希が二人の元に、しょんぼりした表情で歩み寄った。



「まりちゃん信くん、礼央くんがね、最近私に対してイラついたり冷たいねん。何か私、気に触ることしたんかな?」

「うーん。それは大丈夫。それよりもちょっと気になることが」

「気になること?」



 信は教室の窓から校門付近を眺めた。校門の外側の歩道から礼央がこちらを見上げていた。



「むしろ、逆かも」



 信はバックパックを背負って教室から駆け出し、校門へ向かった。



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